廃墟薬局(17)

それは、情欲の地獄だった。甘い地獄だ。




 次の日、宿の食事を三蔵は1階の食堂へとりに来ていた。もう、宿の従業員も店主も知っていて、
トレイに食事を載せてくれている。今日は簡単に盛られたパンとフルーツが大皿に載り、取り皿が2つついている。パンは発酵が完全な硬いパンと乳をたっぷり使った柔らかいものと2種類で、焼き立ての香ばしい匂いを立てている。それに、ブドウやリンゴ、オレンジの芳しい香りが入り混じった。
「よぉ、三蔵サマ」
 三蔵がきびすを返そうとしたら、傍のテーブルに悟浄がいた。三蔵が手にしているのと似たような朝食を取っている。向かい側には悟空がいて、大きな口を開けてパンに噛み付いているところだった。
「話、あんだけど」
 コーヒーの湯気がふわふわと立つ。悟浄と悟空の座っているのは、4、5人でも全く問題ない大きな丸テーブルだ。空いている3つくらいの椅子を悟浄は手で示した。座れ、というのだろう。
「なんだ。うるせぇな」
 三蔵は苛々した声を出した。早く上に行きたかった。今朝は八戒の手足は厳重に縛ってきた。しかもまだぐっすり寝ているのを確認してから来た。それでも気が気でなかった。
 諦めたように、三蔵は手にしていたトレーをテーブルに置いた。
 悟空がパンを口にしたまま、上目遣いに三蔵を見上げた。そのきらきらした大きな目には明らかな希望の光が見える。
「早くしろ。1分だ」
 悟浄がその権高なもの言いに、顔をしかめる。
しかし、いろいろ言ってやりたいのをなんとか我慢した。
「これ、これこれ」
 椅子のところにかけた袋から、次々と箱を取り出した。テーブルの空いているところに並べた。
「これは」
「そ、ニィの薬局の薬」
「これだけまだ余ってんだって」
 黒光りする木のテーブルの上にパンやら果物の載ったトレイが並ぶ中、幾つもの紙箱が置かれた。端が破れ黄ばんでいるもの、綺麗で最新式のデザインのもの、いろいろな形状の紙箱だ。
「どう?」
「どうってなんだ」
 話が見えなかった。三蔵は眉をひそめた。そのジーンズの尻ポケットでは八戒のカフスがひとつ入っている。思わずそれに、手を当てた。今の正気に返って呻いている男を見るのも心配だったが、元の魂の抜けたようになってしまうのも心配だった。寝ているはずだが、起きたらまたこの間のようなことをしでかさないとも限らない。
「だから、これ八戒に使えるんじゃねぇの」
 悟浄はひとつの薬箱をその骨がしっかりした長い指先でつついた。その箱には
 Antidoteと青い字で記されていた。
「……そいつは」
「それ、『解毒剤』 って書いてあるんだって。な、悟浄」
 悟空がうれしそうに頬にパンくずをつけたまま破顔した。
「それから、こっちは」
 薄い桃色の箱を指した。古ぼけた紙箱だ。
「これ、なんか、嫌なことを忘れさせてくれる薬なんだって」
 悟空が希望に満ちた表情で言った。
「そ、こんな字が読めるヒトいてさ、俺、またあの飯店に聞きにいったのよ」
 悟浄が笑みの形に口を歪める。なんでも箱の側面に書いてあるのは古代ギリシャ文字なのだという。
「こーんな暗号みてぇな字、読めるとか、どんなヒトだよ悟浄」
「真っ白な白髪の爺さんでさ、手とかプルプル震えちまってるんだけど」
 わいわいと明るく言葉を交わしている、悟浄と悟空にかまわず、三蔵はその箱を手にとった。
古い箱だったが、小さく真新しいシールが貼られ、それには確かに
 The lotus tree for PTSD 
 そう赤字で注釈のように書いてあった。
「使えるんじゃねぇ? 」
「そうそう、これ飲んだら、八戒も元に戻るンじゃね」
 下僕2人はもう、話は決まったも同然といった様子で会話をしている。なんだかむやみな明るさがあった。ふたりともこの薬を使えば八戒が元に戻ると信じ込んでる表情だ。確かにあの薬局で八戒はおかしくされた。それなら、解決する鍵も薬局にあるのかもしれない。
 しかし、
「くだらねぇな」
 三蔵はその手から薬の箱を投げるようにテーブルの上へ放り投げた。
「三蔵?!」
「くだらねぇ。あんなうさんくせぇ薬局のモン、信用すんのか」
 金色の髪が冷たく豪奢に光る。その肩でさらさらと音を立てている。三蔵が立ち上がったのだ。
「さんぞ!」
 悟空が目を剥く。金色の瞳が燃えるような光を放つ。
「話は終わりだ」
 硬い声だった。
「ちょ! 三蔵、てめぇ」
 いったん、テーブルに置いたパンや果物の載ったトレイを手に、三蔵は席を後にした。
「くだらねぇ」
 もう一度、吐き捨てるように呟いている。その冷たい表情には取り付く島もなかった。ぴったりと手の甲まで覆った、いつものお決まりのタートルネックの黒い服に着崩した僧衣。木目が光る床を踏み、黒いテーブルが並ぶ中を縫うようにして、その金色の高貴な姿は食堂から消えた。








 「廃墟薬局(18)」に続く