闇夜の月(5)

 昼食のあと市場の缶詰などを売っている店へ行き、魚だの肉だの缶詰を幾つも買った。それなりに重い。   
「ハイライトがさっきのお店にはありませんでしたね」
 マルボロの入った袋を抱えて八戒が微笑む。
「買わなくていいだろが。そんなの」
 三蔵が吐き捨てるように呟いた。白い法衣の長い袖をゆらし缶詰が入った紙袋をかかえている。
「それから油に、燃料に、水に、塩に……」
「そんなに買うモンが多いんじゃ、あのバカどもが必要だな」
「そうですよねぇ」
 八戒がため息をついた。
 大通りから小さな路地へとつづく角を曲がったとき、
「お兄ちゃん! 」
 突然、声がした。あわてて八戒が四方を見わたす。幼い声には聞き覚えがあった。
「あれ」
 視線を下に落とすと目の前に小さな男の子がいた。昨日の夜、包帯をくれた子だ。
「すいません。昨日はろくにお礼も言えなくて」
 八戒はその長身を折るようにして屈みこんだ。男の子と目線を合わせようとしている。紙袋からマルボロがこぼれ落ちそうになって、思わず手で押さえた。
「ううん。仲間のお兄ちゃん良くなった? 」
 悟空のことを言っているのだろう。八戒が 『仲間がケガをした』 と言っていたのを覚えているのだ。かしこい子だ。
「おかげさまで」
「よかったー」
 少年は明るい声をあげた。
「ははは、ありがとうございます」
 ぺこり、と軽く頭を下げる八戒を三蔵はじっと見つめている。何か考えている顔だ。少年の言葉を注意深く聞いている。
「おやおや、旅の方を困らせてるんじゃないだろうな」
 落ち着いた声がした。
「おじちゃん! 」
 男の子は顔を輝かせた。背後から帽子を深く耳まで被った男が現れた。『おじちゃん』 と呼ばれても、にこやかな表情こそ崩さないがそんな年ではない。まだ若い。
「お兄ちゃんにあげた包帯とか薬とか、このおじちゃんにもらったんだよ!」
「それはすいません助かりました」
 八戒はあらためて礼を言った。黒い艶のある髪がさらさらと風になびく。
「いーんですよ。わたし、これでもこの街で薬を商っておりまして」
 相手の男は片手をあげ鷹揚(おうよう)なしぐさで八戒が頭を下げようとするのを止めた。
「あっ、いけね! 」
 男の子が突然、声をあげる。
「ごめん僕、お姉ちゃんの薬の時間なんだ。またね! 」
「おお気をつけてな」
 薬商だという男は優しく声をかけた。少年が弾かれた鉄砲玉のように駆けだして行く。子供らしいにぎやかな石畳を踏む駆け足が響いた。
「あの子は孤児でしてね」
 遠ざかってゆく男の子の小さな白い背中を眺めながら、薬商は低い声でつぶやいた。
「家族はふたごの姉だけでして。子供ふたりだけで苦労しているんです」
 路地裏のスラム街の匂いが一瞬、強くなった気がした。すえた不衛生な匂いだ。
 薬商が八戒の方へゆっくりとふりかえる。その顔には 『気の毒に』 と言葉にせずとも書いてあった。
「……そうだったんですか」
 八戒は薬商をじっと緑色の瞳で見つめた。きっと優しい好人物に違いないと思ったのだ。相手の薬商人の目は確かに知的で深みがあった。
「おや、すいません。旅のお方につまらぬことを」
 薬商は軽く頭を下げると八戒を見つめかえした。改めて八戒の美貌に気がついて驚いている表情だ。
 そのとき、
「いいかげんもういいだろう。行くぞ」
 苦虫を噛み潰したような不機嫌な声がした。八戒の後ろから眉根を寄せてにらんでいる最高僧さまだった。
「おお?! 貴方さまは! 」
 その白い法衣姿に気がついて薬商がうなった。
「金糸の髪に紫暗の瞳。ひょっとして! 」
 薬商はより目深に帽子をかぶりなおした。手を前に組んでへりくだって腰をかがめる。中華風の挨拶だ。
「玄奘三蔵法師様では」
 ひどく丁寧に腰をかがめている。丁寧すぎるくらいだ。着ている浅黄色の服のすそが地面につきそうだ。
「いかにも」
 いやいや、というのがぴったりな低い声で三蔵が答える。
「こんな貴いお方がわたくしどもの街なぞに! 光栄でございます。もしよろしければこの先に、わたくしの店がありますのでどうかお茶でも」
「けっこうだ。断る」
 三蔵はけんもほろろに吐き捨てた。そうそれは、吐き捨てるとしかいいようのない、とりつくしまもない冷たい言い方だった。缶詰の入った袋を腕に抱えたまま眉をつりあげている。
「行くぞ八戒」
 薬商へ背を向けた。肩にかかった魔天経文が勢いでひるがえる。
「三蔵! 」
 八戒が三蔵のふるまいに目を丸くした。親切な一般人に対していささか礼を失っているように思えたのだ。
「す、すいません。ちょっと僕たち急いでまして」
 八戒は優しい薬商におじぎをすると、あわてて三蔵の背を追いかけた。
「どうしたんですか。いきなり」
 三蔵の足は速かった。缶詰の袋を抱えて重いだろうに法衣の長いすそをさばくようにして歩いている。石畳の上に、三蔵の履いているブーツの音がいらいらとした調子で響いた。
「待ってください三蔵」
 八戒はなんとか三蔵に追いつくと、息を整えるために深呼吸をひとつした。タバコの入った紙袋を抱えなおす。
「フン」
 三蔵は鋭い目つきで横から八戒をにらむ。
「良いひとでしたね。薬商の方……篤志家ってところでしょうか」
 三蔵の気も知らず八戒は、口元を緩めている。
 思わず、という調子で三蔵が舌打ちをした。八戒の声を打ち消すほど大きい。
「おい。さっさといくぞ」
 不機嫌だった。怒っている。
「さ、三蔵」
 とまどった声が出た。わけがわからない。
「……俺以外の男にあんな顔すんじゃねぇ」
 小声で何か呟いている。
「さ、三蔵? 」
 八戒が驚いたように目を丸くした。
「なんで三蔵ったらそんなことを言うんですか」
 あの薬商人や男の子が包帯や消毒薬をくれたから、悟空は傷のなおりも早いのではないか。
「親切な方じゃありませんか」
「うるせぇ」
 三蔵は眉をつりあげ八戒へ正面から向きなおると右目をすがめた。小声で 「あんな、無礼な野郎」 と呟いているが八戒には聞こえない。金の髪と白い衣がひるがえる。
 三蔵さまの大切なこの黒髪の従者は薬屋だと名乗る男のことを熱っぽい目つきでじっと見つめていた。八戒としては、相手の徳のあるふるまいに感動しただけだったが三蔵は違う意味に受けとったらしい。
「少しは自覚しろ心配だ」
「さん……」
 気がつけば薄ぐらい路地に迷いこんでいた。壊れかけた木箱だのが壁側に沿うようにして、たくさん積みあがっている。
「八戒」
 三蔵の真剣な瞳を向けられる。周囲にはひとの気配がなかった。大通りはひとの波がすごいがこの路地には誰もいない。エアポケットのようだ。
「どうしたんです三蔵」
「八戒」
 壁ぎわに気がつけば追いつめられていた。三蔵が身体を寄せてくる。腕を捉えられてタバコの入った紙袋が落ち、緑の袖がゆれた。紫の目は何か大切なことを伝えようとでもするかのような色を浮かべている。狂おしい内情を吐露するかのごとく八戒の端正な顔を見つめていた。
「チッ」
 三蔵が缶詰の入った袋を地面へ置いた。乱暴だった。幾つかの缶詰が袋から落ちて転がる。
「三蔵」
 壁に手をつかれ、三蔵の身体で挟むようにされる。逃げられない。
「俺はずっとお前のことが」
 耳にかかっている金色の髪が一瞬、ゆれた。
「好……」
 三蔵が八戒へささやいたそのとき、
「三蔵一行、覚悟! 」
 背後で大勢の妖怪の声がした。妖怪の襲撃だ。  








 「闇夜の月(6)」に続く