今夜、俺の部屋に来い(5)

 朝食の時間になった。土楼に囲まれた寺院の窓から、朝日が差し込み、絨毯に座った三蔵一行4人の影を床につくっている。

 三蔵と一緒に食事をとるのも居たたまれない心境だった。目が合わせられない。敷かれているのは段通の絹絨毯だ。西域風の唐草模様がひどく上品で渋い。その上に直に座っていた。絨毯に布が置かれ、料理の載った大皿が並んでいる。皿から取り分ける方式だから目立たないが、実のところ八戒はほとんど料理に箸をつけていなかった。
「あっれー八戒、調子悪いんだー? 」
「い、いえ悟空。そんなことは」
 そんな八戒のことを、三蔵が紫色の目でじっと見つめてくる。朝の光の下、改めて見ると、三蔵は本当に神々しいまでに美しかった。淫らな夢の中でよりも、実物の方が数倍は麗しい。 やや癖のある前髪が金色に輝いて窓から差し込む陽の光を跳ね返している。着ている白い僧衣と相まって眩しいような姿だ。
「大丈夫か」
 そんな彼が食事の進まない八戒へ探るような、心配するような視線を執拗に送ってくる。逃げ出したかった。八戒といえば目の前にいる、この美しい男に抱かれることを想像して精液を垂れ流してしまっているのに。八戒は自己嫌悪で死にたくなった。

 そのときだった。廊下にやや軽い足音が聞こえてきた。こちらへ近づいてくる。
「邪魔か。玄奘」
 ドアの向こう側から響いたその声に、八戒といえば救われた気持ちになっていた。
「紗烙か」
 三蔵が応じた。ドアが開く。毅然とした態度と姿を持つ、土楼の主が不敵な表情で笑っている。顔の両頬を走る傷。意思の強そうな唇。長い髪。どこか勝気な霊鳥を思わせる。そう高貴な鳳凰の長い尾羽根によく似た髪がその背中で揺れている。
「とりあえず、楼の中を案内しよう。来い」
 紗烙があごでしゃくって、廊下の方を指し示した。


 廊下に5人分の足音が響く。中は木造なので、そんなに反響しない。回廊のようなつくりで外の中庭へ通じている。そんな廊下を通り抜け、寺院を取り囲む5層立ての円楼へと階段で上った。大勢のひとびとの生活の匂いがする。
「あちらへ行くと部隊の連中の住むところだ」
 紗烙がぶっきらぼうに、しかし親切に説明してくれた。
 一番外側の土楼は5階建ての高い建物で円状をしており、内側にしつらえた廊下で各部屋が繋がっている。更にその内側にも円に沿うようにして何重にも瓦屋根の建物が建っている。
「こっちが外側の土楼と中央の寺院を繋ぐ廊下だ」
 八戒は説明を聞きながら、ほっとしていた。解放された気分だった。もう、これ以上あの紫色の視線に見つめられるのに耐えられなかったのだ。
 どうしても意識してしまう。そわそわして落ち着かない。三蔵へ顔を背けるようにして、立ち上がろうとした。身動きしたとたんに、自分の身体から精液の匂いが漏れた気がした。あの後、服も換えたし、身体も洗ったのに。それでも、自分のどこかに自涜の残滓が残っているようで、身じろぎをするたびにそれが香る気がする。栗の花に良く似た匂いだ。惨めでひどく恥ずかしかった。
 しかし、そんな八戒の思いを知ってか知らずか。
 紗烙の案内が始まると、三蔵はよりによって八戒のすぐ隣へと寄ってきた。本当なら、三蔵法師さまの三蔵は紗烙と並んで歩くべきだった。それなのに、最高僧様はタバコを吸いながら、悠々とした態度を崩しもせず下僕の隣にぴったりと寄り添うようにして離れようとしない。土楼の白壁に、マルボロの煙がただよう。
 八戒は目を伏せた。三蔵に自分の背徳的な行為を、よりにもよって彼を想いながら自涜していることは絶対に知られたくなかった。
「ここが、部隊の食堂」
 円楼の内部は迷宮のようだ。部屋の多くは木造で、部屋から外をみれば庇の上に古びた瓦屋根が載っている。
「こっちがこの寺院の台所だ」
 土楼に守られた秘密めいた寺院の内部。一番、楼の内側にある、紗烙の寺院は伝統的な中華風建物だ。中庭を備えた四合院の名残があった。
「ねーねー八戒」
 突然、横からというか下からというか、近くから無邪気な声があがった。悟空だ。金色の瞳で八戒のことを見上げるように視線を向けている。
「今日、なんか怖い夢でも見たのか? 」
 悟空が金色の瞳をくるくるとさせて聞く。黄色いマント、獣の爪を模した肩当。いつもの格好だ。
「え、ええ? そんなこと」
 八戒は一瞬、心臓が跳ね上がりそうになった。悲鳴をあげそうになって、口元を押さえた。
「朝、なんか苦しそうに三蔵の名前呼んでなかった? 」
 土楼の窓から差し込んだ光が額に嵌めた金鈷へぶつかり反射してきらめく。持ち前の、純粋そのものの澄んだ瞳で見つめてくる。
「え、そ、そんなことは」
 八戒は思わずしどろもどろになって同じ言葉をひたすら繰りかえした。悟空は寝たら起きない気がしていた。意外なことだった。よりによって悟空に気づかれていたのだ。
「あーサル。お前は余計なコト言ってんじゃねーよ」
 悟浄が会話に割り込んできた。
「えー? 悟浄は気がつかなかったのかよ。この鈍感バ河童」
 仲間のコト心配じゃねーのかよ。言外に責める口調で、悟空が罵る。
「っせーな」
 そんなやりとりを聞くともなしに黙って聞いていた三蔵だったが、悟空と悟浄がいつものケンカをはじめだすと、我慢できなくなったのだろう。
「寺院の中だろうが。てめぇら静かにしろ殺すぞ」
 怒鳴るようにして下僕どもを叱りつけた。
「お前ら面白いな」
 紗烙が、そのやり取りを見て思わずふき出した。
 しばらく歩くと、飾り彫りをされた、古いドアの前に来た。飾り彫りの意匠は、中華風の古い紋様だ。
「ここは? 」
「書庫だ。自由に使ってくれてかまわん」
 ドアを開けると、壁一面の棚に本が並び、経文が積まれている。
 三蔵が興味深げに、並んだ経文の表書きを見つめる。そのほとんどが西域の言葉で書かれた経典や副読本だ。
「調べものがあるなら、遠慮なく使ってくれ」
 そんな調子で、紗烙の案内は終わった。いつの間にか、窓の外で陽は高く昇り、乾いた空気を貫くようにして白い強烈な光を地上へと突き刺している。
「さ、お茶にでもするか。バター茶はどうだ。もう飽きたか? 」
 土楼の主は客人をもてなすつもりらしい。妖怪が出没している報告も今日は入っていない。土楼は静かで、ゆったりとした時間が流れていた。


 それから、
 
 結局、お茶をしに部屋へ戻ったのは、玄奘三蔵法師の従者3人だけだった。
「玄奘はずっと書庫で調べモンか。なかなかお前らの主人は勤勉だな」
 紗烙が湯のみを口へと運ぶ。
「いつもはああじゃねぇーけどな」
「どーしちゃったんだろ」
「フン、そうか。入用かと思って茶葉と茶菓子を持ってきたんだがな」
 三蔵は案内を受けるとそのまま書庫に篭もった。入りびたりだ。戻ってこない。
 西域にたどりつくまで、長いこと本はおろか、日々の食事にも事欠くようなありさまだった。風呂にも入れず、人間らしい生活から遠かった。
 そのせいだろう。三蔵がこの寺院に来て、本を読んでいるのは。もともと、新聞だのなんだの、片っ端から読むタイプだった。若干、活字中毒な傾向があったのだ。本や経文に触れられることがうれしいのだろう。
 八戒には三蔵の気持ちが分かる気がした。
「ま、じゃあれだな。そこのお前、玄奘にお茶、持っていってやれ」
 紗烙がちら、と八戒の方を流し見た。
「従者の役目だろうが」
 さすが三蔵法師様、と言うしかない上から目線の口調で言われた。そんな気性も、あの金の髪をした鬼畜坊主に良く似ている。
 ひどく気がひけた。気がひけたがどうしようもない。悟空も悟浄もこうしたことは八戒の役目とばかりに我関せずだ。
「ご、悟浄」
 思わず助け舟を求めた。三蔵に合わせる顔などない。親友を拝むようにして見つめた。
「えー? ゴジョめんどくさーい。八戒サン行ってきてー」
 手を横に振って、赤い男前がにやにや頬の傷を歪めて笑っている。早く行ってこいという仕草だ。
「あ、八戒ってば調子悪いんだっけ? じゃ俺が」
 純粋な親切心から立ち上がった悟空だったが、とたんに横から悟浄に肘鉄を喰らわされた。
「痛ってぇ! なんだよエロ河童! 」
「てめぇは余計なことすんじゃねぇよ黙ってろバカザル! 」
 いつの間にかケンカを始めてしまった仲間に、八戒はため息をついた。
これでは、やはり八戒がお茶を運ぶしかなさそうだった。






 「今夜、俺の部屋に来い(6)」に続く