廃墟薬局(2)

 食事が終わり、三蔵は下僕3人を連れて、飯店のドアを開けた。福の字がさかさまに金箔でしるされた、赤い地の綺麗な紙が風にひるがえる。とても東洋的な縁起物だ。
「どうも、ありがとうございました」
 飯店から、三蔵たちが出て行くのを店主は愛想よく目じりを下げて見送った。
 しかし、
 三蔵たちの姿が、街の道の奥へ完全に消えると、店主はその表情を変えた。身体が冷たく強張っている。不安がべっとりと裏側からにじみでて皮膚から滴り落ちているような顔つきだ。
「……に伝えないと」
 店主は不明瞭な声で呟いた。
 急いで店の奥へと足を向け、小さな小机へ駆け寄った。そこには古いタイプの電話機があった。いまどき珍しいような黒い電話だ。
 店主は、左右を見渡すと誰もいないのを確認し、そっと電話の受話機を手に取り、番号を指で押した。短い機械的な発信音がいくつか続いた後、電話が繋がった。
「あれでいいんですよね。あの四人連れには先生の言う通りにしたよ」
 店主は受話器に口を寄せ、手で覆うようにしてささやく。声が漏れるのを恐れているらしい。
「……だから、ウチの子にあの薬を売ってくれるんですよね。先生」
 必死な声色だった。


 
 三蔵たちが立ち寄ったこの街は、かなり大きかった。石畳の敷かれた旧市街と、コンクリートのビルが混在している。陽光がきらめき灰色の石畳に反射し、かすかに虹色を帯びている。昼をとった飯店の前からさほど遠くない道の上にいた。どうも、飲食店が集中するこの界隈は、街の中央に位置しているらしい。
「探してみるか」
 三蔵は外光の眩しさに目を細めた。タバコの吸殻を白い僧衣の裾からのぞくブーツで踏み消している。
「三ちゃん以外の三蔵法師サマねェ……まぁ、ほっとけねぇよな」
 赤く長い髪の間から茶色いバンダナがのぞく。それが着ている革のジャンパーにまたよく似合った。くわえタバコのまま、斜に構えた表情が頬の傷とあいまって不良っぽい。
「でも万が一、本物の経文だったらマズイよね」
 首元を覆うカーキ色の布、黄色いマントが風を受けてひるがえる。太陽の光を受けて、額の金鈷が輝いた。
「ほっといて、また妖怪にでも奪われたら迷惑だ。この俺が預かっておく」
 金の髪を揺らして、三蔵がうそぶく。
「うわ、すげぇえらそう」
 悟空が肩当てをつけた肩をすくめる。龍の爪を思わせる、勇ましい肩当てだ。
「黙れ」
 文頭のアクセントを強調した傲岸不遜ごうがんふそんな言葉が素早く返ってくる。

 もらった地図は、ちょうど人数に合わせるかのように東、西、南、北に分かれていた。
「悟浄は街の西、はい、この地図かな? 俺が街の東、さんぞーは南、八戒は」
 悟空の声に合わせるように、八戒が素早く地図を配りだした。渡すときに縁が黒い緑の袖が揺れる。まるで引率の先生を連想させる手際の良さと雰囲気だ。その肩では白い愛龍が可愛らしい声で鳴いている。
「僕の地図はちょうど北ですね」
 メガネや弱視用の地図を覗き込みながら、八戒は言った。確かに地図には 『北』 と記されてあった。一緒にジープが覗き込むのに気がついて緑の目を細めて一緒に微笑む。
「南は市場があって、北は商店街か」
 三蔵も手元の地図を開いた。
「西は住宅地だな」
「東はなんかいろいろ建物があるな! 役場ァ? 美味いのかなそれ」
 悟空は明るい笑顔だ。好奇心でいっぱいの表情だった。
「何かあったら、深追いせずに下がれ。宿に戻れ」
 紫色の瞳に、何か思うところでもあるのか、思慮深げな光を浮かべ、三蔵は言った。
「わかった!」
「おう」
 悟浄が軽く手を上げる。革製のジャンパーをひるがえして、悟浄が背を向けた。
「じゃ、あとで! 」
 悟空は軽快に飛ぶようにその場から走っていった。素晴らしい跳躍力、もの凄いバネだ。くるぶしまである靴に包まれた足は、まるで雲か虹でも踏んでいるかのようだ。

 路上には、三蔵と八戒が残された。
 
 しばらく、ふたりは会話しなかった。不自然な沈黙が場に満ちた。まだ日は高く中空にかかり、風はそよぎ、石畳の上に小鳥たちが舞い降りる。鳥の翼が影をつくっている。
「なんです? 三蔵は南を探すんでしょう?」
 口を開いたのは、八戒の方だった。警戒するように、その腕を組んでいる。白い肩布に右手を当て、まるで三蔵から自分の身を守るかのように、やや斜めに身を引いている。その肩ではジープがおとなしく載っていた。
「……こうでもしなきゃ、てめぇ、俺と話をしねぇだろうが」
 三蔵が珍しく、真剣な口調で言った。抑えた熱さが口調ににじんだ。
「この間の返事、聞いてねぇ」
 それは、どこか苦いものが混じった声だった。
「さん……」
「俺は本気だ。アレは遊びなんかじゃねぇ」
 風がそのとき、通った。三蔵のきらめく金色の髪の間で、聖別された象徴のようなチャクラが額からのぞく。
「きちんと探してる悟浄と悟空に悪いですよ。僕、もう行きますね」
 八戒は軽く微笑んだ。思わず後ずさりした拍子に、カーキ色の靴の下で枯れ枝を踏んだ。折れる乾いた音が立った。
「八戒! 」
 三蔵は真剣だった。その身には聖職者のまとう、白い衣を着ている。
「ははは、いやですねぇ、怖い顔して。ホラ、ジープも困ってますよ」
 肩先で心配そうにしているジープに八戒は手を添えた。白銀のジープの羽がきらめく。まるで、この黒髪の男から直接生えているかのようだ。天使なのか、悪魔なのか。色は天使で、形状は悪魔に見える。
「俺のことが嫌いか」
 言葉に苦いものが混じっている。その身につけた金色の鎧袈裟に片手を添えて自分を抑えるようにしている。何かに耐えているような風情だった。
「何を言っているんですか? 質問の意図が不明ですよ、三蔵」
 その緑の目は三蔵の額を見つめている。貴い、選ばれたものにしかあらわれない特別な証。いと高きしるしだ。三蔵は普通の人間じゃない。俗世のけがれたものが触れていい人間ではないのだ。
「八戒」
「貴方は第三十一代唐亜玄奘三蔵法師様で慶雲院の最高僧様、僕はその下僕……もう、それでいいじゃないですか」
 八戒は目を伏せた。男にしては長い睫毛まつげが目の下に影をつくる。自分に言い聞かせているような口調だ。
「それがお前の返事なんだな」
 八戒は答えない。聖なる白衣に包まれた三蔵。名工による彫像のごとく整った高貴な姿。直視すること自体、まぶしいような存在だった。
「僕、そろそろ行きますね」
 唐突なその言葉に、三蔵は黙った。じっとその紫色の瞳で黒髪の男を見つめる。八戒の本心を探るような目つきだ。
「それじゃ、僕が探すのは北側でしたね」
 八戒はきびすを返した。その背でジープが小さく鳴いた。緑色のチャイナ服のすそがひるがえり、三蔵に背を向ける。



 何歩か歩いたところで、八戒はぼそりと呟いた。
「……つりあわないですよね」
 自嘲するように唇を歪めた。完全に独り言だ。
「きゅー? 」
 肩の上で、白い小龍が鳴いた。八戒のことを心配そうにのぞきこみその紅い目を光らせる。
「ああ、心配しないで下さい。ジープ」
 八戒は寂しそうに微笑み、北へとその緑色の目を向けた。そちらは賑やかな南と違ってどこか寒々しい場所のようだ。






 「廃墟薬局(3)」に続く