廃墟薬局(10)

 どのくらい、時間が経ってからだろう。

 元の宿屋に命からがら、ようやくたどりついた。ジープは健気だった。気合で宿の近くまで全速力で走り抜けたものの、到着すると気力が尽きたように元の小竜に戻った。




 翌日の昼過ぎ、宿の食堂で悟浄が呟く。
「街の連中の反応はどうよ」
 食堂のテーブルに腰掛けた。黒光りするテーブルに、赤い髪をした男のらしくない浮かない表情が映っている。
「んー。まっさかオレたちがあのビル壊したとは思ってないみたい」
 温かいミルクの入ったマグカップを手に、悟空は下を向いたままだ。
「だろうな」
 悟浄と三蔵はちらりと視線を交し合った。視線の向こうには黒髪の男が茫洋とした目をどこに向けるでもなく向けて座っている。目の前にというのに、三蔵のことも悟浄のことも見ない。
結局、八戒の魂は半分しか戻ってこなかった。宿にたどりついた後、昏々と八戒は部屋で眠り続けた。
 そして、目を覚ました後も、
 そのきれいな緑の瞳には以前のような明晰な光はなかった。ひたすら、ぼんやりとした薄暗い翳りがあった。

 ニィの与えた媚薬。
 触手の催淫粘液。
 ニィ健一は本気で八戒の精神を破壊しようとしていた。それは確実にこの黒髪の青年の精神を蝕んでいたのだ。
「ったく」
 悟浄は舌打ちした。心配すぎる。この優しい男の顔にそう書いてある。
「ま、アセるこたねー。ゆっくりしてるウチに元に戻るだろーし」
 軽口めかして言った。その言葉は間接的に三蔵を慰めていた。
「悟浄」
 三蔵の白皙の顔立ちは厳しい。宿に戻ってからずっとこの調子だった。いまだに仲間に単独行動を許した自分の軽挙を責めているのかもしれない。プライドが高いので絶対に本人は白状しないが、三蔵自身の調子もなんだかおかしかった。
「俺、ちょい外、行ってくっわ」
「悟浄」
 こんなときになんだと三蔵の顔に書いてある。女遊びか。こんなときにか。
 しかし、
「これこれぇ」
 悟浄は紙の箱をいくつか手に掲げた。新しいのも、古いのもある。
「なんだそれは」
 紫色の瞳が警戒するように細められる。
「あれぇ、それってあの薬局の?」
 悟空が首を伸ばしてのぞきこみ、金色の目を輝かせた。
「そーそ。後でジープん中、見てみたら、幾つか薬箱が車の中に残っててさ」
 傷のある方の頬で悟浄はにやりと笑った。 ビルが崩壊する時、薬棚はジープへ倒れこんだ。そのとき落ちたのだろう。
「あの飯店のオヤジさんにコレ渡してこよーかと思って」
 悟浄が言う飯店のオヤジとは、自分たちに嘘の天地開元経文のことを吹き込み、地図を渡した主人のことだろう。
「悟浄」
 三蔵は眉をしかめた。
「だぁって、あのひとの子供、病気なんだろ。コドモに罪はないじゃん。これ、結構高そうだし、使えるの混じってんじゃね」
 優しい。優しかった。
 この赤い髪の男は本当に根が優しかった。子供が難病に罹っているという主人の言葉を聞いてずっと良心が咎めていたのだろう。弱いものにことのほか優しい男だった。考えてみれば血まみれの八戒を助けたのもこの男なのだ。
 悟浄の持っている薬の箱は5つくらいあった。Antidoteと記された青い字の箱、神経線維腫症I型専用for genetically modifiedと大きな赤字の踊る箱、amritaと小さな字で書かれたもの、Mandrakeと古代文字で記された古ぼけた箱。読めそうもない古ぼけた字で記された蓮の花色の箱。

 見るからに貴重な薬のようだ。
「勝手にしろ」
 三蔵は吐き捨てた。八戒がこんな風になってしまう原因になった飯店の主人を許す気持ちなど、三蔵にはとても湧いてはこない。
「甘いヤツだ」
 手元のマルボロに火をつけた。紫煙が薄くたなびく。
「へえへえ。すいませんね」
 悟浄は出て行った。宿の食堂のドアが閉まる硬質な音が響く。三蔵は舌打ちをひとつすると、八戒の方へと向き直った。彼は色の白い黒髪の人形のようだ。
 三蔵はその紫色の瞳を細めた。
 間接球体人形。精巧なお人形。そんな気配がこの黒髪の男からする。残酷な陵辱を受けて、この男の心は完全に壊れてしまっていた。
「チッ」
 忌々しそうに三蔵は舌打ちした。白い僧衣の袖を払う。
「八戒、もっと水とかお茶とか飲もうよ」
 隣で悟空があれこれと世話をやいている。これではいつもとあべこべだ。それなのに、ぼんやりとした視線を空に浮かせ憂いのある表情のまま黒髪の男は微動だにしない。
「もういい、悟空」
 どこか、胸が痛むのを感じながら、三蔵は言った。
「え、でも水とかお茶とかたくさん飲めば」
 悟空がその金色の目を真剣に見開いた。三蔵を正面から見据える。
「いろいろ悪いモンが抜けて、もとに戻るんだろ。さんぞーそう言ったよな」
 水の入ったグラスを手に、悟空は真摯な表情を浮かべている。いかにも少年戦士といった戦装束を着ている。紅のマントや勇ましい肩当て、首を守る長い布を巻きつけ、ズボンに包まれた脚は強靭なバネでできている。そんな勇ましい悟空だったが、目に見える敵はともかく見えない敵は苦手のようだった。こんなときどうしたらいいのか分からないらしい。
「元に戻ることもある。そう言った」
 三蔵の声は低く重く苦しげだった。
 沈鬱な雰囲気に包まれる。そう、もとに戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。何しろ、八戒がこうなってしまったのは、クスリのためだけではあるまい、あのおぞましい触手に犯され、精神的にも破壊されてしまったからなのだ。
 沈黙がふたりの間に落ちた。柄でもなく悟空までもが深刻な表情で眉をしかめていた。
 そのときは、それで話は終わった。


 事件は数時間後に起きた。
 その夜。その食堂で食事も済ませ、それなりに夜も更けた頃、
三蔵は風呂から出て気がついた。
「八戒? 」
 黒髪の男の姿が見えない。部屋の明かりは煌々とついている。白熱灯が天井で灯り、真昼のように明るい。ふたり用の部屋だった。
 こぎれいなベッドがサイドテーブルを挟むようにしてふたつ置かれている。窓際には小さめのテーブルとふたり分の木の椅子があった。華美ではないが、清潔な部屋だ。シーツも洗いたてで換えたてだった。
「八戒」
 段々と三蔵の声が硬くなってゆく。風呂に入る前に、入り口のドアは閉めたはずだった。ということは、
「八戒! 」
 内側から開けたのだ。要するに八戒が自分自身で出て行ったのだ。人形みたいになっている癖に。
 勢いよく最高僧はドアを開けた。がらん、とした廊下が広がっている。木目が美しい床に、嵌め殺しのガラス窓、中国風の花格子が華麗な意匠で取り入れられ、闇の中美しく光っている。そんな廊下に点々と明かりが灯っていた。ほの暗いが様子が見えないわけではない
 しかし、八戒は廊下にいなかった。
「おい! 」
 三蔵は隣の部屋を叩いた。
「ん? 何、さんぞー」
 悟空が目を擦りながら出てきた。もう夜の9時を回っている。健康優良児の悟空は、お腹いっぱい夕食を食べた後で眠いのかもしれない。パジャマ姿だ。
「八戒、そっちに行ってないか」
 なるべく、落ち着いた声を出そうとして失敗した。
「え?! いないよ。何それ、八戒、いなくなっちゃったの? 」
 眠そうだった悟空の声が変わる。ぴん、と空気が緊張した。
「ああ。だが、部屋にいないだけだ、宿のどこかにいるのかもしれん」
「でも、どこに」
 三蔵と悟空は険しい表情で視線を交わした。あんな状態なのだ。八戒に自分の意思があろうとは思えない。突然、正気を取り戻したのか、それとも……犯されていたことを詳細に思い出し、いよいよ深く狂ってしまったのか。
「1階に行くぞ」
「うん。喉が渇いたから、食堂に水でももらいに行ったのかもしんねーし」
 三蔵と悟空は廊下の端にまで行くと、階段で降りた。ひと足ごとに木がきしんだ音を立てる。磨かれてはいるが木造の古いつくりだ。
 1階まで行くと、先ほどまで食事をしていた食堂が目に映る。ドアらしきものはない。入るも出るも自由だった。窓が天井まであって、綺麗な夜空が借景となっている。
 テーブルの上には昼とは違い、タンブラーに入ったろうそくの灯りが優雅に揺れ、黒光りする木製のテーブルが鏡面のように焔を映していて綺麗だ。
 昼は食堂だが、夜は酒や軽食を出す店だった。数人だが客もいる。
 そんな幾つかテーブルの置かれた窓際に、八戒の姿を認めた。
「はっ……」
 悟空が安心して声をかけようとするのを、三蔵が止めた。その口を大きな手でふさぐ。
 夢幻的な光景だった。
 いつもの緑色のえりの立った上着を着ている。やや幅広に黒い布で縁がかがられたその服は禁欲的だが、ことの他この男によく似合った。上着の裾が腰の辺りで切れ込みが入り、しなやかな腰が見え隠れするのが扇情的だ。肩から背にかけて白い肩布を巻いて、それを腰の辺りでまとめて縛っている。いつもどおりの真面目で清潔な姿だった。
 しかし、今夜の八戒はいつもとどこかが違った。
 整った小づくりの細い面は玉を刻んだようで、細く鼻筋の通った鼻梁や、男性的で色気のある口元はあくまでも美しい。しなやかなその眉は月に似た弧を描き、全体的に整いすぎて人間ばなれしていた。目にかかるほどくらいの長さの前髪は夜風にそよいで、一幅の絵のようだ。ただ、その美しい瞳だけは人形めいていて、以前のようなきらめくような意志の光は消えている。
 しなやかな長い首を傾げて顎の下で手を組み、麗人は物憂い翳を表情に宿している。まるで、何かを待っているかのようだ。
テーブルの上には、水の入ったグラス以外、何も置かれていない。
 そんな、ときだった。
「あれぇ、ひとり? 」
 テーブルとテーブルの間を縫うように歩いてきた男が、背後から八戒に声をかけた。
「寂しそうじゃん。どうしたの?」
 そのとき、食堂の入り口から様子を伺う、三蔵と悟空も驚くようなことが起こった。
 見知らぬ男に声をかけられ、八戒が嫣然と微笑み返したのだ。艶かしい蕩けるような表情だった。何か、八戒の身体の中で封印されていた悩ましい蜜の気配が一段と濃くなったようだった。妖麗に、八戒は知らぬ男の視線に笑顔で応えた。それは謎めいていて、意味ありげな表情だった。
「……なんか、飲む? 俺、おごるよ」
 美人に微笑みかけられて、男がつられて立ち止まった。それはそうだろう。こんな麗人に微笑みかけられたら、脈があると思うしかない。艶のある黒い絹糸のような前髪が夜風を受けてさらさらと音を立てている。
 八戒は再び微笑むと、目の前の椅子をその長く優美な手で指し示した。座れ、と言っているかのようだ。人形のように美しい。じっと検分するように見つめてくる。
「え、ええと」
 迫力のある美貌にまじまじと見つめられて、相手の男が唾を飲んだ。真正面から見ると、その顔立ちは余計に完璧だった。雲から姿を現した月が、この麗しい男を横から照らし出す。まるで天人のごとく美しい。美しすぎて、表情が憂いを帯びて見える。椅子に腰掛けた様子も一幅の絵のようで、しなやかな細い柳腰が目の毒だ。押さえつけて抱きつぶしてやりたくなる。性的に艶かしい男だった。着込んでいる禁欲的なえりの立った服をはぎとってやりたくなる。
 ぶしつけな相手の視線に気がついたのか、ふッ、と八戒のやや男性的で大きめな、しかし品のある唇が微笑みの形により鮮やかな弧を描いた。
 そして、
 つ、とその白く優雅な手を相手の手に重ね合わせてきた。そのまま、しっとりと指を絡ませる。八戒は近寄るといい匂いがした。洗髪料か何かの香料の匂いだろうか、いや違う。もっとこの男の身体の奥底から出ている本質的な麝香に似た香りだった。雄をからめとって狂わせて放さないような、悪魔的な妖しい匂いだ。
「あ、そういうこと? アンタ、『男』 探してんの? ソレ俺でもいいの? 」
 男は戸惑いながら言った。男娼にしては、美しすぎる。目の前にいるのは、まるで月から来た天人のように美しい男だった。
 しかし、こんなにあからさまに見ず知らずの男を誘うのだ。そういう商売か、または男を漁りに来た妖しい悪魔か何かだろう。整った美貌で流し目をされて、男は緊張しながらも必死で言った。こんな機会は一生に一度あるかないかだろう。唾を飲み込んでいる。喉を小さく鳴らした。
「そ、そういうことなら、外に行こうか。い、いやここの宿の部屋とってもいいけど」
 八戒は首を縦にゆっくりと首をふって肯いたようだった。
ようだった、というのは、突然、低い声が夜の食堂に響き渡ったからだった。
「おい、ふざけんな」
 金の髪をした、僧形の男が怒りの形相でテーブルへ近づいてきた。そして、八戒の正面に座った男の胸倉を勢いよくつかんだ。椅子が大きな音を立てて倒れる。
「てめぇ、いい度胸だ」
 その場が騒然とした。夜更けのバーのような気だるく退廃的な雰囲気が霧散する。ガタガタと周囲の椅子も連続して倒れた。
「な、なんだてめぇは」
 突然、つかみかかられて、相手の男は悲鳴をあげた。
「うるせぇ。死ね」
 三蔵がS&Wを取り出して、相手のこめかみに当てようとする。その腕に悟空がしがみついた。
「三蔵ッ」
「邪魔すんじゃねぇ。サル! 」
 悟空の力は馬鹿にしたものではなかった。小銃を持つ腕をめいっぱい押さえつけた。
「放せ、放せってんだろうが」
 悟空と揉みあっているうちに、相手の男は隙を見て一目散に逃げ出した。 
「チッ」
 三蔵は舌打ちした。忌々しい表情で逃げた男の背へ視線を向ける。しかし、もう追うような気力は湧いてこない。あれは、ごく普通の男だ。美人に弱いごく普通のどこにでもいる平凡な男だ。
 それより。
 三蔵は憎しみを込めて背後を振り返った。
 天人のような男の顔には、もう表情らしきものはない。人形に戻ってる。かつて、「お前は俺を裏切らない。そうだな」 三蔵がそう信じきっていた男が座っている。
 苦いものが、込み上げてきた。
 三蔵は高ぶる気持ちのままに右手を振り上げた。そのまま、横に払うようにして、八戒の頬を勢いよく打った。乾いた音が食堂中に響いた。
「……淫売が」
 地の底を這うような、押し殺した声だった。視線で殺せるものなら殺してやりたい。そんな剣呑な視線を黒髪の男へと突き刺した。
「お客さんッお客さん。騒ぎは困ります……」
 店員が寄ってくるのに、舌打ちをし、三蔵はそのまま八戒の腕をとって引きずるようにその場を後にした。







 「廃墟薬局(11)」に続く