闇夜の月(13)

 その崩れたアパートはやはりスラムの一角にあった。シロアリにでも侵されているのかドアの表面がボロボロと乾いた感触ではがれ落ちてゆく。日もささないから湿気もひどいのだろう。
 表通りの美しい家々とは悲惨なほどの差があった。光が強ければその影はいっそう濃く闇もまた深かった。


 女の子がひそやかな寝息を立ててベッドの上で眠っていた。顔色は白いを通りこして青ざめ、ひどく痩せている。その面差しは傍らで心配そうにのぞきこんでいる男の子と良く似ていた。
「少し時間がかかりますよ」
 八戒は朽ちかけた丸イスに腰かけ、真剣な面持ちで女の子の上へ手のひらをかざした。白い光がその小さな身体を包みこむ。ずいぶんと長い間そのまま気を送り続けた。
 ようやく、
「これでいいでしょう」
 八戒がかざしていた手を引っ込めて息をひとつ吐いた。集中しすぎて一瞬、めまいでもしたらしい。オリーブグリーン色のバンダナを片手で抑えて目を閉じている。
「お兄ちゃんありがとう……本当に魔法使いだったんだね! 」
 男の子が目をみはった。姉と八戒の顔を交互に眺めて驚きのあまり口を開けている。先ほどまで、真っ青だった女の子の頬には健康な顔色が戻りつつあった。
「良くなったとは思いますが無理しちゃいけませんよ」
 医者めいた口調で八戒が言った。
「心臓が悪かったんですね。でももう大丈夫でしょう」
「ほんとに? ほんとのほんとに? 」
 心臓を内服の薬などで治せるはずがない。恐らく発作を鎮めるたぐいの薬を少年はあのニセ薬屋に売りつけられていたのだ。
「……治してもらったのに。僕、お金もってないよ」
 もじもじと下を向いた男の子へ八戒は声をかけた。
「いいんですよ」
 八戒はやさしく微笑んだ。目じりがさがって、いかにもひとのいいお兄さんという表情になった。
「もう代金はいただいています」
 その右目につけたモノクルのふちが夕方の赤い光を反射して光る。
「この間、貴方は僕に包帯や消毒薬をくれました」
「あ、あんなこと」
 男の子はしどろもどろで真っ赤になっている。背板がはがれて壊れかけた木のイスに座り、男の子は下を向いた。その目元から真珠のような涙が滴って、床へ落ちた。
「それに」 
 八戒はやさしく言った。
「さっき、僕のことを助けようとしてくれましたね」
 大きな手で男の子の頭を包みこむようにして撫でた。
「うれしかったですよ」
「お兄ちゃん」
 涙ぐみながら首を横に振っている少年へ八戒は優しく言った。
「お姉さんのこと大切にしてくださいね」

――――僕の分も。

 花喃の面影が一瞬、浮かんで消えた。
 



「終わったのか」
 男の子の家を後にして外へ出ると、最高僧が苦虫を噛み潰したような顔でタバコを吸っているのが見えた。法衣姿が夕闇の中ひときわ白くまぶしい。
「このおひとよし」
 ぼそっと呟かれる。夕陽がその怖いくらいに美しい横顔を鮮やかに照らしだした。
「三蔵」
「カッコつけやがって。あのガキのせいでひどいめにあったんだろうが」
「……三蔵」
 情けなさそうに八戒は眉根を下げて笑った。
「あの子はいい子でした」
「自分の小さい頃でも思い出したのか」
 タバコの煙を吐きだすと口元をゆがめた。その口調はイライラとして辛らつだった。
「甘いんだよ。ガキなんぞにダマされやがって。つけこまれたんだぞ、てめぇは」
「三蔵! 」
 八戒が声を荒げた。
「チッ」
 きまり悪げに舌打ちを返す。どうも、八戒相手だと調子が狂うらしい。
「……悪ぃ。言い過ぎた」
 三蔵は短く詫びた。珍しいこともあるものだった。


 無言で路地裏を歩く。石畳に伸びたふたり分の影が闇に溶けはじめている。妖怪どもは退治したはずだったが、油断はできなかった。逢魔が時だった。古来より魑魅魍魎どもにであうとされている不吉な時間帯だ。すっかりあたりは暗くなってきていて、三蔵と八戒の足音だけがひと気のない路地にひびく。
「本当にどうして引き返してきたんですか」
 八戒の声はいままでと異なる響きをおびていた。
「僕のことなんか放っておけばいいでしょう」
「ほっとけるわけがねぇだろ」
 三蔵が片方の眉をつりあげ無愛想に答える。
「頼んでないのに僕の治療が終わるまで外で待ってたりして」
 突然、八戒は足を止め、三蔵へ真っ正面から向きなおった。口調が詰問する調子になる。
「どうしてですか」
 さっきから落ち度を責められている気がしていた。許可もなく単独行動をしてしまっていたし、確かに非は八戒にあった。
「どうしてって俺に訊くのか」
 金の髪がきらめく。硬質の美貌がいささかくもった。何故かふたりきりになると歯切れが悪かった。
「さっきから言ってるだろうが」
 続けて漏れたのは意外な言葉だった。
「お前のことがほっとけねぇ……からに決まってるだろうが」
 三蔵は真剣だった。気がつけば八戒と見つめあっていた。
「いつでもお前と一緒にいたい……って思ってちゃいけねぇのか、この野郎」
 突然、抱きしめられた。
「……ったく」
「さ……」
 三蔵の体温を感じる。心臓の拍動が伝わってきた。
「お前が無事でよかった」
 柄でもなく優しい声だった。ようやく安心したとでもいうような声だ。八戒は三蔵のそんな声をはじめて聞いた。









 「闇夜の月(14)」に続く