公衆便所(1)

 昼の間中降っていた小糠雨は、夕方になってようやく止んだようだった。木々に包まれた秋の公園は薄暗い。赤や黄色に変わった葉がそこかしこでゆらめき風にそよいでいる。
――――静かだった。
 公園のアスファルトは特に仰々しく舗装などしていない。自然な森の小道でも気取っているのか、砂利が敷かれたその上を美しい紅葉が散りかかる。
 しかし、霧のような雨が降ったためか、落ち葉を踏みしめても、しんとしていて足音ひとつしない。公園は気味が悪いほど静かでひとの気配がなかった。
 そんなうら寂しい公園のそのまた寂しい公衆トイレに、まだ二十代になったばかりの若い男が入ろうとしていた。
 男が公園休憩所からも道路からも遊歩道からも見えぬところにある、このトイレを使おうと思ったのは、単に生理的な欲求からで他意はなかった。
 そう、その公衆便所はごく普通のものだった。どこの公園にも備えてあるような、ごくごく普通の公衆トイレだ。女性用の入り口は左に、男性用の入り口は右側につくられている。中はさすがにいまどきのトイレらしく白いタイル貼りの清潔なつくりだった。ウォシュレットさえ備えてある。なかなか近代的な設備だ。この公園をかかえるこの町は財政が豊かとみえた。
 男は鼻歌混じりでトイレに入った。小用の為なので、個室に用はない。排泄行為で熱量を奪われ、心持ち冷えた躰を気にしながら洗面台で手を洗った。
 まだ二十歳前半の青年のためか、自分の外見をだいぶ気にしている。思春期の名残、にきび跡が顎のあたりに散っているのが、実は彼のひそかな悩みなのだ。平和な悩みともいえるが本人は大真面目で気にしている。
 しばらくの間、洗面台の壁に張られた鏡を見つめていたが、ふと人の声を聞いたような気がして彼は動きを止めた。
 最初は風の音かと思った。
 しかし違った。
 苦しそうな、くぐもった声。それは若い男の声だった。
 その声は確かにトイレの個室の方から響いてきていた。
 外は日が暮れようとしている。今時期の日没は早い。ちょうど金色に地表面が染められる奇跡のような一刻が訪れようとしていた。

 そう。
 昼でもなく、夜でもない。
 狭間の時。境界の時間。曖昧な、あくまでも曖昧な時間。
――――逢魔が時と呼ばれる時刻だった。

 男はためらいながら、声の漏れる個室へ足を向けた。気味が悪かったが、ひょっとしたら気分を悪くしている人がいるかもしれないと思ったのだ。いずれにしても、若くまだ人生経験のない男特有の、正義感と好奇心のないまぜになった行為だ。
「もしもし、大丈夫ですか」
 若い男はドアの向こうへ呼びかけた。味気ない白い合板づくりのドアをノックする。
「気分でも悪いんですか? 救急車でも……」
 驚くことに鍵はかかっていなかった。ドアノブは簡単に手応えもなく開いた。
「もしもし……」
 中を一瞥(いちべつ)して男は凍りついたように固まった。それは異様な光景だった。
 驚くべきことに、そこには鎖をつけた半裸の若い男が縛りつけられていた。

 手の鎖を上部にある配管に通すようにされて上体をほとんど吊るされている。服は申し訳程度にしか着ていない。ぐしゃぐしゃにヨレて破れた白いシャツを肩にひっかけている。当然ボタンは嵌められておらず、白い肌が見え隠れしていた。
「う……」
 涙に濡れて、いささか青ざめたその貌はこの上ないほどに整っていたが、無残にもその口元はガムテープで塞がれていた。くぐもった声しか出せないのはそのせいだろう。黒く艶やかな髪が美しかった。その頬の上に、乾いた白い精液がこびりついている。綺麗な緑色の瞳に不似合いな汚れだった。
 下肢には何も身に着けていない。長めのシャツ一枚を被せられているだけなので、しなやかな足首から太腿から何もかもが丸見えだった。腕を拘束されて狭間の淡い陰りも隠すこともできずプラスチック製の蓋がされた便座の上に座らされている。
「な……」
 若い男はこの異常な情景に絶句した。およそ日常から遠い世界が展開されていた。中にいたのは病人でもなんでもなかった。それは麗しくも異常なオブジェとしか呼びようがなかった。
 おぞましく無残な様子だったが、拘束されトイレの個室に縛られている黒髪碧眼の男からは、隠しようもない陰花植物にも似た色香が滲み出ていた。
 陰惨な責め苦を彼が受けているのは明らかだというのに、高い山でひっそりと咲く高貴な蘭のごとくその姿は艶やかだった。矢で射られた美しい殉教者の青年にも似た、清冽ななにかがそこにはいた。
 普段、トイレまたは便所と普段呼ぶ、およそ日常的すぎるほど日常の場は、いまや妖しい美の陳列室へと変えられていた。いけないと思いつつ、この麗しいオブジェのような存在に若い男はひざまずくようにして手を伸ばした。
「う……」
 びく、と白い肌が動いた。拘束されているこの黒髪の男が、血の通った人間であることをようやく思い知らされた。
 はらり、とシャツの下の肌が見えた。シミひとつないその滑る肌に散っているのは既に複数の相手によると思われる唇の吸い跡と噛み跡だった。
 それから。
「…………」
 油性マジックペンで艶やかな肌に記された文字がそこにはあった。
 そこには、
『公衆便所 どなたもご自由にお使いください』
 そう、乱雑な字で記されてあった。
「……誰がこんな」
 回らぬ舌で思わず呟いた。しなやかな躰つきの相手は呆然とするくらい扇情的で刺激的だった。助けを求めて縋るような目を向けてくる。蠱惑的だった。
――――異様なその迫力のある色香に一瞬で気圧された。
 若い男はよろけながら陰惨で華麗な個室からふらふらと抜け出した。抜け出す、いや逃げ出すことしかできなかった。濃厚な、圧倒的に濃厚な魔物じみた色香の洗礼を受ける勇気がなかったのだ。
 もつれる足で公衆便所の外へと出てしまった。振り返ることはできなかった。人ではない妖しい魔物にでも逢った気がした。何かの罠とすら思えた。妖しい麻薬の見せる幻覚のようだった。
 外は既に暮れていた。あたりはひっそりと薄暗い。遠くに外の道路の灯が公園の森を透かして見え隠れしている。
「あ……」
 若い男は思わず当惑した声を漏らした。
 股間が体液で濡れていた。知らずに放ってしまったらしい。
 下着を不快なぬめりでべたべたにして、若い男は急ぎ足で公衆便所から遠ざかった。いや、遠ざかるしかなかった。





――――数時間前。
 この日も八戒は仲間から凄惨な輪姦を受けていた。あげく三蔵に髪をつかんで引きずり回された。
 この日は小糠雨だったから、ジープで出発したかったのに、そうは最高僧が許さなかった。長引く旅の行程の憂さ晴らしだろうか、この日も三人の仲間に代わる代わる抱かれた。
 いつものごとくいつものお決まりの陵辱劇だった。うんざりするほど仲間達の性欲の捌け口にされ八戒は喘ぎながらそれでも逃げようとあがいた。
「止めて下さい……本当に……もういいでしょ……ッ」
 折りしも、そのとき八戒の躰の上に乗っていたのは悟浄だった。先に散々情欲を吐き出した鬼畜坊主は、まるで高みの見物とでもいうように、絡み合う八戒と悟浄を紫煙を吐き出しながら眺めていたのだった。
「あッ……」
 眉を顰(ひそ)めて八戒が喘ぐ。既に散々、男達によって食い荒らされた躰はもう惰性のように快楽を拾い上げて止まらなかった。甘い肌のさざめきを感じ取って悟浄が笑う。
「何、イイ? すっげぇ、感度良好でゴジョうれしー」
「ひッ」
 悟浄が打ち込むたび、八戒の腰は妖しくうねった。ずたずたにされたプライドを埋め合わせるのは、もう汚れた快楽しかなかった。背を走り抜ける快美感に酔いながら、悟浄の太くて硬いものを、躰を大きく開いて受け入れていた。
「あ、あっ」
「何……そんなに、イイ? 」
 にやりと淫猥に笑って、涙の滲んだ八戒の目元を紅い髪の男が舐める。
「はぁッ」
「もっと……コッチ突いたら……どう? 」
「やぁッ」
 嬌声をあげる、妖しい八戒の姿を黙って見つづけていた三蔵だったが、どうしたことか、交わり続けるふたりへいきなりずかずかと近づいた。
「……淫売が」
 悟浄の躰の下で甘く喘ぐ八戒に、吐き捨てるように告げたかと思うと、その髪を乱暴にわしづかみにした。
「おいッ」
 思わず悟浄が制止の声をあげたが、最高僧は止まらなかった。引きずるようにして悟浄から引き離し、八戒の頬を打った。打ち据えた。勢いで黒髪を乱して床へ伏し、八戒は転がった。
「そんなに、イイか。そんなに男が好きか。この……」
 紫暗の瞳はぞっとするような光りをたたえて八戒へ向けられていた。八戒は衝撃からか、ぴくりともしない。犯され続けた後ろの孔からは白いとろとろとした体液が流れ落ちて床を汚している。若い仲間の肉棒を交互に受け入れていた躰は疲弊しきっていた。
「確かめてやる。お前が本当にどんなヤツにでも腰を振るのか」
 鬼畜坊主は冷たい声で八戒へ言った。
「来い」
 三蔵は八戒の腕を乱暴につかみ、宿の外へと引きずっていった。それがこの日の午後のことだ。


 そして、それからというもの


 八戒は三蔵の呪札で縛められ、宿の近くにある公園の公衆トイレに鎖で繋がれたのだ。
『公衆便所。どなたもご自由にお使い下さい』の一文を添えられて。


 屈辱的だった。





 トイレの個室に繋がれてからというもの、八戒の運命は残酷だった。
 自分の惨めすぎる境遇に思わず唸っていると、知らずに個室を開けた見も知らぬ男に犯された。縛られていては逃れようがなかった。文字通り、排出される便所にでもなった気分で八戒は午後の一刻を過ごした。
 たまには先だっての少年に近い若者のように逃げ出すものもいた。どのような出来事も八戒を傷つけることに変わりはなかった。自分が汚物にでもなったような気分だった。
 こんな陵辱刑ともいうべき仕打ちを三蔵から受ける理由が八戒にはまるでわからなかった。どうしてこんな罰を自分が受けるのか、考えると気が狂いそうだった。早く宿に戻って、皮膚が剥けるほどシャワーを浴び、石鹸で全身を洗い清めたい。男達の放った白濁液で全身を濡らしながら、八戒は霞む意識の片隅で思った。
 もう正気を保っていられそうになかった。いっそ死にたかった。いや、そんなことができたら、どんなにさっぱりするだろう。それは素敵で危険な考えだった。
しかし、そんな悲惨な想念が、いまや八戒にとっては慰めに近かった。





 夜の外気が八戒の肌を冷やしてゆく頃、またトイレのドアが開いた。
「うわ」
 入ってきた男は三十代後半というところだった。品のいいスーツ姿だ。帰宅の途中だろうか。
 ひどく、びっくりした声をあげて八戒を見つめている。誰だって目の前でこんなのを見せられれば驚くに決まっている。八戒は自分の境遇を呪い、己が惨めすぎて目を閉じた。
「何、コレ」
 男の声は基本的に知的だった。堅い職についている男独特の用心深い所作で八戒を観察している。八戒の肌に書かれたおぞましい文字を目で追っていた。
 暫くの沈黙の後、男は口を開いた。
「公衆便所? ……貴方、綺麗なのにそんな趣味があるんだ? 」
男は一番八戒にとって悪い方向に理解したらしい。どうも八戒がマゾ趣味でもあって好んでこんなことをしているとでも思ったようだった。
「……突然でびっくりしたけど……そういうの、嫌いじゃないよ。つきあってあげようか」
 男はにやりと笑った。紳士的な外見に似合わぬ卑猥な笑みだった。
 八戒の躰にかぶさっていたシャツは払い落とされた。しなやかな裸体が露わになる。
「いやらしい……何人にヤられたの? 」
 後孔を長い指でつつかれた。誰のものとも知れぬ白い体液が流れ落ちる。犯された痕跡も濃厚な姿を目の当たりにして、男の情欲に一瞬で火がついたらしい。
「まだ満足できない? ……それなら僕はどうかな」
「! 」
 便座の蓋の上で逃れようと八戒が躰をひねる。それを相手は抱き締めてきた。
「おっと」
 愉しそうに顔を笑みに歪めて三十後半の男は片手でネクタイを弛め、もう片方の手で八戒の細い腰をいやらしく抱いた。
「ぐ……! 」
 苦しげな声とともに八戒が首を横に振る。明らかに、この状況自体に『否』と言っている仕草だったが、情欲にはやった相手には気がついてもらえなかった。




「公衆便所(2)」に続く