闇夜の月(11)

 そこは、さらにさびしい路地裏だった。
 昼間だというのに日があまり射してこない。薄暗かった。左右の建物は賭場か酒場なのだろう日中はひとの気配がない。アルコールのすえた匂いがどこからともなくただよう。朽ちたワイン樽が転がり身体を壊しているらしい老女が陰気な顔をして座りこんでいる。そんなさびしい場所を通りすぎた。
 八戒は思わず眉をひそめた。治安のよくない場所、完全にスラム街だった。ちら、と自分のそばを歩く小さな男の子へ視線を落とす。八戒の腰よりも小さい子だ。
 こんな小さな子が住む家がこんなところにあるのだろうか。いやあるのだろう。世の中は残酷なのだ。八戒には妙な既視感があった。
「家はもっと先なんですか? 」
 思わず優しく声をかけた。男の子はさっきからひどく静かだった。黙りこくっている。
 
 そのときだった。

 突然、男たちに囲まれた。
「うへっへっへっへ」
「まぁた会ったね、キレイな兄ちゃん」
「今日はひとりなのー? 」
 いやらしい声が、わっとあがった。みれば何人もの風体の悪そうな男たちがたむろしていた。
「お前たちは」
 八戒がきびしく眉をひそめる。思わず腕をあげて男の子を背にかばった。勢いで中華風の服のすそがひるがえり、黒い帯もつられるように舞った。
「あっれぇ、つれないじゃん」
「今日はあの金髪野郎と一緒じゃないんだ」
 近寄ってくる男たちは誰も彼も耳がとがっている。手に手に、ナイフや刃物を光らせて、八戒のいる方へ近寄ってくる。
 妖怪。
 妖怪の襲撃だ。
 三蔵はいないのに。
「いけない。逃げましょう」
 背後にいる男の子に向かって押し殺した声で言った。しかし、言い終わるよりも早く背後から大勢の足音がした。何人もの妖怪たちが反対側から走ってきたのだ。

 袋のネズミだ。

 そのとき、
 妖怪たちの一群からゆっくりと近づいてくる男がいた。
「おや、旅のお方」
 それは聞き覚えのある落ち着いた声だった。耳がかくれるほど深く帽子をかぶり浅黄色をした中華風の服を着ている。
 八戒は目をむいた。
 そう。
 それは、あの親切な薬商人だった。
「よくやってくれたな。ご苦労さん」
 薬商は八戒の背後にいる小さな男の子へ向かって声をかけた。びくっ、と男の子が身をすくませる。
「貴方は」
 いやな予感がした。美しい石をひっくり返したら、おぞましい毒虫がいた。そんな感じだった。
「三蔵一行のくせにこんな手にひっかかるなんてなぁ」
 薬商人は深くかぶっていた帽子をわざとらしく脱いでみせた。隠れていた耳があらわになる。

 予感は当たった。

――――その耳はするどく、とがっていた。

「な……」
 八戒は絶句した。目を大きくみひらく。
「なるほど貴方は妖怪さんでしたか」
 眉をつりあげて奥歯を噛みしめた。厳しい顔つきで正面からにらみつける。だまされたのだ。頭に血が上りそうだった。
 薬商人のふりをしていた妖怪が叫ぶ。
「殺せ。血祭りにあげろ。まずは三蔵一行のうちひとりめだ」
 手に手にナイフをもった連中に囲まれた。ぎらぎらとした不気味に光る刃が近づいてくる。
「ぐえっへっへっへ」
「見ろよ。袋のネズミだぜ」
「たったひとりだ。早いとこ殺しちまえ」
 あざけりながら近づいてくる妖怪どもを八戒はにらみつけた。
「貴方たちなんて僕ひとりでじゅうぶんだってことを分かってないようですね」
 八戒は片手を胸のあたりまで上げた。掌がうっすらと白く光る。攻撃しようと相手との間合いをはかった。
 しかし、そのとき、
「やめろよ! 」
 薬商を騙った妖怪へと小さな身体がゴムまりのように飛びかかった。八戒が止める間もなかった。
「お兄ちゃんには、ひどいことしないって言ったよね! だからぼく」
 あの子だった。男の子は泣きながら男の腕に噛みついた。
「うるせぇこのガキ」
 勢いよく払い落とされた。男の子のかけていたメガネが無残な音を立てて落ちる。
「てめぇはもう用済みなんだよ」
 薬商をかたった妖怪は男の子を蹴った。ついでとばかりにメガネを踏み潰す。石畳にレンズが割れるいやな音が反響する。
「邪魔しやがって、このガキ殺すぞ」
 そのまま小さい身体を踏みつけた。苦しげな声が漏れる。
「殺せ殺せ」
 周囲の妖怪たちがどっと嘲笑う。どの道、人間の子供など生かしておく気などなかったに違いない。
「へっへっへ。どうせ孤児だぜこいつ」
 それを聞いて八戒の表情がより厳しくなった。孤児。心配する親がいないから何をしてもいいとでもいう気なのだろうか。
(親もいないあんた達にはわからないだろうがな……!! )
 記憶の底からいやな言葉が耳へとよみがえった。
「離せ……離せよ……」
 石畳に叩きつけられ首元をつかんでもちあげられた。かわいそうに鼻血を出している。唇も服も血まみれだ。顔もけられたのか赤くなっている。
「おいガキ。てめぇ、確か同い年の姉貴がいたな。お前が死んだら姉ちゃんは、ちゃあんと売春宿へ売り飛ばしてやるから心配すんな」
「変態どもの間でさぞ高値がつくだろうよ」
 卑猥なことをいいながら、いやな笑い声をたてている。
「うぐ……」 
 首を絞められて息ができないらしい。男の子はぐったりとしている。
 絞め殺すのかまたはそのまま叩きつけるのか。どの道、凄惨なリンチを続ける気だろう。
「やめなさい。それ以上その子に手を出すな」
 八戒は静かに言った。この距離だと気功を放てば男の子にも当たってしまう。
「お? 」
「なんだぁ? 兄ちゃん。こんなみなしごのガキが気になんのか」
「どうせ親なんかいないんだぜこいつ」
 妖怪どものいう言葉のひとつひとつが、胸に小さな針のように刺さった。
「ゴミみてぇなもんだ」
 八戒はそれを聞いて思わず奥歯をかんだ。すごい形相で腕をふりあげる。その手のひらは青白く発光していた。少年をつかんだ男はしょうがないとしても、外野の妖怪どもは一匹のこらず消し去ってやろうと決意していた。
「おっと。キレイな顔した兄ちゃん。動くなよ。アンタ動いたらこのガキ本当に殺すぜ」
 薬商人を名乗っていたときの慇懃さはどこへやら、妖怪は残虐な本性をむきだしにして、血まみれになっている男の子の首筋へナイフを当てた。幼い子供の皮膚だった。薄皮が切れたとみえ血がうっすらと浮いている。
「……卑怯者」
 ひとを殺せそうな目つきで相手をにらむ。怒りに震える手から白い光は消えている。
「分かりました。僕のことは好きにしなさい」
 八戒は両手を胸の高さにあげた。唇を噛み締め観念したように告げた。
「うぇへへへ」
「ものわかりがいいじゃねぇか」
 周囲の妖怪たちから歓声があがった。
「殺せ。まずは三蔵一行4人のうち記念すべき、ひとりめだぜ」
「へっへっへっ。まぁ、そうあせるんじゃねぇよ。愉しんだ後でもいいだろうが」
 だんだんと八戒を見つめる目つきが変わってきた。なめまわすような視線を送ってくる。気色が悪かった。
「うへへへ、そうこなくっちゃな。お愉しみがねぇとやってられねぇぜ。キレイな黒髪の兄ちゃん」
 汚らしい欲望をぶつけだした。
「さ、その履いてるズボン、とっとと脱ぎな。ガキの前で犯してやるからよ」
 そのときだった。
 乾いた破裂音が次々と路地裏に響きわたった。
 硝煙のきなくさい匂い。あまりのことに何が起こったのか分からなかった。
「うわああっ」
「ぐわあっ」
 妖怪たちはパニックを起こしている。
 銀の小銃が立て続けに火を吹く。気短な調子で撃鉄が起こされては、次々と撃ちこまれる。
「ふざけてんじゃねぇぞ。てめぇら」
――――低い男性的な声が陰惨な空間に、びんと響いた。
 ちょうど路地の光の射す方向からだった。その姿は逆光で影になり表情までは見えない。すらりとした姿の輪郭が光に縁どられて、ひどく神々しい。魔天経文が通りぬける風を受けてその肩で颯爽とひるがえる。
 彼はこの陰惨な路地の中へと足を向けると、ゆっくりと歩いてきた。
 薄暗い路地裏へ陽の光がライトのごとく射しこむ一角。そこを通るときに金の髪が華麗にきらめいた。
 まるで美しい死神のようだ。
「さ、三蔵!? 」
 八戒が驚いた声をあげた。
「詰めが甘いんだよ、お前は」
 肩の高さまで腕をあげ銀色に輝く銃を斜めに構えた。銃口を八戒のそばにいる妖怪へ向けている。

 確かにそれは三蔵だった。








 「闇夜の月(12)」に続く