廃墟薬局(9)

 おぞましい化け物が経文の聖なる光を浴びて苦しげにのたうつ。粘液で覆われていた表皮が、音を立てて蒸発してゆく。ぼろり、と八戒の白い裸身から剥がれ落ちた。
「…………!」
 恐ろしく醜い断末魔の声をあげて化け物は這いずりまわった。八戒にからみつき、その身体を穿っていた触手もボロボロと溶けて無惨に崩れてゆく。
 消し炭みたいになって崩れた触手の残骸の中、八戒は支えを失って牢の床へ崩れ落ちた。
「あ、あぶねぇ。鬼畜ボーズが! 八戒もケガしたらどーすんだよ」
 悟浄があまりの威力に歯の根も合わない様子で三蔵を怒鳴った。
「そんなヘマなんざするか」
 最高僧は吐き捨てるように言った。
「あーあ」
 ニィは鎖ガマに腕を取られたまま、その場に座りこんだ。メガネはすっかり、今の衝撃で割れてひびが入っている。口端も切ったらしく血がにじんでいた。それでもその口元に浮かんでいたのは不敵な笑みだった。
「気に入っていたオモチャだったのになァ」
 ニィ博士は魔戒天浄で破壊された触手を横目に残念そうな口ぶりで言った。
「八戒ちゃんだって、けっこう気にいってくれてたのに」
 白衣の袖が今の爆風で煤けている。
「オイ、オッサン。黙れよ」
 悟浄が怒気を孕んだ声で凄んだ。
「ヤダなァ、ボクの名前はニィ健一だってば」
 軽薄な悪魔の口調で頼んでもいないのに自己紹介してくる。三蔵がその名を聞いて、片側の眉を上げた。吠登城のマッドサイエンティスト、ニィ博士。聞いたことのある忌まわしい名前だった。
「教えてあげようか、どんな風に八戒ちゃんが、アレとセックスして感じちゃってたのか」
 愉しくてたまらない、そんな口調でニィは言った。
「いやぁ、セックスっていうより、交尾って言った方がよかったかなァ」
 三蔵は銃の撃鉄を黙って起こした。殺してやる。目の前にいる男はつくづく下劣な男だった。
 間髪いれずに撃った。銃弾がニィに当たったと思われた次の瞬間、奇怪なことが起きた。

 うさぎのぬいぐるみの前で弾は止まり、粉々になって床に落ちたのだ。

 いや、粉々になったのではない、もともとそこに存在しないかのごとく闇に消えうせた。錫月杖の鎖もいつの間にかその腕から外れている。
「!」
 悟浄が目を見張る。
「……なんだって、八戒にこんなことをした」
 三蔵が紫暗の瞳を細め、うなるように言った。
「八戒を捕まえてどうするつもりだった! 答えろ! 」
 最高僧の金の髪が、怒りのあまり震えている。ニィはそれを見て、愉しげに笑った。クックックッと、カンに障る含み笑いが、部屋中に響いた。ひとしきり笑うと、ニィは口を開いた。
「それは、彼が牛魔王蘇生実験の 『カタリスト』 だからだよ」
 まるで、出来の悪い生徒へ言うような口調だった。
「カタリストだ?」
 三蔵が睨む。
「カタリストってナニよ」
 悟浄が聞き覚えのない言葉に首をひねる。
「ごめんごめん専門用語だったかな。ド素人のキミたち相手にごめんね。『カタリスト』――――つまり 『触媒』 のことだよ」
 まるで、研究室に入りたての新人に噛んで含めていうようにニィは説明した。
「触媒? 八戒が? なんだそりゃ、どういう……」
 悟浄が錫月杖を手に構える。少しでも相手に隙があれば、間髪いれず切り刻む気だ。
「わからない? 」
 ニィは再びその唇の笑みを深くした。うさぎのぬいぐるみを抱えたまま、血まみれの手でタバコをとった。
「猪八戒はひとごろしの大量虐殺者で、千の妖怪を殺した大逆人。それなのに、人々を殺して得た能力は 「治癒」 や 「防御」 を含む気功だよね」
 ニィは淡々と説明した。
 殺人者が人を生かす能力を獲得している。この矛盾はなんなのか。八戒の能力は妖怪になったときに、変換が起きているのだ。陰から陽へと変化する力が働いている。
「興味深いよねェ。どうして、ひとを殺しまくってきた彼の能力が 「治癒」 とか 「防御」 とかできるヒーラーめいたものなのかね。キミたちは仲間として考えたことないの? 」
 悟浄がニィとの間の間合いを静かにつめる。いつでも錫月杖で攻撃できる距離だ。
「ボクが思うに、八戒ちゃんは 『触媒』 なんだよ。陰から陽へ変わった彼自身がね」 
 カタリスト、触媒、カタライザー。
 牛魔王蘇生実験ための、重要な 『触媒』。触媒とは反応を進める物質そのもののことだ。
「李厘じゃ、どうも 『触媒』 として不十分なんだよね。赤毛の王子様でもね」
 ニィは薄っすらと口の端で笑った。あのコたちって役立たずだよねェと小声で呟いている。
「でも、八戒ちゃんを触媒に使ったら、5つ経文が揃っていなくても、蘇生実験が結構イイ線いくかもしれないよね」
 黒い瞳にひとの悪い笑みを浮かべる。その瞳には科学的興味しか映していない。アングラケミスト。確かにこの男はマッドサイエンティストそのものだった。
「ほざけ!」
「死ね!」
 悟浄と三蔵はほぼ同時に怒りをこめて叫んだ。
 錫月杖が空を切り裂き、S&Wの銃弾が闇を走り抜ける。
その時、
床が傾いだ。
「おっとv」
 錫月杖はニィの髪を、弾は白衣をかすめた。床が揺れなかったら、当たっていたかもしれない。
「な……」
――――いやな地響きが、下から聞こえてきた。
「なんだ、これ」
 足元がぐらついてきて、悟浄が青ざめた。地震のようだ。
「クソ、ぼろビルめが」
 三蔵が舌打ちした。
 散々、階下で錫月杖をふるい、魔戒天浄を唱えていた。ただでさえ崩れそうな廃墟で、こんなに暴れ回ったら、どうなるか、推して知るべしだった。
 ドアを見れば蹴破り、障害物を見れば粉微塵にしてきた。柱も壁にも三蔵と悟浄による破壊と亀裂がいたるところに縦横無尽に入っている。
 崩れてきて、当然だった。
「ニィ健一! 」
 三蔵は目の前のマッドサイエンティストを見据えて大声で呼ばわった。長めの金の前髪の間から額に見え隠れする聖なる徴、チャクラがその高貴さを強調している。
 最高僧はその双肩にかかっている魔天経文を片手でつかんだ。相手を逃がすつもりなどなかった。果たして、みたび三蔵は真言を唱え始めた。殺る気だった。
「うわっ待ってよ。そーんな本気だしちゃって。こっちはちゃんとした三蔵法師のカッコもしてないってのに、そんなマジになっちゃうんだもん。参っちゃうな。ボクでなおしてくるよ」
 ニィ健一はおどけてみせた。片目をつぶってウィンクした。
「またね。紅流――――いや玄奘三蔵」
 完全に床が抜けた。部屋の隅の床が柱とともに下から崩れて落ちた。瞬間、ニィの姿が見えなくなった。まるで虚無へと溶けたようだった。
「ニィ健一! 」
 三蔵が叫んだ。
「その肩にかかってる魔天経文もそのうち、いただくよ」
 虚空からふざけた声だけが聞こえてくる。
「ニィ! 」
「三ちゃん! 床が崩れてる! 」
「追うぞ! ヤツを逃がすな」
「八戒助けるのが先っしょ!」
 悟浄が檻の扉を蹴破った。きしんでいた錠ごと、それは外れて飛び床に転がった。甲高い金属音を立てた。
「八戒! 」
 八戒はぐったりとしていて、正体がなかった。意識もなく、その白い花に似た貌をうつむけて、横に倒れていた。身体には申し訳程度の布切れがはりついていて、全身がぬめぬめするあの不快な化け物の体液で覆われていた。
 白い身体は紅潮している。性的な虐待を受けて、むさぼられた後の熱がその全身を支配していた。陰惨なのに凄艶で美しい、その矛盾したしどけない裸身へ三蔵は思わず自分の白い僧衣を脱ぎ、それで包んだ。
「さん……ぞ」
 汚されても、整っているその唇が、最高僧の名を切なげに紡いだ。それを聞いて三蔵は胸に鋭い焼けるような感覚が走り抜けるのを感じた。もっと、早く助けにこれれば、もっと早く助ければ。どうしようもない後悔に、胸を潰されるようだった。奥歯が欠けるほど噛み締めた。
「そっち、支えろ悟浄」
 ジーンズと黒いタートルネック姿になった三蔵が悟浄へ声をかける。悟浄へ表情を見せたくなくて、顔をそむけた。
「おう、そっちこそへばるなよ」
 悟浄が力強い腕で八戒の肩をかついで支える。額のカーキ色のバンダナが汗でにじむ。八戒はすっかり意識を失っていた。
 ふたりで、かつぐようにして、粉微塵にした薬局のドアを抜けようとしたとき、もう一度、ぐらりと床が揺れた。
「うわわっ」
「クソッ」
 廊下はひどい有様だった。配管が切れて水が出ている。その上で漏電しているらしく電気の線がいやな音を立てていた。床は、モザイク模様にみえた。いや、正確に言うとそれはモザイク模様ではなかった。ぐずぐずに崩れ落ちて床が抜け、鉄筋から下が透けて見えているのだ。
「ど、どーやって通るよ。コレ」
 足をかければ、崩れて下に落ちそうだ。真っ逆さまに落ちてお陀仏だろう。
「チッ」
 そのときだった。
 頼もしいエンジン音が聞こえてきた。奥の階段から、何かがもの凄い勢いで飛ぶように走ってきた。
崩れ落ちてゆく廊下をものともせず、車高の高いオフロード車が全速力で走ってきた。
「ジープ!」
「ジープか!」
 ジープが走るたびに、その後輪で床は崩れ落ち、もう跡形もない。間一髪、かろうじて生きている柱を支えにするようにして、まだ残っている床の上へとジープの車体は鮮やかに滑り込んだ。運転席のあたりで茶色い髪の毛と黄色いマントが揺れるのがちらりと視界をかすめた。
「悟空」
 三蔵が八戒を抱えたまま叫ぶ。
「てめぇ、運転できたのかよ!」
 悟浄も叫んだ。
 果たして確かにそれは、運転席から顔を出したのは、悟空だった。金色に光る金鈷を額に嵌め、短めの茶色の髪、肩にマントをつけた悟空だった。
「へ、へへへ。ジープ、八戒助けに行くってきかなくってさ」
 悟空は困ったように鼻の頭を指でかいて笑った。きらり、と光るレンズを悟浄へと投げる。廊下に落ちていた八戒のモノクルだった。
「上出来ッしょ? 」
 ジープも心配で寝てなどいられなかったらしい。
「フン、サルにしちゃ悪かねぇな」
「た、助かった」
 片手でモノクルを受け止め、ほっと悟浄が胸をなでおろした、そのとき、
「うわ! 床が! 」
 再び激しく揺れた。亀裂が周囲の壁に走る、この世の終わりのような嫌な音が響き渡った。生き埋めになる前の人間の聞く音だ。
「乗って! 早く! 」
 悟空が運転席から腕を伸ばす。 
「うわ!」
 店内の棚が振動でジープに向かって全部倒れてくる。バラバラと無数の薬の箱が床といわず、ジープの上と言わず雨のように降り注いだ。
 そんな非常事態の中、ジープは仲間をなんとか全員乗せた。
 間一髪。
 今度こそ、全部の床が抜けた。薬局が空中分解する。階下の5階が崩れてへしゃげ、柱が折れて空間が潰れた。
「ジープ!」
 ジープは鮮やかな仕草で、落ちてくる瓦礫を避けた。エンジンがギアを変えてうなる。高らかに機械の回転音が鳴った。まるで、崩れる周囲よりも先に行こうとするかのようだった。5階へ落ちてゆく途中の柱を利用して猛スピードで、それを伝うようにして走り抜けた。5階についた途端、一行の背後でその柱が床に激突して崩れ散った。
「うおッ」
 もの凄い衝撃に舌を噛みそうだった。
「運転かわれ! 悟空ッ」
「い、いやコレもう俺が運転してるっつーか、落ちてるっつーか」
「バカザル! 殺す気か! 」
 そのまま、ジープは階段を駆け降りた。いやそれは駆け落ちたと評するのが正しいかもしれなかった。周囲は無残に崩れてきていた。呪わしい貼紙だらけの廃墟の階段を1階目指して全力で走り抜ける。
 ようやく、1階についたと思われたとき、背後で実にいやな音がした。バチッ。電気線が放電する音だ。
そして、
「…………!」
 八戒を自分の僧衣で包み抱えたまま、三蔵が目を剥いた。
「うっわ死ぬ。コレ絶対、死ぬって!」
 悟空が叫ぶ。
 背後で、爆発がおきた。いたるところに亀裂が入り、水を引いた配管は破れ、ガスは充満して、電気の線は切れて火花を散らしていた。
 1階に幾つも転がっていたボンベに 「液化石油气」 と表示がついていたのを三蔵は思い出した。料理人が使うボンベや配管からガスが漏れ、その一帯に充満していたのだ。
「液化石油气」
 プロパンガス。
 大気中5%ほどの濃度で着火し爆発する。
「…………!!!!」
 爆風が、凶暴な爆風が1階の全てをなぎ払った。缶も看板もネオンも電飾も崩れた店もなにもかも。
 ジープは全速力で外へと急いだ。
「うわ!」
 まるで、爆風に後押しされるような格好で、辛くも三蔵一行は廃墟から脱出した。あと、数メートル後方にいたら、焼け爛れていただろう。
 当然、
1階が崩れれば、上階も無事で済むわけがない。
 コンクリートの瓦礫が次々と空から落ちてくる。むき出しになった錆びた鉄筋がボロボロと崩れて、地面に激突する。ある限界で閾値に達したのか柱が同時に折れ、轟音を立てて、ビルは脆くも崩れ落ちた。竜巻のような砂煙が天高く昇る。
「ごほ! ごほごほッ」
 辺り中をひたすらに砂塵が舞った。
「ひ、ひでぇ」
 まるで、悪夢に似た不夜城のような廃墟は、あとかたもなく崩れ去った。
 三蔵はジープの後方座席で八戒を守るように抱きかかえたまま、闇に崩れる廃墟と、それを舐める爆発の炎を黙ってその紫色の瞳に映していた。
 ニィ健一 吠登城のニィ博士。白衣を着た悪魔。
「絶対に許さねぇ」
 三蔵はひとり密かに呟いた。全身の血が怒りでドス黒く変わるかと思うほど、相手を憎んだ。






 「廃墟薬局(10)」に続く