廃墟薬局(8)

 三蔵と悟浄は八戒を探して廃墟の中をさ迷っていた。そこはまるで迷宮だった。八戒が入ったときは、こんな風には迷わなかった。
 そう、ここは八戒専用の罠で、美しい蝶々がひっかかると自動的に階段を昇らせ、6階へ誘い込む趣向だったのだ。
 「獲物」 でない三蔵と悟浄たちにとっては、例えアリアドネの助けがあってもたどり着けまいと思われるような複雑怪奇な迷路(ラビュリントス)だった。
「急ぐぞ」
 三蔵は無愛想な口調で言った。
 1階にはボンベが幾つも転がっていた。气瓶罐注意と表示されている。
壁に繋がれたボンベから銀色の配管が幾つも伸びていた。古ぼけた店の中へと管は吸い込まれ、ネズミ色の重そうなボンベは人の胸のあたりの高さがあり、「液化石油气」と記されている。
「なぁにィこれ」
 悟浄が眉をしかめる。ボロボロなボンベだ。毒ガスだと、俺イヤだぜ。その顔にそう書いてある。
「料理用の燃料だろう」
 三蔵はボンベに白地で書かれている言葉を読んで手短に答えた。
 料理屋の残骸だ。特製公仔麺、名馳叉焼飯、幾つもの美味しそうなメニューが黒い看板に踊る。
 しかし、今や看板はひび割れ古ぼけて打ち捨てられている。そんな店舗が幾つも幾つも連なっていた。突然、金属性のナベでも落ちたような音が闇に響く。
「なんだァ? 」
 まるきり、チンピラの言い方で悟浄が凄む。気味の悪い場所だった。廃墟の中は生々しかった。誰がが暮らしていそうなのに誰にもあわない。不気味で謎めいていた。まるでこの廃墟自体が有機的な生物そのもののようだ。点在する店舗はこの不気味な廃墟の肉であり、天井を走るいくつものケーブルや配線、水道のホースなどは廃墟の血管のようだ。
「あー気味悪ィ」
「帰りたいなら、ひとりで帰れ河童」
「へぇへぇ冗談でしょ」
 軽口を叩き合っているうちに、広い廊下へと出た。
「やっぱ、八戒いるの上の階かな。何階建てだって? 」
「6階建てとか言ってたな、飯店で。あのブタめ」
 三蔵は吐き捨てるように言った。飯店の主人の声が耳に蘇った。
『先生は……薬屋だ。最近、この街に来たんだ。ものすごく良く効く薬を処方してくれるんだ。神様みたいなひとなんだ』
『街の北側、廃ビルの6階にいる』
 廃ビルで開業している闇薬局。まともな手合いではあるまい。
 突然、三蔵と悟浄は開けた場所に出た。小さいホールのようだ。目の前に、上へ伸びる階段が蛇腹のようなその屍骸に似た腹をさらして現れる。コンクリート製で灰色の殺風景なつくりだ。いたるところにゴミが転がり殺伐としている。
「走れ、河童」
「言われなくても走ってるっつーの」
 悟浄はその形のいい細い眉を片方吊り上げた。階段のコンクリートの壁にふたり分の足音が響き渡った。








「壊れちゃった? 」
 ニィ博士は興味深そうに眼前でうずくまる黒髪の男を見据えた。正気を手放してしまったのだろう。相変わらず、触手どもは飽きもせずその白い身体を犯してむさぼるのを止めない。
 それどころか、加える淫虐はさらにひどくなっていっている。上の口から入り込み、下の口から臓腑を這い登る。八戒のことをそのうち喰ってしまいそうだ。それなのに、八戒は幸福そうな微笑を浮かべて、何かひとりごとを言っている。
「さんぞ……さんぞ」
 まるで、このひどい陵辱劇を耐えるための聖なる呪文のように、唱え続けている。酷い拷問のような触手の輪姦に耐えかねて、正常な神経が麻痺してしまったのだろう。
「んー。そんなに三蔵のことが好き? 妬けちゃうなぁ」
 ニィは鉄格子ごしに、八戒へ手を伸ばした。目の前の美青年は狂気に侵食されつつあった。
「どう? もうそろそろ……他の男に抱かれてもわけがわからないんじゃない?」
 ニィは舌なめずりする声を出した。確かに今の八戒なら、誰に抱かれても三蔵だと思い込もうとするだろう。
「イイコだから、そのままそのかわいい口を開けていて、そう」
 八戒は下肢を触手に穿たれたまま、ニィにあごをつかまれ、口を開かされた。とろんとした緑の瞳は膜がかかったようで正気をうかがわせるものはない。生理的な涙が浮かび、快楽の奴隷と化している。
「いま、かたくて太いモノ、もうひとつ咥えさせてあげるから」
 ニィの声がうわずっている。吐息が荒い。本気だ。白衣のボタンを外して……ジッパーが降ろされる金属音がした。


 そのとき、
「!」
 凄まじい轟音が響いた。すぐ下の階からだ。うち捨てられた不夜城のごとき廃墟のいくつかのネオンが消えた。いまの衝撃で一部の電気系統が破壊されたのだろう。
「……来たね」
 ニィはメガネのレンズを白く光らせた。
「思ったより、早かったじゃない」
 不敵なその面構えに人の悪そうな笑みを浮かべた。ゆるめようとしていた着衣をもう一度着込み、白衣のボタンを再びとめる。
「紅流、いや玄奘三蔵」
 ニィが呟いた、その次の瞬間。
 薬局のガラス扉が粉みじんに吹き飛んだ。きらめく飛沫のごとく、ガラスが床へ飛び散ってゆく。
「……ブッ殺す」
 金の髪をした神々しい男が、破壊されたガラス戸から傲然と入ってきた。その僧衣の下、ブーツの足元で、微塵になったガラスがじゃりじゃりと音を立てた。
 ガラス扉にも結界が張られていた筈だったが、そんなのは関係ないとばかりに、三蔵が蹴り破ったのだ。そのまま、悟浄とずかずかと店の奥まで足を進める。
 漢方薬や箱入りの怪しげなクスリが天井まで積み上げられた店内を抜け、もうひとつ、『private』 とプラスチックの板で記されたドアの前に来た。
「オラッ」
 今度はそれを悟浄が蹴破った。
「乱暴だなァ。ドアを開けるとかいうお行儀はないワケ? 」
 ニィ博士は白衣の裾を揺らめかせて、立ち上がった。鉄格子をつかむ手を名残惜しそうに離し、仕方なさそうに三蔵と悟浄へ向きなおった。
「はっ……」
 悟浄が鉄格子の中にいる、八戒を見つけた。言葉が出てこない。紅い目を見開く。
「…………!」
 三蔵があまりのことに絶句した。
 毒々しい薬局の中にある陰惨な牢屋、その中に白い裸身が横たわり、化け物に食われるようにその身を犯されている。それは、悪夢のような光景だった。
 三蔵は全身の血が沸騰した。いや凍ったのかもしれない。それほどの衝撃だった。
 八戒が受けていた行為は、仲間ふたりの想像を超えていた。悲惨だった。
鉄格子の牢の中にいて、透明で禍々しい生き物に羽交い絞めにされている。生理的に嫌悪を催すその生物は八戒を舐め溶かすように嬉々としてしゃぶっている。触手のような醜悪な腕が何本も生え揃ったその化け物は、黒髪のこの好青年の白い身体を無理やり開かせて、その狭間に触手を挿入して蹂躙し陵辱し尽くしていた。
 そう、最初はあまりのことに、よく認識できなかったが、よくよく見れば、八戒はこの化け物に、
――――犯されているのだ。
 恐ろしい凄惨な強姦を仲間は受けていた。
「てめぇ、よくも八戒を!」
 錫月杖が鮮やかに舞った。硬質な金属音を立てて、牢の鉄格子へぶつかる。さすがに檻は切れなかった。鎖が虚しく空を切った。
「クソッ」
 悟浄の表情に本気の怒りが浮かんでいる。
退け、河童」
 三蔵が凄みのある低い声で言った。殺気のこもったうなるような声だった。
「おっと、いきなりそれはないんじゃない? 」
 三蔵の意図を察したニィがうさぎのぬいぐるみを抱える。しかしその時、再び錫月杖が空を舞った。鎖がうさぎを抱いたニィの腕に絡み付いた。
「動くんじゃねぇよ」
 悟浄だった。剣呑な鋭い視線でニィを睨みつけた。親友の八戒にあんな拷問じみたことをした相手を許すつもりなど到底なかった。本気で殺す気だ。
「ははぁ。強気じゃない。キミ、自分が誰を相手にしているか、分かって」
 ニィのメガネのレンズが白く光る。しかし、
「オン、マニ、ハツ、メイ、ウン」
 三蔵が唱え終わる方が先だった。
「魔戒天浄ッ」
 圧倒的で白くまばゆい聖なる光がその場に満ちて爆発した。目が潰れるかと思うほどの暴力的な光と力が嵐のごとく荒れ狂った。






 「廃墟薬局(9)」に続く