八戒はあらためて自分に配られた地図を開いた。
街全体が描かれている。確かにそれは弱視用の地図だった。地名や通りの名前などは、通常よりも拡大され、大きな字で記載されている。
しかし、地図に顔を寄せて、よく覗き込むと、
「?」
油性ペンで手書きと思われる書き込みがあった。とある建物へ矢印が引かれ、そこに 『ココにいるぴょん』 ふざけきった言葉が書き込まれていた。
「これは……」
八戒は目を見開いた。
これはなんだ。
『ココにいるぴょん』 誰がいるというのか。敵か、それとも飯店の店主が言っていた天地開元経文を持つ、三蔵と同じ立場の僧か。
「ジープ、とりあえず場所を確認して敵がいるようでしたら、三蔵たちと合流しましょう」
肩の上で甲高い鳴き声が応えた。八戒は手でジープをなだめるように撫でた。その白い指へジープが体をすり寄せてくる。ジープの体温が手に伝わる。ジープも不安に思っているのだろう。
ひょっとしたら子供の悪戯かもしれない。八戒はそう思った。子供の悪戯、それがぴったりな感じだった。敵がいるなどという確信は持てなかった。
飯店にいた小さい子供のことを八戒は思い浮かべていた。少し病弱そうな子だったが、子供は子供だ。こんな悪戯をする一面も当然、持っているだろう。
地図に沿って、八戒とジープは黙々と進んだ。古い石畳の固い感触が足裏に伝わってくる。迷路のような路地を幾つも過ぎ、橋を幾つも渡った。
この街の北側は退廃的な迷宮都市のようだった。いくつかの曲がり角を過ぎると古風な商店街に出た。はちみつを売る店、代筆をする店、紙を売る店、古い書を売る店、骨董屋。幾つもの店の前を足早に通り過ぎる。
物売りの物悲しい声が路地裏からせつなげに聞こえ、途中で、古いオルゴールの音がした。耳になじみのある懐かしい曲を聴いた気がした。
「……ここですかね」
突然、路地が切れた。開けたところに来た。広場のような突き当りに、その問題の建物はあった。
それは禍々しい廃屋だった。高さは6階くらいだろうか。今にも崩れそうな古いビルだ。
コンクリートの表面に微かに亀裂が入っている。昔の海砂入りの粗悪なつくりかもしれない。そして、目の前の1階中央に、臓腑をさらすがごとく暗い入り口がぽっかりと開いている。扉らしきものはない。
「ここで、間違いないようですね。地図の通りですよ」
八戒は緊張した面持ちで、地図から目をあげて廃ビルを見上げた。昼なのに、とたんに周囲に禍々しい闇が立ち込めてくる。そんなビルだった。
「行きますよ。ジープ」
「きゅ……」
ジープは不安気に返事をした。
ビルの中は意外と広かった。怪しいナトリウムランプが昼だというのに、薄暗い建物の中で点滅している。切れ掛かった電球が、不吉にチリチリと音を立てた。すえた臭いが立ち込め、ドブネズミが床の上を走る音が聞こえる。
陰鬱なスラムだ。
オレンジ色のどぎついネオンは 「有限公司」 と光を放ち、看板は斜めに傾いている。営業しているのかしてないのかも定かではない。その隣には「歯科」のライトが青く光る。これもところどころネオンが切れて、不気味だった。
誰もいない。
そのくせ、常に人の気配がする。こうした行き場のない廃墟で営業する無免許医や歯医者もいるという。そうした連中がここにいるのだろうか。薬品用の大きな缶がいくつも転がり、捨てられているのか錆びついている。
魔窟だ。
怪しい1階を過ぎ、2階の階段を上る。自分の足音しか聞こえない。切れかかって点滅する階表示の黄色いランプが不吉だった。
壁のいたるところにところ狭しと張り紙がしてある。大きさもまちまちで、色も様々で雑多だった。紙の上に紙が貼られる乱雑さだ。
多くは金を貸しますとか店の宣伝なのだが、中には呪いや、占い、縁起をかつぐ呪術的な張り紙もさりげなく混じっている。漢字でおどろおどろしい文句が紙面を踊っていて異様だった。
そう、廃墟の壁面は圧倒的な呪術空間だった。通常、階段の踊り場と言われる世俗的な空間はすっかり降魔の異空間と化していた。
「きゅー」
「怖いですか? ジープ」
八戒は肩先にしがみついているジープの頭を撫でた。
「……なんでしょうね。攻撃とかはされないですけど、この感じ気持ち悪いですね」
昼間だというのに、薄ぼんやりした不気味な空間だった。幻燈のようだ。まるで怪談の中に迷い込んだような気分だ。べたべたといたるところに貼紙のされた階段の踊り場を過ぎ、八戒は2階へと出た。
そこはゲームセンターだった。店舗は店終いをしたまま、虚ろにその残骸をさらしている。かつてにぎわっていただろう遊具たちが無残に打ち捨てられて屍をさらしていた。
ゲームの躯体が横倒しになって転がり、液晶画面にはひびが入っている。クレーンゲームの類は、中に商品も入っていない。ガランとした空の中身がもの寂しい。ひと気のない寂しい空間に中国語のチラシが床に散らばっている。塗装の剥げた 「電脳世界」 の看板が暗い天井から釣り下がっている。
「ここでもなさそうですね」
他の階も同じような雰囲気だった。廃墟めいているが、それでもまだなんとか電気が通っているらしく、ときどき、鮮やかな看板のネオンが点っていて驚かせられる。
虚飾に満ちた華やかな明かりは今にも消えそうになりながらも点滅してひとを誘う。年老いた美女のようだ。
「床屋」 の表示が点り、赤と青の螺旋状の看板が粉々に破壊されて床に落ちて散らばっている。無残なのに、それは妙に美しい。
まるで、汚物と翡翠と阿片が混濁して存在しているような退廃的な空間だった。
そうやって、いくつ階段を上っただろうか。
とうとう、上の階まで昇りきった。6階の表示が黄色く点滅している。
昇りきると、これまたひたすら不吉な闇が広がっていた。
昼だというのに、目の前に長く暗い廊下が細く伸びている。いや、実際はさして暗くはないはずだ。現に八戒の傍には明かりとりための小窓が開いているのだ。
それなのに、妖しい気配が充満していた。
ガス管だろうか、空気用のダクトだろうか、むき出しのままの配管が縦横無尽に壁といわず天井といわず這いまわり、まるでグロテスクな生物の内臓のようだ。
覆うことも忘れた電気の配線が壁や天井から縦横無尽に垂れ下がる。銅線をむき出しにして死んでいる線もそのまま、なんの処置もされずに放置されていた。
そして、そんな奥に、ぽっと幻燈のごとく点る妖しい明かりがあった。
『藥局』
毒々しい灯りだった。紅い光を受けて薄汚れた廊下に陰影ができている。
「……薬屋? 」
八戒は目をみはった。それはどこか、誘蛾灯の光にも似た官能的な灯りだった。
ところどころひびの入ったガラスの扉ごしに店の中が見える。店内は薄青い蛍光灯の明かりで満たされ、天井まである棚にぎっしりと薬の瓶が並べられている。
阿片窟へ麻薬を卸す悪党薬局。そんなイメージにぴったりな薬屋だ。
そして驚くべきことに、その前にはいつの間にか人がいた。白衣を着た男が紅い灯りに照らされるようにして、その男はぼんやりと立っていた。このビルではじめて会う生きた人物だった。
「ご入り用の薬がおありかな、お兄さん。なんでも揃ってるよ。アムリタでしょ、ソーマでしょ、マンドラゴラでしょ」
――――それは、ひょうひょうとした声だった。おどけた悪魔みたいな声だ。
短い髪は黒く、メガネをかけている。顔つきは知的で端正と言っていい。
しかし、その表情は淫猥に歪んでいる。あごに生えた不精ヒゲがだらしないが、それがまたどこか性的な魅力をこの男に添えている。
「EDのイイ薬もあるよ。お兄さん。飲むとたちまちビンビンだよ」
まるっきり怪しげな違法薬局の客引きだった。
「……結構ですよ」
八戒は眉をひそめた。なんだか、まともでないところに来てしまった。阿片窟特有の甘ったるい麻薬の匂いが濃くただよっている。むせる香りに顔をしかめた。
「またまたぁ。必要なんじゃない? お兄さんには。素直じゃないなァ」
相手の、軽薄な悪魔に似た男は八戒の反応を見て、薄い唇を歪めて笑った。
「キミには必要でしョ? 玄奘三蔵サマのあんなに熱烈な告白をフッちゃうなんてさァ。不感症もいいとこだよね」
この言葉に雷にでも撃たれたように、八戒は顔色を変えた。
「な……」
唇が震えた。言葉が出てこない。
「猪八戒クン」
相手のメガネの奥の目が淫猥に光った。
「貴方は……」
八戒はジープをかばうように首の後ろへしがみつかせ、身構えた。
「何故、僕の名前を」
「やっだな。好きなヒトのコト、調べるなんて基本中の基本でショ」
この男は、いつの間にか式神や使い魔を、街中に放っていたのだ。
「な……」
ふざけた男だった。絶句する八戒にかまわず男は言葉を継いだ。
「ボクのお手製の招待状、見てココまで来てくれたんでしょ? 」
彼は八戒の手にしている地図へ手を伸ばし乱暴にとりあげた。そのまま、両手で地図を細かく引き裂く。紙片が紙ふぶきのように廃墟の廊下に舞い散った。何かの――――これから行われる魔宴のための儀式のようだ。
「ボクの名前はニィ。化学者のニィ健一っていいまーす。『にーたん』 って呼んでくれるとうれしいな」
軽薄な癖に底知れない怖さがあった。闇の眷属だけが出せる声だ。
「ジープ」
八戒は小声で肩先にいる愛竜に話しかけた。なんとしてもここから逃げなくては。恐ろしいことがおきそうな予感がした。
しかし、そんな八戒の心の動きを、目の前の白衣姿の男は見逃さなかったようだ。
「無駄だよ。黒髪の天使ちゃん」
その無感動な蛇に似た目で八戒を正面から見すえてくる。
「もうキミ、とっくにボクの結界の中だって気づいてる? 」
カンに触る笑い声が廃墟に低く響く。
「ボクからは逃げられないよ。ちょっと気がつくのが遅かったねザンネン、ザンネン」
そう、
罠。
これは罠だった。
「うれしいよ。何しろキミは 蘇生実験の大事な 『カタリスト』 だからね」
白衣を着た相手はわけのわからないことを言った。
八戒は唇をきつく噛んだ。
――――何もかもが異常だった。
踊る骸骨のごとく不吉で軽薄な男。メガネのレンズごしにねっとりとした視線を送ってくる。虚無をにじませた黒い瞳。
そして、抑えた殺気を全身からただよわせている。
目の前にいる、この悪魔的な男は、
敵。
そう、
こいつは敵だ。
三蔵の敵だ。八戒は確信した。この薬局の中へ入ってはいけない。
「ジープ逃げて下さい! 」
叫んだ。廊下に響き渡る大声だ。
「おっと、もうボクの結界の中だっていったじゃない」
「ジープ! 」
八戒は傍の窓へかまわず手を振り上げた。手の平が白く気功で発光する。
「くっ……」
そのまま勢いよく嵌め殺しのガラスを割った。気功を全力で注ぎ込む。
「ジープ! ここから早く逃げて! 」
八戒の気迫に応えるように、ジープは真っ直ぐに窓へと突進した。その白い翼が割れた窓ガラスの間をなんとかかいくぐる。一瞬、、小さい竜はその忠実そうな視線を八戒へと向けた。
「振り返らないでジープ! 」
必死な声だった。声に応えるかのごとく、ジープはもの凄い速さで外へ飛んで行った。小さい竜の羽が太陽の光を受けて鮮やかに白く光り、その姿はまたたく間に三蔵のいる街の方角へと消えた。
「……この! 」
はじめて、目の前のいる化学者めいた男の目に、激しい感情の光が閃いた。八戒へその足を振り上げる。
――――脚で蹴られた、すごい力だった。黒髪の男は床へ転がった。嵌めていたモノクルが弾け飛び、コンクリートの床に肉が叩きつけられる鈍い音が反響する。
「ぐ……」
床へ血を吐いた。
「油断したなァ。もう」
白衣の男はうそぶいた。メガネのブリッジを片手でおさえている。
「実験動物ごときが生意気だよねェ。……後悔させてあげるよ」
生まれてきたことをもね。ニィは小声でそっと呟き、その淫猥な唇をつりあげて笑った。八戒は目を閉じた。力が出ない。
「廃墟薬局(4)」に続く