そんなことがあって宿に戻ったのは夕方だった。
「この缶詰へこんでしまいましたね」
抱えた紙袋をのぞきこみ八戒がつぶやく。先ほど落としてしまったのだ。
「食うには問題ねぇだろうが」
むすっとした不機嫌な口調で三蔵が返す。部屋のドアの鍵をとりだしドアノブをまわした。
「おっかえり。さんぞー! はっかーい」
悟空がうれしそうに隣の部屋のドアから顔をだした。足音を聞きつけたのだろう。やたらと耳がいい。
「どうだった? 買い物できた? 」
「散々だ。買い物だのなんだの終わっちゃいねぇ。明日はちゃんと手伝え」
「うえー」
三蔵が怒鳴ると悟空が情けないような声をだす。
「あははは。汗かいちゃいました。シャワーでも浴びましょう三蔵」
悟空へ助け舟をだすように八戒が声をかける。
「ああ」
確かにさきほどの戦闘ですっかり服もほこりっぽいし汗もかいていた。着替えが必要だった。
「本当に僕が先でいいんですか? 」
「かまわん。早いとこシャワー浴びてぇんだろうが」
妖怪をたくさん倒したのは、八戒だった。さっぱりしたいに違いない。
「お言葉に甘えますね三蔵」
八戒はシンプルな白いシャツだの灰色のズボンだのを手に、笑顔で洗面と浴室へ消えた。
白木でできた、洗面所のドアがしまる。中には藤で編んだカゴが置いてあったはずだ。
耳をすまさなくとも、衣ずれの音が聞こえてくる。
八戒はそこで一枚づつ、服を脱いでいるのだろう。おそらくあの几帳面な男のことだ。一枚一枚、脱ぐそばから畳んでいるのかもしれない。
三蔵は布の落ちる音を聞きながら、そう思った。
そう今頃、肩先のボタンを外し首まわりを広く開けているのだろう。するとあのきれいな鎖骨が丸見えに違いない。そのまま広くなったえりぐりに頭をくぐらせるようにして緑色の中華風の服を脱いでいる。
見ていないが想像がついた。
そして、その下の黒いぴったりとした上衣のすそへ手をかけて脱ぐのだろう。あのケロイド状の傷跡があらわになり、きれいについた腹筋やつややかな肌もあらわにしているに違いない。
そこまで想像して三蔵は首を横へふった。金の髪を片手でかきまわす。愚かだと思った。
黒いぴったりした上衣を脱ぐと、ひやりとした大気や服のこすれた刺激で八戒の胸で息づく乳首はとがってしまうにちがいない。脱衣のため少し乱れた黒髪のまま、いつもの灰色のズボンを脱ごうとそのジッパーをあけてベルトを
「チッ」
三蔵は眉を寄せると、いらいらした調子で懐からタバコの箱を取りだした。本当にどうかしている。単に八戒の希望をかなえて先にシャワーをゆずっただけだった。それがこんな裏目にでるとは。
そのうち浴室のガラスのドアが開く音が聞こえてきた。一拍置いてシャワーの水音がする。どこへどこの肌へ、どこの部分へそのシャワーのお湯をあてているのだろう。つややかな肌の上へ流れ落ちる、湯が見える気がした。肌を洗う湯の温かさすらわかる気がしてくる。
三蔵は舌打ちすると、マルボロを一本とりだした。本当にどうかしていると思った。
仲間がシャワーを浴びてるだけだ。そう思おうとした。あのシャワーを浴びているのは悟浄か悟空だと思おうとした。
しかし無駄だった。
悩ましい水音が三蔵の腰かけているベッドまで聞こえてくる。白い湯気に包まれて、あの男が肌を洗っているのだ。小さなスポンジで泡をたてているに違いない。虹色の石鹸の泡とさわやかな匂いが浴室中に満ちているに違いない。しなやかな腕、そして肩、首へ、お湯で濡れる胸に腹、それからもっと下の
ため息をひとつついた。ライターで火をつける。勢いよく吸いこむと煙を吐きだした。こんな想像は精神衛生上、良くなかった。我慢の限界がきそうだった。
お湯の匂いや洗髪料の匂いがただよってくる。しなやかで誘惑的な白い肌、長い脚、しなやかなふくらはぎ。そして、その脚の付け根。しなやかで小づくりな、肉の薄い尻が湯をはじく。
幻覚か白昼夢でも見てしまいそうだ。
そのときだった。
突然、シャワーの音が止まった。ガラス製のドアがきしんで開く音が続く。
「すいません。三蔵、そっちにシャンプーありませんか」
浴室から八戒の声がする。想像ではない。現実の八戒の声だ。
「なんだ」
タバコを吸いながらわざと腹の底から不機嫌そうな声をだした。
「ははは。いえすみませんシャンプーがなくって。そっちにありませんか? 」
備えつけのシャンプーがないらしい。不備な宿だ。
「ねぇだろ」
三蔵は動きたくなくて思わず探しもせずに答えた。
「実はベッドのそばにシャンプーや洗剤を置いてあるんです……わかりませんか。いいです。僕がやっぱりそっちに探しにいきます」
おそらくバスタオルを巻いた姿で出てくる気なのだろう。三蔵はしょうがなくベッドサイドの小机の上を見た。確かにシャンプーやら洗剤やらが置かれているのを見つけると、黙ってそれを持って浴室へ行った。
「闇夜の月(8)」に続く