今夜、俺の部屋に来い(3)

 次の日。
 
 市場の上空で、いろどりどりの旗が舞う。
 青、黄色、赤、緑、白、お経が書かれた五色の旗。地元でタルチェと呼ばれるそれが、市場のテントとテントをつなぐようにして風を受け、はためいている。
 ときおり、ハゲワシの鳴き声が天空の遥か彼方から、かすかに切れ切れに聞こえ、その声は、遠くに見える白い万年雪で覆われた高い山々へと反響してゆくようだ。

 空気は乾ききっていた。日射しはひどく強い。高地特有の気候だ。乾いた風からは太陽の濃いにおいがする。干した草と、獣の匂い、けなげに荷物を運んでくれるロバの、小さな偶蹄類の匂いだ。

「安いよ! 」
「お買い得だよ!」
 威勢のいい掛け声が三蔵たちが通ると、そこかしこからかかる。店先にはさまざまな品物が並んでいた。悟空はちょこまかと片っ端から店先をのぞいては三蔵に叱られていた。
「あ、さんぞー。俺、アレ! アレ食べたい! 」
 突然、悟空が真向かいの店を指さす。その額に嵌めた金鈷が日の光を受けて煌めいた。
「なんだァ、サル。こんなとこまで来て、てめぇまた肉まんかよ」
 悟浄が赤い目を細めて口を歪めた。
「うっせーな悟浄にはやんねーよ」
 確かに悟空が指さしたのは、白い天幕のかかった肉まんの屋台だった。確かにおいしそうなふかしたての匂いがここまでただよってくる。
「へへへ。ちょっと待ってて。ジープ行こ! 」
 黄色い悟空のマントがひるがえる。機敏な動作だ。
「キュイ」
 悟空が無邪気に白い竜を呼んだ。小猿とジープはひとごみの向こうへ飛ぶように消えた。
「高地のくせに、結構ひとが多いじゃん」
 赤い髪をかきあげて、悟浄がぼやいた。すれ違う人々の服や装飾品もどこか異国的だ。巡礼者の手にはマニ車が握られている。真鍮でできた円筒形の呪術的な仏具だ。それが、太陽の光を反射して眩しく光る。敬虔な巡礼者たちだ。市に出ている仏具を買おうというのだろう。
「八戒。なんか、お前ってば今日顔色、悪くねぇ? 」
 赤い髪を揺らして顔を覗き込まれた。その頬にある切り傷のあとがくっきり大写しになる。傷があろうと悟浄は醜くなどならない。むしろその傷あとはこの男に苦みばしった精悍さを加えている。美男というよりも男前と評するのがぴったりだった。
「あははは。心配しすぎですよ悟浄は」
 八戒は赤い髪をした親友に首を横へふった。確かにその顔はいつもより血の気はなかった。
「で、何を買うのよ」
 切れ長の赤い瞳に問われ、八戒が笑顔になる。
「あまり紗烙さんたちにご負担ばかりかけられませんから。ここに長くいるんでしたら、生活必需品とかは買っておこうかなと思いまして」
 八戒が目を細めた。長めの黒い前髪が、高地の強烈な陽光を受けて輝いた。艶のある綺麗な髪だ。
「マルボロ」
 紫色の瞳で、当然とばかりに見つめられる。
「ハイライト」
 赤い髪の親友が断定する。
 三蔵も悟浄も真顔できっぱりと返答した。
「あははは。売ってますかねぇ。それ」
 困ったように、八戒が眉尻を下げた、
 そのとき、
「そこ! あぶない! どいて! 」
 市場の群集から黄色い悲鳴があがった。
 いきなり、茶色い毛むくじゃらの塊が八戒めがけて突っ込んできたのだ。
「うわ」
 八戒はよろけた。突然だった。すぐ傍の店。地面に布を敷いて商品を並べてある小さな露店だ。干した果物や香辛料を入れた皿が並んでいる。それらが無残にひづめのついた獣の脚で踏み荒らされた。砂を被ったナツメヤシがそこかしこに散らばり、ひづめでふまれ、乾いた果実からかすかに甘い匂いが立ち昇る。
 ぐらりと、
 倒れそうになった八戒の身体を、後ろから誰かが支えた。
「ヤクだ! 」
 たちまち悲鳴が起こった。ウシ目ウシ科の偶蹄類の動物の名をみなくちぐちに叫ぶ。
「なんだこいつ」
 市場にいたひとびとが指差した。
「そのヤクつかまえろ! 」
「逃がすな! 」
 店を台無しにされた店主がわめく声がすぐ隣で聞こえる。
「あぶねぇな」
 不意に低音の呟きが八戒の耳元でした。
 自分の身体を背後から誰かに抱えられている。強い腕に抱きしめられている感触に、八戒はようやく気がついた。
「なにボーっとしてる」
 三蔵に後ろから抱きしめられていた。よろけた八戒を三蔵が支えたのだ。
「さん……」
 三蔵の体温を感じて、八戒が顔を赤くする。心臓が跳ねた。
 そうだった。全く今日の八戒はボーっとしていた。三蔵の白く長い僧衣の袖に腕を包まれながら、八戒は陶然とした気持ちに浸されていた。
 確かに昨日は、あまりよく眠れなかった。どこか疼くような身体をもてあまして無理やり寝た。しかし、寝ても妖しい夢ばかり見る。淫夢の類だ。誰かと身体を重ね合わせるような、甘く淫らな夢ばかり立て続けに見て、もう寝た気もしなかった。しかも、その夢の相手というのが
「大丈夫か」
 八戒は眩しいものでも見るかのように、一瞬、振り返り、その顔を目の端で捉えた。整いきった白皙の美貌。やや癇症に跳ね上がった眉毛に、通った鼻筋と涼しげな鼻梁。そして、瞳は深い紫色で神秘的だ。やや下がり気味の瞳だが、強く鋭い意思を感じさせる光がその目にはあり、決して柔弱な印象ではない。金色の長いまつげがその瞳をふちどる。下まつげが金色に煌めきその下まぶたにうっすらと影を落としていて綺麗だ。
 この世のひとではないかのごとく。
「さん……」
 あのときと同じだ、と八戒は思った。あのときと同じだ。動けない。あの土楼の廊下でくちづけられたときとそっくりだった。三蔵に捉えられた身体が熱を発して燃えるようだ。身体の奥底から熱く疼く。耐え切れない。
 この、整った唇が自分に触れたのだと思うと、もう何も言えなくなった。なんと言ったらいいのだろう。後ろめたかった。あの後、自分はあろうことか三蔵の出てくる淫らな夢を繰りかえし見て悶えていたのだ。
「おーい。さんぞー! はっかーい! 」
 高めの、少年期を抜け出し切ってない声が聞こえてきた。雑踏のひといきれの向こうから、リストバンドを嵌めた手をふっている。ものすごい大声だ。
「買えた買えたー!! ねぇねぇ? あれ? うわ!! 」
 悟空のあせった声が聞こえてきた。追い立てられたヤクが、いつの間にか悟空のいる方の通りへ走ってきたのだ。人々に押されて、小さな悟空がもみくちゃにされる。茶色い頭のてっぺんにとまっていた、白い竜が慌てた鳴き声を立てている。いつもなら機敏にかわす悟空だが、両手に抱えた肉まんの袋に気をとられているらしい。下手に動いて肉まんを潰したくないのだろう。
「うわ! よせよ。これ、俺のだぞ! 」
 なんだか、何かと争っているらしい悟空の素っ頓狂な声が響く。
「あいつ! ホントしょうがねぇバカだな」
 悟浄が舌打ちをすると、悟空のいる方へ駆けて行った。なんだかんだ言ってこの男は面倒見がいい。ケンカするほど仲がいいというやつだ。長く赤い髪がさらさらとなびく。男性用の香水かコロンでもつけているのか、いい匂いがふわりと香った。
 遠くからまた、悟空の悲鳴が聞こえる。悟浄はなんとか駆けつけた。
 だっから、おまえ、もうそれ離せよ。離せねーよバカッパ。バカはお前だろ肉まんごときで、たかが食いモンのことくらいでバカ野郎うるせー食いモンのうらみは深いんだぞそれからこれ肉まんじゃねーよ 『モモ』 って現地のヒトは呼んでるらしいぞバ河童のバーカバーカ。
『モモ』 細切れ肉を野菜と練って小麦粉で作った皮と一緒に蒸したものだ。肉汁が溢れる芳醇な味がする。うまい。ほっぺが落ちる。要するに肉まんに限りなく近い。
 延々とそんな調子で悟空と悟浄のわめき声が聞こえてくる。迷惑だった。それに獣の荒い鼻息や鳴き声が混じる。
 盛大な大騒ぎだ。この市場に居合わせた誰もが悟空とヤクに気をとられている。
 激しいわめき声が西域の空気を引き裂く。乾いて埃っぽい風が頭上をふきすぎる。ひとがたくさんいる通りを強烈な日差しが無情に照り返した。ひとびとのざわめき、ひといきれ。
 それなのに、
 そんな雑踏でいまだ、八戒は三蔵に背後から抱きしめられたままだった。こんな大騒ぎのさなか、誰も自分たちのことなど気にしまいとは思いつつ、八戒は耳まで赤くなっていた。三蔵に抱きしめられている。居たたまれなかった。
 しかし、自分をきつく抱きしめる腕をほどくのも、甘く身体が痺れてかなわない。そんな八戒の銀のカフスが嵌った耳元へ罪つくりな白皙の唇が寄せられ、
――――優しくキスされた。襟の立った禁欲的な緑色の服に隠された、首筋にもキスの雨を降らされる。三蔵に後ろ抱きにされたまま。剃り跡も青く清潔な生え際をぺろり、と舌先で舐められた。

 ひといきれのざわめきも、何もかもが一瞬、掻き消えた。

 八戒は思わず、抱きしめられた腕の中で自分を失いそうになった。腰が疼いて崩れそうになる。自分はどうなってしまうのだろう。陶酔感の強い甘酸っぱい何かが胸を満たし、一面に溢れた。

 





 「今夜、俺の部屋に来い(4)」に続く