「お願いです三蔵」
めくるめく行為の後、八戒が妖しく耳元で囁く。
「ずっと……僕とここにいて下さい。ねぇ……いいでしょう? ここでずっと僕を抱いて」
陽はすっかり沈み、あたりは暗くなってきた。薄暗闇で八戒の表情も定かではない。翡翠色の瞳が夕闇に残ったわずかな光りで妖しく煌めく。
「ずっとずっとここにいて……ね、もう西なんか行かなくたっていいじゃないですか」
八戒は交合の後、閨の寝物語のように三蔵をかき口説いた。躰ですがりつく。
「西へなんか行かないでずっと僕とここにいて……」
熱っぽく潤む瞳には魔力があった。どんな男だろうと、肯かずにいられない目だ。
――――強力な術がかかっていた。
しかし、
「そいつはできねぇな」
三蔵はきっぱりと言った。下肢に簡単な服を身につける。
「てめぇの頼みでも、それは聞けねぇ」
我慢できずに八戒の甘い躰を抱いてしまったが、調教済みの八戒といえど、この男の精神を完全に腑抜けにはできないようだった。美麗な外見に似合わぬ頑固な内面を最高僧はもっていたのだ。
三蔵は続けて言った。虚空に向って呼びかけた。
「悪趣味だな。そこにいるんだろうが」
相手がそこにいることを確信した、きっぱりとした語調だった。
「何が占い師の 『大ガラス』 だ。笑わせやがる。くせぇ芝居しやがって」
闇に向って鼻先で嘲笑った。
「你健一、いや烏哭」
外では夜の帳が降りつつあった。寝台の外、部屋の燭台に灯かりがぼんやりと点いた。
「あっれぇ? ボクの術が破れたの? 流石は玄奘三蔵法師サマだよネェ。願いを叶えてやろうと思っていたのにさ、最後までおとなしくしていればいーのにさァ」
突如――――おなじみの城の主、黒衣の男が虚空から現われた。黒衣。いや、正確にはいつもの黒い装束の上に、今日は正式な三蔵法師の僧衣を身につけている。淫猥に歪む口元、光る眼鏡、肩先までの襟足の長い黒髪、知的だがどこか底知れぬ虚無をひそめた姿。
確かにそれは吠登城の科学者你健一、――――烏哭三蔵法師そのひとだった。不吉なカラスそのものといった邪悪な微笑みを口元に浮かべていた。相手をバカにしている表情だ。
「何が俺の願いだ。てめぇ――――」
三蔵は歯ぎしりした。腕の中には八戒がいる。今更とは思ったが、敷布でその躰を包んだ。
「キミが抱きやすいようにしてあげたんじゃない」
しゃあしゃあと烏哭は言った。
「てめぇ」
「八戒ちゃんをずっとあんな風に扱いたかったでショ? 我慢しちゃってサ。素直じゃないんだからホント。知ってるんだから。散々、マスかく時のオカズにしてたじゃない。ボク、そーゆーの分かっちゃうんだけどナァ」
くっくっくっと下衆な笑い声を立てた。
「ボクの親切心が分かんない? 」
三蔵は怒りのままに形相を変えた。この男だけは許せなかった。そんなことのために、八戒を捕らえ、性の地獄に監禁し、その躰を好き放題に調教したのだ。その結果、凛々しくて清廉だった八戒はあんな――――男を誘う魔性めいた存在に変わってしまった。許せない。ぶっ殺してやる。三蔵は唇を噛んだ。
「悪いケド、八戒ちゃんはボクっていうよりキミらに散々ヤられちゃった記憶しかないと思うよ」
烏哭はまるで三蔵の思考を読んだようにうそぶいた。
「キミ、撃ち殺しちゃったでショ。 『あのふたり』 ボクの生体工学と妖術の傑作だったのにナァ。乱暴なんだから」
三蔵の脳裏に、先ほど見た自分と悟浄そっくりの男ふたりが浮かんだ。即座に撃ち殺してしまったが、あれもやはりこの外道な男が作ったのだ。あんなモノを使って八戒に無体を強いていたと聞いて、三蔵の腹のうちは煮えくり返りそうだった。
「苦労したんだよぅ。キミたちの部屋に入ってさ。地道にサンプル収集したりして。あ、サンプルは髪の毛とか、ハブラシについてる口の中の粘膜とかでいーから簡単は簡単なんだけどサ」
烏哭は科学者だ。三蔵や悟浄の部屋に侵入し、普通は 『なくなっても気にもとめないもの』 『なくなっても気がつかないもの』 ―――落ちている髪の毛だとか、ハブラシについている組織片だとかだの、要するにゴミの類をあさってサンプリングしたのだ。そのデータを元に三蔵と悟浄の複製を作った。もっともDNAデータのみの複製だから、三蔵と悟浄が後天的に獲得したデータは含まれていない。それは、悟浄の場合は頬の傷であり、三蔵の場合は銃を扱う腕であったりしたのだ。
『顔は男の履歴書っつーじゃん』 奇しくも悟浄の言葉は的を得ていた。本物、そう、オリジナルが 『経験』 で獲得したものは複製であるコピーが獲得することはできなかったのだ。
「……なんのためにこんなことをしやがる。てめぇ」
烏哭は芝居がかった調子で答えた。
「牛魔王サマには甦って頂かなくては困るしね。その時こそ、妖怪がこの世を支配するのだよ。玄奘三蔵法師。ここは、貴様のために設えた、甘い蜜の」
罠。
けれん味たっぷりに言うと、次の瞬間腹を抱えて笑い出した。
「なぁーんちゃって。嘘。本当はボクのヒマツブシ ? 」
「てめぇ」
三蔵は激昂した。そんなことのために八戒をあんな――――男を誘う妖しい淫魔のような存在に変えてしまったのだ。颯爽としていた八戒、それが三蔵の腕の中で甘くオスをねだるまでに変貌させられてしまっている。
「キミ意中の愛しい「下僕」をお望み通り、抱き人形に変えてあげたんじゃない。二年でも三年でも、いや……永遠に。キミにこの歓楽の館で過ごして頂けるよう骨を折ってあげたんだよ。親切でしょ? ボクって。それが……やれやれ……水の泡だよネェ」
足止め。
ただの足止めのためだけに、八戒を。
「てめぇ」
ぶっ殺す。三蔵がそう言葉を継ごうとしたそのとき。
地鳴りがした。
「キミとこうやって遊んでいたいけど」
烏哭はにっと口端をつりあげて笑った。つくづく腹の立つ男だった。
「もう、そうも言ってられないかなァ。結構、ボク忙しいんだよね――――でも八戒ちゃんはすっごく――――悦かったよ。ごちそうサマ」
「烏哭! 」
三蔵は魔天経文を唱えようと手を組んだ。一矢報いてやらねば気がすまない。
しかし、 烏哭もただ者ではない、三蔵が攻撃しようとした次の瞬間、姿を消していた。
「どこに行きやがった! 」
天蓋つきの寝台から出ると、下僕ふたりが寝こけているのが見えた。
それを鬼畜にも足で散々に蹴って起こす。
「ん……? 」
「敵が逃げやがった。追うぞ。八戒を頼む」
「え……? 」
ようやく、いかがわしい香の匂いも消えたと見え、悟空と悟浄は簡単に目を開けた。
「八戒? 」
「八戒いたの? ホント? わーい! 」
三蔵の腕の中で敷布にくるまれている八戒の無事な姿を見て、ふたりとも喜色を浮かべている。
「それどころじゃねぇ。烏哭の野郎が! ともかく追うぞ」
「ちょ……でもよ」
今、気がついたというように、悟浄が天井を見上げた。
「なんか……おかしくねぇ? 」
「ああ? 」
そうだった。
香の匂いが跡形もなく消え、悟空と悟浄が起きたことから、気がつくべきだった。香の匂いが消えたというより、烏哭が城にかけていた全ての術を解いたのだった。天井から細かい砂状の破片が落ちてくる。一瞬の間の後、壁の華麗なイズミックタイルに亀裂が入った。横といわず縦といわずひびが入る。轟音を立てて粉々に崩れた。
「早いトコずらからねぇ? お約束みたいに、この建物崩れてきてんだけど」
「さんぞー! この城ってば砂でできてるー! ひえー!! 」
恐らく、この城自体が烏哭の術でできていたのだろう。壁も天井も、崩れた端から砂へと姿を変えた。
「うっせぇ! サル! カッパ! 八戒かついで走れ! 」
鬼畜坊主は怒鳴った。
「クソ……! 」
この落とし前、どうやってつけてやろうか。とんでもねぇことしやがって。
「野郎ぶっ殺してやる」
三蔵は唸ったが、もうどうにもならなかった。
「だから崩れてるっての! 」
執念深い三蔵の肩をつかみ、悟浄が叫ぶ。放っておくと、城の奥へ烏哭を探しに行きかねない勢いだったのだ。
「おい! これってもうダメなんじゃん? 」
悟空が唖然とした面持ちで呟いた。訳がわからなかった。気がつけば、砂嵐に巻き込まれたようになっていた。このままだと砂に取り込まれて死ぬだろう。
そんな、慌てふためく一行の前に飛竜が舞い降りた。変事に駆けつけたのだ。つくづく忠義ものだ。
「ジープ! ジープが! 」
「おおッ。賢い! 」
ジープはすかさず、車へと形状を変えた。
「乗れ! バカどもが! 」
三蔵が怒鳴った。
「バカはどっちだ。クソ坊主が! 」
悟浄が怒鳴り返した。ここは諦めて脱出するしかなかった。
こうして。妖しい中庭をジープで走り抜け、車用にできていない通路をでたらめに突破し、城の門を強引に破って外へと出た。辛くも、そうやって三蔵達が脱出したとき、 華麗な城は砂煙の向こうに崩れるようにして消えた。
それは空中楼閣。砂の上の蜃気楼――――砂上の楼閣。
月明かりの下、砂漠の城はその姿を完全に消した。
「砂上の蜃気楼(22)」に続く