闇夜の月(9)

「あ、三蔵」
 少しはすっきりした表情で三蔵は再び食堂へ戻った。悟空が大きな腹を抱えてうれしそうにしている。
「へっへっへー。すっげー食べちゃった」
「胃拡張になるぞ」
 金の髪をゆらし呆れた口ぶりで腰をかける。いつもどおりに戻っている。冷酷なくらいとりすました、いつもの三蔵法師さまだ。
「河童はどうした」
「あはは。また賭場へでかけちゃいました」
「明日あのバカにも荷物もち、させるんだろうな」
「それは頼んでおきましたよ」
 白いご飯を八戒が三蔵の前へ置いた。まだ、じゅうぶんに暖かい。わざわざ頼んでおいたのだろう。
「三蔵。どうぞ」
 悟空や悟浄、いやおもに悟空が頼んだ料理から三蔵の好きそうなものを八戒は皿に取り分けていた。
「海老のマヨネーズいためにパイナップル入りの酢豚に……」
 さわやかな笑顔でかいがいしく色とりどりの皿をすすめてくる。
「今日は疲れましたよね。よかったら僕、後でマッサージしましょうか? 」
 象牙のハシを手にした三蔵に八戒が笑顔で提案してくる。
「いや、いい」
「えー僕、通信教育でマッサージも習ったんですよ。大丈夫です」
「うるせぇ」
 三蔵はマヨネーズのかかった海老をハシにとった。ぷっくりとしてつやつやして光っていてすごくおいしそうな海老だ。マヨネーズがやや焦げて、またそれが香ばしい。
「お前だって、疲れててんだろうが。俺に気ィばっかり使ってんじゃねぇよ」
「そうですか? 」
 途中で席を立ったのを何か体調が悪いせいか、疲れたのだと思っているらしい。綺麗な顔でのぞきこんでくる。距離がすごく近い。
「だいじょうぶですか? 」
 楚々とした八戒の顔立ちが大写しになる。黒い髪けっして目立たないが完璧に整った美貌だった。
「……問題ない」
 三蔵はようやくなんとか、そう言った。陶製の小さな湯のみを差しだす。すかさず八戒がお茶を注いだ。大きめの白い急須から金色に近い液体が音をたてている。香りの高いウーロン茶だ。
「そうですかならいいんですけど」
 優しい白い花のような笑顔で微笑まれる。ほっとした表情が一瞬、浮かんだ。誰よりも相手が大切なのは三蔵だけではないのだがお互いに気がついていない。
「じゃ、今日は、いっしょに早寝しましょうね。そうしましょう」
 けぶるような美貌で上目づかいにそう提案されて、三蔵は唾を飲みこんだ。しあわせだがどこかが苦しかった。









 ふたりで肩を並べ部屋に戻った。

 三蔵は着替えるとベッドに腰をかけ、ぞんざいな手つきで新聞紙を広げている。その冷たいまでの美貌には心のうちは見えない。
「三蔵」
 ベッドカバーは明るい灰色だった。天井の明かりがつくる陰影でシーツに波ができている。
「となり、いいですか? 」
 八戒は笑顔で近寄ると、その隣に腰かけた。ハトロン紙の薄紙でできた袋を手にしている。ベッドがかすかにきしんだ。
「あれ三蔵ったら爪が伸びてきてませんか」
 三蔵が新聞をめくるその指先を、じっと見つめた。
「僕が爪を切りましょうか」
 そっと、新聞を持った手に八戒は自分の手を重ねてきた。温かな肌の感触。パジャマの袖口がゆれた。
「新聞ばっかり読んでないで身づくろいした方がいいですよ」
「……うるせぇ」
 三蔵は八戒の方を見もせずに冷たい口ぶりで言った。手を離せ触るんじゃねぇ、そういう口調だ。
「どうしてですか。これから野宿が続くなら屋根のあるところで、なるべく色々済ました方がいいですよね。散髪とか、爪切りとか耳そうじ、とか」
 八戒が三蔵の手をとり、その指へじっと視線を注いでいる。確かに八戒のいう言葉には一理も二理もあった。
「……やるなら自分でやる」
 三蔵は自分の手を八戒の手からふりほどいた。苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「だめですよ。自分でやると深爪するでしょう」
「俺を不器用あつかいしてんじゃねぇよ」
「ははは」
 八戒は笑った。
「俺の世話ばっかり焼いてんじゃねぇ。うぜぇ」
 三蔵は冷たく言うと横を向いた。別に三蔵のことだけではあるまい。悟空にしても悟浄のことにしても、この男は世話を焼く。生き物の世話が好きな性分なのだ。
 それだけだ。
 三蔵は思わず眉根を寄せた。どうしてもそう思うと口調が冷たくなってしまう。
 しかし八戒には伝わっていない。恋するものの複雑な心理などこの男には伝わっていないようだ。三蔵は疲れているから機嫌が悪い、そうとしか思ってない。その証拠にいつもの笑顔を唇に浮かべたままだ。
「しょうがないですね。じゃ僕も読もうかな」
 なんて言いながら茶色い紙袋を開けている。中からなにか取りだした。
「それは」
 三蔵が気がついたように目を向ける。
「昼間、買っていただいた本ですよ」
 八戒はうれしそうに表紙を見せた。西域について書かれた本だ。傍でいっしょに読むことにしたらしい。文庫本くらいの小型の本だった。ぱらり、とページをめくると細い糸でできた、しおりがはらりと本の背側へ落ちた。
「へぇ西域の高原は珍しい漢方薬、冬虫夏草の産地なんですね。つくづく神秘的な菌類ですよねぇ。棒みたいに発芽してくるのを注意して探すといいって書いてあります。僕、探してみたいなぁ」
 ふんふん、とうなずきながら本を片手にしばらく三蔵へ語りかけていた。

 どのくらい経った頃だろう。

「ふ……ん」
 八戒は世話を焼こうとしなくなった。本の世界に没頭してしまったらしい。
「……面白いのか」
 三蔵は思わず声をかけた。いままで冷たかった口ぶりが、いつものとおりに戻っている。八戒の手にしている、本の表紙が目をひく。西域風の紋様がデザインされていて、印象的だった。
「……ん」
 字を追うようにしてページをめくっている。返事をするのも忘れている。西域で採れる薬草の種類や高山植物などについて説明されている章を注意深く読んでいるようだ。
「フン」
 三蔵も茶色の紙袋へ手を伸ばした。残りのもう一冊を取りだした。つるつるとした紙の感触。空になった紙袋が、ベッドの上に転がる。
「こっちは西域の宗教について詳しく載ってるな」
 生き神である少女の選出方法や西域独特の仏教の考えかた。そんなものは既に三蔵の知識の範疇(はんちゅう)だったが、土地の人間の言葉で語られていて、宗教学とは違う切り口で面白そうだった。
「ま、たまには新聞じゃねぇのも悪くねぇ」
 ふたり、くっつくようにしてベッドの上に腰をかけていた。パジャマを着た三蔵の背と八戒の背がふれあう。めいめい本を手に読みふけった。ページをめくるときの紙の音が響く以外は、ひどく静かな夜となった。



 仲良く背中をあわせて本を読んでいた。背中にお互いの体温を感じながらぴったりとくっついたまま。

 どのくらい時間が経っただろうか。めくったページもそれなりになってきた頃、
「う……」
 とろり、とした睡魔が、三蔵のまぶたをおろしにやってきた。思えば、今日は買出しにもつきあったし広い市場を歩きまわったし妖怪と戦ったりもしたのだ。
「ん……」
 くらりとした眠気に襲われる。おまけに三蔵は自分の熱を無理やり放出していた。全身の力が抜けてゆく。
 鳥がはばたいて落ちるような派手な音が床から立った。八戒は本から顔をあげた。
「あれ」 
 いつの間にか三蔵の手から本が落ちている。すっかり正体がない。こっくりこっくりと前や後ろに身体を傾けて舟をこいでいたが、
 そのうち。
「三蔵ったら」
 八戒の方へ身体をあずけてきた。いつも気位が高くて冷たい表情の三蔵だったが、目を閉じて夢の世界をさ迷いはじめた表情はどこかあどけない。三蔵の身体の重さと熱を感じて八戒は目を細めて笑った。
「……疲れているんですね」
 いたわるように、声をかける。いつも妖怪たちに命をねらわれ追われている。絶対に言わないだろうが、さぞ気が張っていることだろう。
「ふふ」
 八戒は横目でそっと三蔵の寝顔をのぞきこんだ。長いまつげの先まで金色だ。シミひとつないきれいな白い肌。宿の簡素なパジャマに包まれていても華麗に見える美貌だった。細く見えるのに強靭な肉体。その重さを感じると、不思議にしあわせだった。
「ずるいひとですね。貴方は」
 甘さがにじんだ声で語りかけると八戒も目を閉じそうになった。お互いの体温を感じながらもたれかかっていると陶然とした気持ちになってしまう。
「いけない」
 そのまま眠りそうになって八戒がつぶやく。
「ああ前、はだけてますよ貴方ったら」
 三蔵のパジャマのボタンが途中、外れているのをはめなおした。
「風邪をひいちゃいますよ」
 灰色のベッドカバーと毛布をめくり三蔵をそっと横たえた。ベルベッドのような毛足のある感触が気持ちのいい毛布だ。ふわふわしている。
「おやすみなさい。三蔵」
 そのまま八戒も小さなあくびをひとつすると、その隣に倒れるようにして眠った。







 翌日。

「ん……? 」
 朝、三蔵は目を開けた。金色のまつげごしの朝日がまぶしい。白い部屋が輝き灰色のベッドカバーは床に落ちてしまったらしく手元になかった。
 何かがおかしかった。
「こいつは」
 三蔵は呟いた。動けなかった。何かにがんじがらめにされている。絡みつかれていた。
身体にくっついている重さに体温を感じる。ふわっと黒髪からシャンプーの香りがする。甘い身体の匂いと混ざってどこか官能を疼かせる香りだ。
「…………! 」
 意識がはっきりしてゆくにつれて、ようやく動けない理由に気がついた。腕だ。人間の腕。しがみつかれているのだ。
 そして自分の顔のすぐ横に超絶美麗に整った佳人の顔を認めて三蔵が目をむいた。くちづけもできてしまいそうな近さだった。
「おい」
 八戒にしがみつかれていた。抱きあうようにして眠ってしまっていたのだ。
「……ったく」
 艶のある黒髪が白いシーツによく似合う。ただでさえ完璧に整った顔だったが、こうして近くでまじまじとみると整いすぎてよくできた精巧な人形のようだ。本当に美しい。目を閉じたその寝顔は、いつものポーカーフェイスがわりの笑顔を浮かべてはいない。理知的で端麗な表情だった。八戒の本質が浮き彫りになっているかのようだ。
「てめぇ離せ。動けねぇ」
 三蔵は八戒の腕をのけようとした。八戒の整った顔を見つめていると、危険などこかが疼く。しなやかな身体全体で、まるで妖魔が徳の高い僧をたぶらかすかのように、しなだれかかって絡みついている。美しいつる性のツタだ。
「く……」
 八戒はその長い脚まで三蔵の身体にまわしていた。しなやかな細い腰をすりつけられているのを感じる。八戒の肌の匂いがまた三蔵の快楽中枢を直撃した。悩ましい腰つき、すらりとした身体。それを、べったりとくっつけられて夜中ずっと寝ていたのだ。
「この……野郎」
 意識してしまえばもうまた、下肢の一点に熱が集中してゆく。この身体から想像でパジャマを剥ぎとることは容易だった。何しろ昨日の八戒の裸が目に焼きついている。この男ときたら三蔵に裸を見られてしまったというのにピンときてないのだろう。天然ボケもいいところだ。指摘すれば真っ赤になるに違いない。
「クソ……」
 ただでさえ朝だった。過剰ななにかがみなぎってくる。血が集まってきてガチガチに硬くなった。痛いほどだ。
「う……ん三蔵」
 甘い吐息まじりの声でささやかれた。寝言だ。わかっている。わかってはいても。三蔵の長めのえりあしのあたりにぞくぞくするような性的な快感が走り抜けた。耐えられない。
「…………! 」
 三蔵さまの拷問に似た甘い朝の時間が、ひたすら静かに過ぎていった。









 「闇夜の月(10)」に続く