闇夜の月(4)

「それで、市場で何を買うつもりなんだ」
「ええと」 
 八戒は、話題がようやく変わったことに、ほっとしていた。手元の手帳をごそごそとひろげる。
「えーと、缶詰とか、お米とか油とか、絶対に必要ですねぇ」
 生真面目な口調で言った。その隣のページには、三蔵と同室になれてうれしいだとか、隣のベッドで眠る三蔵の寝顔がかわいいだとか、いろいろ書いてあった。なるべく見せないように、そっと小さく手帳を開く。
「食料を扱う、市場ならあっちみたいだな」
 三蔵が、市場の奥へその紫色の目を向けた。より雑多でにぎやかな界隈が、ひろがっていた。
 細かい路地が、蜘蛛の巣のようだ。専門店ごとに魔窟のような濃さだった。店先の間口は狭いのに、奥行きがやたら深い。まるで、そういう種類の罠のようだ。
 たとえば、油の専門店とかには、それこそ、さまざまな油が並んでいる。半分、問屋もかねているのかもしれない。なたね油やごま油、ひまわりからとった油や牛からとった牛脂、色も金色やら茶色やら白、緑色のオリーブ油まで様々な種類が並んで、ひとの目を奪う。
 そんな多彩な店先を三蔵と八戒は歩いていたが、いくつもの専門店の間に、定食屋がぽつり、ぽつりとあるのに、気がついた。
 ちょうど、昼どきなのだ。
 目の前に、紺地に白字で店名を書いた、のれんがゆれている。
「メシ、食っていくか」
 三蔵がぼそり、と呟いた。
 もう、昼の12時だった。正午をまわっている。もとより八戒の方に否やはない。
 からから、と音を立てて、ふたりで木戸を開けた。中華風のつくりではない。なんというか、雑多な東アジア風だ。店内は清潔で、木の匂いがした。
「へい、らっしゃい」
 勢いのよい、あいさつがかかる。店内は活気があった。テーブルの半分以上が、埋まっているようだ。
「空いている席、どこでもお座りください」
 八戒が見れば、小さな四角いテーブルがそこかしこに置かれている。木製のテーブルは磨かれて光っていた。ときおり、テーブルをくっつけて、4人用の席にしている。
「フン」
 三蔵が、ちょうど店に入って中ほどにあった小さなテーブルへ席を決めた。木の椅子を引いて、長い法衣をひるがえして、座った。所作のひとつひとつが絵になる男だ。
「どうも、何にいたしましょ! 」
 タイミングよく、コップに入った水が運ばれてきた。
「ええと」
 八戒は、白茶けた壁へ視線を投げた。メニューがところせましと紙に書いて貼ってある。三蔵は、テーブルの上に、無造作におかれた昼のメニュー表を手にとった。
「しょうが焼き定食」
 三蔵が、メニューに、視線を落としながら低い声で告げる。決断が早い。
「へい。しょうが焼きひとつ! 」
 店員さんが、笑顔で確認してくるのに、八戒は焦った。なんだか、三蔵とふたりきりなのを突然、意識してしまった。いっしょにふたりきりで、食事なんて、あまりないことだ。
「え、ええと。アジフライ定食お願いします」
 声がなぜか、少しふるえた。
「へい。アジフライひとつ! 」
 愛想のいい店員が去るのを、横目で見送ると、三蔵が呟いた。
「食料品を買うんだな。どのくらいの量がいるんだ」
「どのくらいの量だと思います? 三蔵」
「ここから次の町はどのくらいかかる」
「それが、町らしい町は、しばらくないんですよ」
 木のテーブルの上は、ソースやしょうゆ、といった調味料も、小さなビンに入っておかれている。赤いフタのよくあるソースやしょうゆ入れだが、なんとなく食欲をそそる。コショウや、唐辛子なども、小さな陶製のいれものに、薬さじつきでおかれていた。
「あはは。マヨネーズ、ないみたいですねぇ」
「フン、いらねぇよ」
 素直でない。
 コップに口をつけながら、八戒が呟く。
「野宿の連続でしょうか。それなら、何日分も買いこまないと、後が怖いですよね」
「まぁな」
 揚げ物のいい匂いが、席までただよってくる。調理場からだろうか。新鮮な油の、ぱちぱちと爆ぜる気持ちのいい音も響いてくる。
「お待たせしましたーしょうが焼きでーす」
 どん、とテーブルに、料理が置かれた。
「こちらは、アジフライ定食でーす」
 八戒の方にも、あっという間に運ばれてくる。すごい手際のよさだ。
「以上でおそろいでしょうかー」
「ああ」
 店員が、引きあげると、三蔵はハシを手にとった。おいしそうなしょうがのまじったしょうゆの匂いが香ばしい。小鉢もいろいろで目にもきれいだった。
「おいしそうですねぇ」
 八戒が歓声をあげる。ぎょうぎよく両手をあわせると、ハシを手にとった。
「うわっ。これ、さくさくですよ。さくさく」
 アジフライのお腹のあたりに、ハシをいれる。サクッとパン粉の揚がった香ばしい匂いがする。その下からは、じゅわ、とアジのほくほくとした、白い身が表れた。
「熱っ」
 しょうゆをかけて、半月状に切られたレモンを絞りかける。できたての熱々を、ふうふう言いながら、口へ含むと、さくさくした衣と、ほくほくした身のうまみが口の中で交じりあう。
「おいしい。すごくおいしいですね」
 レモンとしょうゆが、またアジのふっくらとした味わいを引きたてている。白いご飯がいくらでも食べられてしまいそうだ。
「三蔵のしょうが焼きはどうですか? 」
 八戒は笑顔で訊いた。三蔵のしょうが焼きもおいしそうだった。豚肉の焼けた、おいしそうな匂いに、甘辛いたれがじゅわじゅわとかかっている。たれは照りがでていて、つやがあった。しょうがのぴりっとした香味のある匂いが、いやでも食欲をそそる。
「まぁ、悪くねぇな」
 三蔵は、ハシでひときれずつ、肉を口へ含んだ。添えられたキャベツの千切りはすごく細かく切られていて、きれいな緑色がみずみずしい。それに、付けあわせの、小さな器にはいったマヨネーズをたっぷりとかけた。豚肉とキャベツの千切りとマヨネーズを口に含むと、なんともいえない、豊かなうまみがひろがった。
「そうですよね。すっごくおいしそうですもんそれ」
 八戒が微笑む。
「お前のつくったしょうが焼きの方がうまい」
 三蔵は、みそ汁の椀に手を伸ばしながら、不意に言った。
「さん……」
 八戒は、びっくりしたように、目をみひらいた。突然すぎる言葉だった。
「みそ汁も……お前がつくったみそ汁の方がうまい」
「さんぞ……」
 みそ汁は、基本、どの定食も一緒だ。豆腐とネギの入ったそのみそ汁は、ダシのうまみが強くて、とてもおいしい。昆布やにぼしの深いあじわいが味噌をひきたてている。具の豆腐も、のどごしがいい。アジフライを食べた後に、このみそ汁を口に含むと、なんともいえない満足感があった。ご飯、アジフライ、みそ汁。どれもこれもお互いのおいしさを引き立てあっている。
「さ、三蔵」
 八戒は笑った。三蔵は、自分のことを買いかぶりすぎだと思った。最近、手料理をふるまう機会が、減っているので、懐かしく思っているのだろう。
「で、でも、この肉じゃがは、おいしいですよね。ほら、僕の定食にもついてますよ」
「ん? 」
 三蔵と八戒の定食には、共通の小鉢がついていた。そのひとつは、肉じゃがだった。ほろりと煮崩れしかかったジャガイモの金色がまぶしい。そこへ、つやのある豚肉がおいしそうに絡みついている。ほこほこと湯気があがり、甘みのあるダシの豊かな香りが鼻をくすぐる。見るからにおいしそうだった。
「知らなかった。きのこが入ってますよ、この肉じゃが。こんなにうまみが増すんですねぇ」
 料理好きな八戒らしく、食材をひとつひとつ、あじわいながら、目を細めている。
「お前がつくった肉じゃがの方がうまい」
「さ、さんぞ」
 八戒はなんて、返答したらよいか、わからなくなった。
「お前のつくった、ごまあえの方が、うまい」
 ホウレンソウのごまあえを、食べながら、三蔵が呟く。
「三蔵」
 八戒は思わず、みそ汁を手にしたまま、ハシをとめた。本当に、どうしていいかわからなかった。
「お前がつくった、ものの方が絶対に、うまい」
「さんぞ……」
 正面から、紫暗の瞳に、みつめられる。整った白皙の美貌。とおった細い鼻筋、きらきらしいような顔立ちを、ひきたてる豪奢な金色の髪。身につけた、白衣が、また神々しい。
「う……」
 八戒は、真っ赤になった。照れていた。こんなにべた褒めされると照れるしかない。しかし、三蔵といえば、平然としている。彼にしてみれば、当然すぎることを言ったまでなのだろう。
「……今度、つくりましょうか。僕」
 八戒が、真っ赤になりながら、呟いた。耳ざとく、それを聴いた三蔵が返事をする。
「期待して、いいんだな」
 そのまま、ふたりで見つめあった。八戒の深い緑色の視線と、三蔵の濃い紫色の視線が正面から、絡みあう。
「八戒」
 三蔵が、みつめあったまま、テーブルに置かれた、八戒の手へ、手を伸ばそうとした。思わず、触れたくなってしまった、とでもいうかのような衝動的な行為だった。
「俺は」
 そのとき、
「お茶、お持ちしましたー」
 店員さんが、元気よく熱いお茶の入った湯のみを、テーブルにふたつ置いた。それでも、しばらく、ふたりは見つめあったままだった。
「あ、ああ、ありがとうございます」
 八戒が我に返って、礼を言った。ふわふわとして、何もかも、現実感がなかった。ほうじ茶の、香ばしい匂いがテーブルに満ちた。
「……チッ」
 三蔵は、何故かおもしろくなさそうに、横を向くと、舌打ちをひとつした。
 








 「闇夜の月(5)」に続く