廃墟薬局(13)

 そんな、夜のことだった。
「よお、三蔵様」
 悟浄と悟空が食堂の隅の卓に座っている。もう、注文もしたらしい。悟空の前にはジュースの瓶があった。悟浄はビールのグラスを手にしている。
「ちょっと話、いい? 」
 夜の食堂はやや薄暗かった。悟浄が声をかけると同時に店員が注文を受けに来る。テーブルの上に灯るろうそくの明かりに照らされながら、三蔵はテイクアウトできそうな2、3のメニューを頼んだ。
「悪い。俺には幾つか果物と、春巻きとシュウマイでいい。部屋に持ち帰る」
「三蔵!」
 悟空が咎めるような声をあげた。
「悪り、お兄さん、ビールもうひとつね」
 悟浄がすかさず注文をはさむと、赤い瞳で目の前の椅子を促す。
「どうぞ、三蔵サマ。なんか言うことくらいあるんでない」
「そーだよ。もう3日間も俺たち、ろくに口も利けてねーんだぞ。これからどーするつもりだよ」
 悟空がふくれっ面で三蔵を見つめる。額にはまっている金鈷が店内の明かりを受けて鈍く光った。
「チッ」
 三蔵はそれどころではなかった。下僕2人の相手をしている心の余裕はなかった。心が急いていた。あまり、あの美しい男を長い時間ひとりで放っておきたくなかった。
「まぁまぁ、注文した品が来る間くらいいいじゃん」
 悟浄は軽い口調でいなした。ちらりと切れ長の瞳でひそかに観察する。目の前の三蔵は面がやつれていた。金の髪はすっかり精彩がない。
「……で」
 悟空がいいにくそうに口を挟んだ。
「なんだサル」
「八戒、どうなっちゃったの? 」
 見知らぬ男を誘惑している恥ずべき姿は、悟空も見た。それで、三蔵の怒りを買って部屋に軟禁されているもの知っている。
「なんかしゃべるようになった? 」
「いや」
 三蔵は重い口調で答えた。
「変わらねぇ。ずっとあのままだ。ただ」
「ただ?」
「調子がいいと、俺のことを 『三蔵』 と呼ぶ」
「お」
 悟浄が切れ長の瞳を丸くした。
「そ、それじゃ」
 悟浄と悟空の顔に喜色が浮かぶのを三蔵は片手で制した。
「早とちりすんな。それと元に戻るってのは」
 そのとき、上の階で鈍い、何かが倒れるような音がした。
「!」
 金糸の髪を揺らして、三蔵が天井のあたりを見つめた。
「この上ってちょうどウチらの部屋?……だな」
 何か、椅子でも倒れるような音だった。
「あー、三ちゃん、そーんな心配しなくても」
 悟浄がとりなそうと、三蔵に声をかける。八戒だって、椅子をひっくり返すことだってあるだろう。
 しかし、今の八戒は普通でない。しかも、三蔵は用心のために部屋を出るときは八戒の手足を縛ってベッドに括り付けてきたのだ。誰が椅子を倒すというのだ。しかし、そんなことは悟浄も悟空も知らない。
「ビールお待たせしました」
 店員がビールの入ったグラスを銀の盆に載せてきた。グラスの表面には冷たい水滴が浮いている。
 三蔵の直感が何か怖ろしいことをささやいている。足元から瘴気しょうきに似た冷気が立ち昇るような心地がした。
――――次の瞬間、三蔵は慌しく席を立つと、2階まで走った。いやな予感が止まらない。木造の古い階段を足早に駆け抜けた。あっという間に廊下に出る。点々と等間隔にガラス窓が嵌っている。夢幻的にガラスがきらめき、月夜を映して麗しい。
「八戒! 」
 勢いよく部屋のドアを開けた。ほとんど体当たりした。
「八戒ッ」
 三蔵は部屋へ入ってうなった。いやな予感はみごとに的中していた。
 いつの間に、いつの間にこんなことに。
 ドアを開ければ、地獄のような光景が広がっていた。八戒が床に倒れている。パジャマ姿だ。首筋に、紐がきつく巻き付いている。
 足元にはスツールに似た椅子が転がっていた。洗面所のものだろう。
「おい八戒ッ」
 三蔵は思わず天井を見上げた。木造の宿だった。天井には太い梁が幾つか組まれている。おそらく、八戒はそのうちのひとつに紐を通し
「八戒ッ」
 八戒の顔色は紙のようだ。最高僧がわめいているうちに、悟浄と悟空が駆けつけてきた。
「これって」
「八戒! 」
 悟空など思わず泣きそうになっている。
 その声に応えるように、
「泣かない……で、悟空」
 突然、しっかりとした声が、この黒髪の青年の唇から漏れた。以前の通りの、抑揚よくようのとれた知的で甘く涼しい声だ。
「僕はどうせ……こんなこと……じゃ死ねない……でも」
 男にしては長い睫毛まつげが涙で濡れている。黒い寝乱れた髪が肩が震えるのにあわせて揺れている。
「これ以上、生きているのは」

 これ以上、生きているのは。

 悲痛な声だった。
「八戒! 」
 八戒はそのまま気を失った。





「どうも、コイツ、耳のカフスをひとつ外したらしいな」
 三蔵が部屋で八戒に毛布をかけながら、呟いている。普通の力なら、拘束を解くことなどできないだろう。三蔵の手には輝く銀のカフスがひとつあった。何かの拍子に外れたらしい。
「……一体、あんたら何してたのよ」
 悟浄が立ち入るのは趣味じゃないが、と言外ににじませながら、言った。ふたりの部屋は性的な香りでいっぱいだった。ふたり分の汗を吸ったシーツ、精液のにじんだ毛布、なにより、八戒の身体中についた愛咬の跡からして、どんな行為を長時間していたのかまる分かりだった。
 悟浄の黒髪の親友は、正気を手放してから、徳の高いはずの三蔵法師様に喰われるほどに犯されていたのだ。まるで抱き人形のように犯されていた。いいや、ダッチワイフの類だってこんな淫靡な扱いはここまで受けまい。部屋の状況から明らかだった。
「いい。もう俺の結界を張る。絶対に逃がさん」
 三蔵の暗紫の瞳に本気の色が浮かんだ。絶対に八戒を逃がすつもりなどないようだった。この世から。もちろんあの世へも。いや、どこへもだ。
「三ちゃん。おい、三蔵」
 悟浄はそっと相手の正気を疑った。その魔天経文のかかった双肩へ手を置こうとして乱暴に払われた。
「邪魔するな、河童」
 苛烈な紫暗の瞳に睨まれた。恐ろしいようなその雰囲気に悟浄は呑まれた。聖と魔を併せ持つと言われている三蔵様だが、今回は魔の部分が強すぎるようだった。親友のことは心配だが、そっとしておく他なさそうだった。あんな三蔵様だが、八戒のことは何よりも大切に思っているはずだ。
 まるで妖魔にたぶらかされた高僧が、死ぬ間際に浮かべるようなやつれた風情で、三蔵は自室の扉を静かに閉めた。
 悟空と悟浄は目を見交わせた。どうしようもなかった。




 仕方なく、悟浄と悟空は部屋に戻った。
「ホントに俺ら何にも、できねーのかな」
 悟空がごろりとベッドに横になった。くやしげな声だった。シーツに勢いよく倒れると、きしんだ音が立った。
「……ったく」
 悟浄は革ジャンを脱ぐとベッド近くの椅子にどかりと腰を下ろした。椅子の背をかかえるようにして腕を組む。
「あ、ねぇそれ」
 悟空が指差した。悟浄のベッドの上に散らばる 「紙箱」 を指し示す。
 薬箱だった。ニィの怪しい薬局の棚から持ち出したものだ。毒々しいパッケージや古びた紙でできたもの、細長いもの、真四角に近い形状のもの、様々な形をしていた。
「それ、役に立ったの?」
「ん? あーこれかぁ」
 悟浄がにやにやと頬を緩ませた。椅子の上からなんとかベッドの上へ箱へと手を伸ばそうとする。あと一歩というところで手は届かず、悟浄は口を歪めた。
「そーそ。この薬、何の薬か分かるヒトが通りかかってさ、なーんと」
 切れ長な紅い瞳を見開いた。
「あの飯店にいた病気のコにぴったりな薬があったんだと」
 すっげぇだろオレ、悟浄がうれしそうに笑う。ハイライトを手にして火をつけた。
「ゴジョーサマのカンもバカにしたモンじゃないっしょ」
 沈鬱な雰囲気を振り払うようないい話だった。
「あの飯店のオッちゃんにもありがとうございます、なーんて、お礼なんて言われちゃったぜ。美人なオネーちゃんに言われたら、なおよかったけどよ。まぁ、よかったなって」
 基本、子供好きな悟浄は頬を緩ませる。優しいこの男にとっては、あのままで済ますには後味が悪すぎたのだろう。
「ふーん」
 悟空はじっと悟浄のベッドに散らばる薬箱を見つめた。まだ4箱ある。
「この残りの4つはなんだったの」
「ええと。うーん忘れた」
「えー悟浄、思い出してよ」
 悟空は白い紙箱のひとつを手にとった。見た目より重い。ずっしりと中に錠剤が詰まっている重量感があった。中でも蓮の花らしい意匠が施された薬の箱が気になった。
 ひどく古ぼけた薬箱で何語かも分からぬ字らしきものが側面に踊る。しかし本当に貴重そうな品物だ。悟空はその金色の目で、その紙箱をずっとみつめていた。






 「廃墟薬局(14)」に続く