今夜、俺の部屋に来い(11)

 そんな調子で日々は過ぎた。


 ある夜のこと、
「玄奘。話がある。ちょっといいか」
 紗烙が廊下で三蔵に声をかけた。ろうそくの明かりが、壁に長い影をつくっている。
「なんだ」
 三蔵は短い返事で紗烙に応じた。金の髪が薄暗い廊下で、神秘的に輝く。
「いや、ちょっとな」
 紗烙は周囲を見渡した。廊下は紗烙の部隊が警邏(けいら)から戻ってきたところだった。大勢の足音、靴についた泥の匂い。埃が舞い、兵士たちの話し声が割れ鍋を叩くような調子であちらこちらから聞こえてくる。こんな廊下では込み入った話はできそうもなかった。
「悪いが私の部屋に来てくれるか」
 三蔵は紗烙のあとをついて行った。ちらり、と三蔵の紫の目が、八戒のことを振り返る。待ってろ、みたいに三蔵の唇が動いたが、あまり八戒はそれを見ていなかった。
「あれあれ」
「へえ」
 紗烙と三蔵のやりとりを見ていた周囲のひとびとから声があがる。砂塵の匂い、埃と機械油の匂い。武装した紗烙づきの兵士たちだ。
「珍しいこともあるモンだ。あの紗烙様が」
 どこか、ひとを近づけないところのある紗烙が、男性に関心を持つなどなかったことだ。
「そういえばおふたりとも三蔵法師で最高僧。お似合いといえばお似合いだな」
「そうだなぁ」
 溜め息が上がった。闘着を身につけた姿も勇ましい部隊の兵士たちは、みんな紗烙の味方だ。
「ここのところ西域は本当に物騒だ。玄奘様が紗烙様とずっとここにいてくれさえすれば、そりゃこころ強いよなぁ」
 三蔵法師が味方に2人もいる。それは、兵士たちに安心感をもたらしていたのだ。
「そうだな。おふたりとも気が合うご様子だしな」
 兵士たちはそんな会話をしながらうなずき合っている。波珊(ハッサン)には悪いがな。なんて声もひそかに聞こえてくる。八戒といえば、そんな周囲の言葉を聞くこともなく聞いていた。ざわざわと話をしながら、兵士たちは廊下から波のように引き上げてゆく。もう夕方だった。食堂で食事の時間なのだろう。

 悪いが私の部屋へ来てくれるか。

 紗烙が三蔵に言った言葉が八戒の耳によみがえった。緑色の服に覆われた胸のどこかが鋭く痛んだ。その言葉以外の全ての物音が聞こえなくなった。
 八戒は力なく微笑んでいた。微笑むしかなかった。居合わせた悟浄は親友が泣くんじゃないかと思ったほどだ。八戒は沈鬱な雰囲気を一瞬ただよわせていたが、気丈にも笑顔をつくると仲間ふたりへ振り返った、
「確かにふたりとも、本当に良くお似合いですよね」
 笑いに目を糸のように細めて呟く。
「そーだな」
 よりによって悟空がまたそれに素直に応じた。額で金鈷がろうそくの明かりを反射して光っている。
「三蔵にとって、自分とまったく同じ立場なんだろうな紗烙ってさ。最高僧の……苦労とか辛さとか、そーゆーのが分かりあえる、はじめての相手なんだろーな」
 三蔵のことを良く知っている悟空ならではの言葉だった。うんうんと、リストバンドを嵌めた手を組み、うなずいている。
「……そうですね」
 それを聞いた八戒の表情が苦しげになった。
 妖怪で大量殺人者の罪人で、従者で、男の自分などより、よほど、似合っている。そんな気持ちが言外に漏れてしまっている表情だった。憂鬱にけぶる緑のきれいな瞳。どこか痛むのか、胸を片手で押さえている。
 今まで、笑っていたのに。情緒不安定だ。
「……おい」
 悟浄が切れ長の横目でそんな親友の様子を心配げに流し見た。赤いその目で改めて見れば、悟浄の親友は、もうどこかが決定的に以前とは違う。
 なんだか、色っぽいというか本当に艶かしかった。吐息までもが、薔薇色にけぶりそうな美青年ぶりというか。いままでも普通じゃない美人さんぶりだったが、更に磨きがかかって、今や麗人の域だ。
「悟空」
 八戒が再びにこやかに声をかける。
「今夜、僕とトランプでもしません? 」
 柔らかい微笑みを無理やり浮かべて悟空に提案する。首まである緑のストイックな中華風の服を着込んでいるが、それを脱げば、三蔵との情事の跡だらけだ。
 しかし、そんなことはおくびにも出さない。
「えー! 今日は八戒、遊んでくれんの? ラッキー! 」
 悟空は純粋に喜んでいる。最近、三蔵のところに入り浸りで、悟空の保父さんはちっとも昔みたいに遊んでくれないのだ。
「ええ」
 微笑むと、いかにもひとのいい好青年といった風になった。いつもの八戒だ。
「……お前」
 悟浄だけは、そんな八戒に何か異様な気配を感じて、眉をしかめた。
「行こ行こ。俺らの部屋に戻ろ八戒! もー悟浄とふたりきりなんてさー」
 悟空が、手首まで黒い服で覆われた、八戒の腕をつかんで、廊下をひっぱる。ついでに黒い縁どりのある緑の服の裾もひるがえった。
「うっせぇサル! そいつはこっちのセリフだ! 」
 悟浄は何かを心配しながらも、仕方なしに仲間ふたりについて、その後ろを歩いた。足元の革靴の下で、木でできた床がきしみ、鈍い音を立てて不安げに鳴った。
 

 3人の従者にわりあてられたのは、質素な部屋だ。高地の厳しさが透けて見えるような。
 壁の木目に、ランプの明かりが揺れる。そんなに広くない部屋に、3人分の寝台、真ん中にやはり木でできたテーブルが置かれている。
 八戒が器用にトランプの札の束を両手にとり、手品のように上下を混ぜてゆく。数字や模様の描かれた札が、手の中で生物みたいに踊った。
「なんだよ悟浄。悟浄からだぞ」
 悟空が口をとがらせる。八戒はいつの間にか、トランプの札を配り終わっていた。
「マジ? 」
 問答無用でトランプゲームの頭数に入れられていると知って、悟浄は指に挟んだタバコを取り落としそうになった。
 しかも、何故か捨て札を出す場所は悟浄のベッドらしい。
「ロイヤルストレートフラッシュです僕」
 そんな悟浄にかまわず、配り終えたばかりだというのに薄幸美人がとんでもないことを言う。
「ちょっとタンマ。何それ」
 そんな楽しい会話が何度も繰り返され、一見、平和で幸福そうな夜は深々と更けてゆき、
 あっという間に寝る時間になった。


「悟空。歯磨きしました? 」
 パジャマ姿になった八戒が保父さんめいた表情で悟空に訊いた。
「したって。ガキ扱いすんなよ八戒ってば」
 悟空が口をとがらせ、洗いざらしのシーツの上、異国的な模様の施された毛布の中へもぐりこむ。
「うははは。オカンみたい。お前」
 悟浄が口の端をにやにやさせて笑う。悟浄もいつのまにかパジャマ姿だ。ベッドの上に腰かけ、八戒へ軽口を叩いている。かつて暮らした悟浄の家でのことを思い出させる光景だ。
「本当にお前、ここで寝んの? 」
 心配そうに親友が言った。もう既にベッドの上へ横たわり、肘をついて手で頭を支えている。長い赤い髪が白いシーツに落ちている。すっかりくつろいでいた。
「なんですか。悟浄」
 モノクルをメガネに変えながら、八戒が笑う。モノクルをつけた様子も水もしたたるなんとやらだったが、メガネは、またこの黒髪の男の端正な美貌をこれ以上なく強調してくる。
「いやーお前のこと、探しに誰かさんが来るんじゃねーかなって」
 悟浄は口ごもった。誰かさんを名指しすることはできなかった。何故かできなかった。その誰かさんは、悟浄の知らない八戒を知っているのだ。
 親友の寝姿をちらりと瞳のスミで捉える。細いしなやかな身体の線。ふるいつきたくなるような腰や尻のラインが眩しい。一瞬、いけない想像をしてしまいそうになって、悟浄は思わず目を閉じて首を横へ振った。
「誰かさんって誰です」
 そんな、悟浄の内心も知らず、八戒が自嘲するような口ぶりで問い返す。
「そりゃ……誰かさんだろ。お前がそんなの一番良く知ってるだろが」
「探しになんか、来ませんよ。あのひとは絶対」
 八戒は寂しそうに笑った。今までの行為も、愛されているのか、単に慰みものになっているのか、良く分かっていなかったのだ。八戒は愛に疎かった。愛されていても、愛されている確信など少しも持てなかった。不幸すぎる過去が重かった。そう、あんなにきらきらしい最高僧さまに愛されている自信など、実は少しもなかったのだ。
 八戒は自嘲するように、首を横へ振った。三蔵と自分の間に横たわる厳然たる差。そんなことにも気がつかずにのぼせあがっていた自分がこっけいでひたすら情けなかった。
「明かり、消しますよ」
 ランプは火が消えると、きな臭いような焦げた匂いがした。今まで、蜂蜜色だった木の壁が、闇に溶けて暗い灰色になる。
「おやすみなさい悟空、悟浄」
 八戒がメガネを外したのか、部屋の真ん中にあるテーブルの上で硬い音を立てた。
「おやすみー」
 もう、半分以上、夢の中らしい悟空が、眠そうな声で応える。
「おやすみなさい」
「ハイハイおやすみぃー」
 ちょっとおどけたような悟浄の声が隣からした。

 一見、平和に夜は更けていった。
 そんな訳でその夜、八戒は三蔵の部屋へ行かなかった。いや、行けなかった。

――――旅が長すぎていつの間にか対等だとカン違いしていた。
 しかし、よくよく考えてみれば、もとからひどく不釣合いな関係だったのだ。

 八戒はその夜、なかなか寝つけなかった。


 





 「今夜、俺の部屋に来い(12)」に続く