今夜、俺の部屋に来い(6)

「三蔵。お茶にしませんか」
「ああ」
 三蔵は、経文を読んでいた顔を上げた。眼鏡をかけている。少し、右目が良くないのだ。ときおり眇めるような目つきをすることがあるが、それはそのせいだ。
 眼鏡をかけた三蔵は、いつもと雰囲気が違った。美麗というより知的な面が強くなる。八戒の姿を認めて少々驚いているようだ。その驚きには、喜びも混じっていたが、羞恥心に苦しめられていた八戒は気がつけなかった。
「悪いな」 
 三蔵がそう言って、じっと眼鏡越しに見つめ返してくる。レンズ越しの暗紫の視線に捕らわれそうになって、思わず八戒は目を逸らした。
 盆から白い陶製の湯のみを手に取り、横を向いたまま傍の書机へ置こうとした。三蔵が湯のみへ自分の手を出して直接、受け取ろうとする。ふたりの間では、おなじみの行為だった。
 しかし、
 茶を渡そうとして、お互いの指がかすかに触れた。その瞬間。
 思わず、八戒は手を離した。湯のみが派手な音を立てて、床へ転がった。
「うわ! すいません」
 湯のみは無残に割れ、床に茶がこぼれた。うかつだった。
「……経文やまわりの本には飛び散ってねぇみたいだな。問題ない」
 三蔵が眼鏡のブリッジを指で下げるようにして、裸眼で周囲を素早く見渡す。八戒に比べて憎たらしいほど冷静だった。
「か、片付けます」
 八戒は思わず、慌てて膝を屈めて床へと這った。そんなに湯のみは細かく割れてはいなかったようで、掃除に手間はとられずに済みそうだった。直接、手で白い陶片を拾い集める。お茶で濡れたところはもってきていた布巾で拭いた。
「三蔵はいいですったら。大丈夫です。僕がこれは」
 見れば、三蔵が手伝おうと屈みこんでいた。珍しいこともあるものだった。
「服が汚れますよ。三蔵」
 着ている白い僧衣を八戒は気づかった。あの長い袖が床に触れると汚れてしまうだろう。
すっかり三蔵の仕事の邪魔をしてしまった。それなのに、舌打ちも、毒舌も吐かれなかった。それどころか、淡々と湯のみの欠片を探している。八戒のためにだ。この傲慢不遜の権化のような三蔵様がだ。とても信じられないと悟空も悟浄も言うだろう。今夜は雪でも降るに違いない。
 とても目が合わせられなかった。どうしても意識してしまう。早いところ、こんな割れ物など片付けて、立ち去りたかった。ふたりっきりでいるのが恥ずかしくて居たたまれない。
 そんな状況で、あせっていたからだろうか。
「痛っ」
 八戒が指を押さえた。
「バカ、何やってる」
 拾い集めた湯のみの、鋭く割れたところで指を切ってしまったらしい。指先にうっすらと血がにじんでいる。
「貸してみろ」
 三蔵に手首をつかまれた。勢いで黒い縁取りのある緑の袖が揺れる。
「たいしたことありません。三蔵……さんぞ……! 」
 止める間もあらばこそだった。三蔵にケガをした指を口に咥えられた。そっと傷を癒すように舌でゆっくりと舐められる。
「さん……」
 羞恥に今度こそ、八戒は真っ赤になった。現実とも思えなかった。もう、割れた湯のみのことなど、頭から飛んでいる。床に座り込み、三蔵に指を吸われていた。三蔵の口の中、舌や粘膜の感触を感じて震えた。熱くて溶けてしまいそうだ。
「八戒」
 その端麗な唇から、八戒の指をようやく解放して、三蔵は言った。唇と指の間に、銀の糸のように唾液が橋をかけている。それをピンク色の舌先で巻き取るようにして切っている。
「朝、俺の名前、呼んでたそうだな」
 三蔵の唇がかすかに濡れている。眼鏡をかけた知的な姿と、今されたことの落差が激しくてついていけない。八戒は頭が真っ白になり、すくんだように動けなくなった。三蔵の腕が伸びてくるが、もう抵抗もできない。逃げられなかった。白い肩布をかけて結んだ腰のあたりへ熱い腕を回され引き寄せられる。
「何故、俺を避ける」
 低音で囁かれ、そのまま優しく抱きしめられた。何度もこの顔を思い出しながら、自分を慰めているのに。そして、性的な衝動の赴くままに三蔵のことを想いながら自涜しているのに。
「どうして俺と目を合わせない」
 合わせられるわけがなかった。この長くて綺麗な。でも銃を扱いなれた男性的な指。これで慰められるのを想像しながら扱いていたのだ。それから、この目の前にある整った、やや肉厚の唇であそこを舐められるのを考えながら散々自慰をしているのだ。
「さん……ぞ」
 脳が煮えたように熱い。もう羞恥で何も考えられなかった。それなのに、三蔵は唇を重ねてきた。そっと優しくキスされる。
 そして、
「今夜、俺の部屋に来い」
 耳元で甘く蕩けるように囁かれた。淫らな調べをその言葉は含んでいた。聞いた瞬間、ぞくっと背筋が溶けてしまうような心地になる。いけない。聞いてはいけない。これは紛れも無く誘惑の言葉だ。捕食者の言葉だ。でもどうして、三蔵がそんな。自分などを。どうして。黙っていると、桜色の舌先で、唇をなぞられる。ものすごい陶酔感に、身体が指先まで痺れて動けなくなる。ひどく性的なキスだった。
 八戒が混乱していると、廊下から足音が聞こえた。土づくりの円楼だから、あまり物音は響かないが、それでも多少の音はする。誰かが廊下を歩いているのだ。
 足音は三蔵と八戒のいる書庫のドアの前で止まった。誰かにこんなところを見られたらと八戒は顔を赤らめるが足が震えて動けない。一方、三蔵は堂々としたものだ。八戒を腕に抱いたまま、平然として眉のひとすじも動かさない。ドアの方を睨みつけている。
「玄奘、お茶は済んだか。もし、もっと経文について調べるのなら、この寺院の奥に、もうひとつ書庫があるが」
 紗烙の声だった。
 ドアの外から呼びかけている。調べ物をしている三蔵の邪魔をしないよう気づかったのだろうか。中へは入ってこようとしない。
「そうか」
 八戒を抱きしめたまま、三蔵が短く返した。全く通常と変わらぬ、動揺など髪の毛ひと筋ほども見えない冷静さだ。
「古い経文の写本を集めた、古ぼけた書庫だがな。興味があれば言ってくれ」
 紗烙は怪しみもしていない。
「ああ」
「それを伝えようと思ってな。それだけだ、じゃあな」
 三蔵の応えを聞くと、紗烙は立ち去った。たちまち、ドアの外から人の気配が消えた。廊下から遠ざかってゆく紗烙の足音が聞こえてくる。
「チッ」
 三蔵が思わず舌打ちする。そんなところは確かに三蔵だった。その白皙の美貌と呼ぶ他のない顔を向け、名残惜しそうにしつつも、八戒の傍から立ち上がりかけた。
 しかし次の瞬間、何か思い出したように動きを止め、八戒のそばへとまた屈み込んだ。
 そっと、耳へ口を寄せる。
「……待ってる」
 甘い口調で再び囁かれた。待ってる。誰を? 待ってる何のために? 待ってるどうして? 今の言葉は一体誰に対して言われたのかすら分からなかった。
 自分へだなんて確信は八戒には持てなかった。もう現実とも思えない。妖しい白昼夢を見ている気がした。あの恥知らずな淫夢の続きとしか思えない。三蔵のことを想像して罪深いことをしているから、こんな罰が当たったのだ。
 八戒の想念など知らぬ気に、三蔵はドアを開けるときに一瞬、後ろを振り返った。華麗なすらりとした姿。秀麗としか表現しようのない白く整ったその面に真剣な表情を浮かべている。
 三蔵にしてみれば、今までの言葉は約束に等しいのだろう。八戒へ熱い視線を送ると、ようやくその背を向けた。
「さん……」
 思わず、八戒は、閉まったドアへ駆け寄った。三蔵の姿が無くなると、濃密な空間にかかっていた魔法が一気に解けてなくなったようだった。
 左右の廊下を見渡し、小さくなってゆく三蔵の後ろ姿をなんとか見つけた。白い僧衣の裾をさばき、歩いてゆくその華麗な姿をひたすら見つめた。見つめるしかなかった。
 何か、夢のような、魔でも通ったような時間だった。指先まで甘い感覚に浸されている。毒針を刺されて、全身が麻痺して喰われる綺麗な蝶々。いまや八戒はそれに似ていた。
 抵抗など、とてもできない。できそうになかった。
「あ……」
 身体を支えきれず、黒髪の従者は書庫のドアにもたれるようにして崩れ落ちた。






 「今夜、俺の部屋に来い(7)」に続く