荒い呼吸音が部屋に響く。
情事の後のけだるい空気を身に纏った八戒の額にくちづける。感じすぎて目元を赤く染めた八戒はとても綺麗だ。
「俺のだ……俺の」
三蔵は八戒に、低く甘い声で囁いた。漆黒の髪の美人は、目の焦点があっていない。忘我の淵から戻ってきていないようだった。
返事がないのも構わず、三蔵はその躰を抱き寄せた。鬼畜坊主の口の端に幸福そうな笑みが浮かぶ。
部屋の中は金色の日暮れの光が差し込みだしていた。そのまま放出のまどろみのなかで抱き合った。
八戒のしなやかな腕が、背へと回される感触を三蔵は心地よく感じていた。
気がつけば。
そのまま、うたた寝をしてしまったらしい。
どのくらい時間が過ぎ去っただろう。
まだ、夕食の時間を告げにくる悟空の声は聞えない。そんなに長い間、三蔵は寝ていたわけではないはずだった。
突然。
首筋に鋭い爪の感触が走った。
最高僧は飛び起きた。
「……! 」
乱れた敷布、情事の気だるい空気の残る部屋の中、それらにそぐわぬ不吉な殺気が走った。
三蔵は飛びのいた。ベッドが粉微塵に切り裂かれる。長い妖魔の爪で無残に穴があいた。間一髪というところだった。
「お前……」
呆然と三蔵は呟いた。殺されかけたのだった。信じられなかった。
いや、こうなる予感は至るところにあった。
最初から、不吉な符牒は散らばっていた。
既に窓の外は、すっかりと暮れていた。沈んだ太陽の代わりに星々がきらびやかに空を飾る。
灯りもつけていない薄暗い部屋で、三蔵を襲った相手は白い牙を剥いて邪悪に笑った。
「おや、起こしてしまいましたか」
八戒だった。その手から、カフスが銀の光沢を放って床に落ちる。指の爪は長く伸び、耳は尖っていた。
部屋の暗がりと同化するかのように立っている。官能的で妖しい姿だった。悪魔のように美しい。
強烈な妖力がその全身から噴き出しているようだった。部屋の空気を妖しく染め上げてゆく。
「あなたって、相変わらずカンがいいんですねぇ。すっかり寝入ったと思ったんですけど」
くっくっくっと、口元をつりあげるようにして、八戒が笑う。艶やかな髪がその端麗な顔を飾るように舞った。
闇の眷属のように妖しくも華麗な姿だった。長い爪を振りかざして、三蔵の方へと向ける。
「どうして……」
三蔵は思わず唸った。
「だって、僕のことを犯した男を殺していいなんて……当然のことじゃないですか、ねぇ? 三蔵? 」
目の前の美しい男が愉しげにその口を歪めて微笑むのを三蔵は呆然と見つめた。
「あなたも御自分で言ったじゃないですか。『お前を犯した連中なんざ、死んで当然なんだ』って」
三蔵に向かって微笑むその口元は、不吉な眉月のように歪んでいた。
「そう、いいましたよね。あなた」
八戒は暗い窓を背景にするようにして、優美に立っていた。妖魔と化してもその姿は美しい。
いや、男たちを性の奈落の底へと沈める淫魔のように、更に悩ましかった。
「だから、あなたも殺してさしあげますよ」
そう言って、その長い爪を舐めた。
八戒の言葉を聴いて三蔵は殴られたような気がした。確かに三蔵も、そのしなやかな腕を縛めて、嫌がるのを無理やりに抱いた。それは事実だった。
要するに彼にとっては、三蔵すらも『犯した男』のうちに入るのだろう。
唐突に。
三蔵の胸に、不吉なパズルの欠片が全て一致するかのような感覚が去来した。
美しい石を手にとったら、その裏側におぞましい毒虫が張り付いていた。そんな感覚にもよく似ていた。
「そうか」
三蔵は、叩きつけるように言った。その脳裏に八戒が輪姦された廃屋の情景が閃いた。ひどい血の海の中、三蔵は八戒を腕に抱き上げたのだ。
「アイツらを殺したのは、やっぱりお前だったんだな。八戒」
途端に。
八戒の周囲の闇は濃くなった。
まるで、肯定するように、八戒が口端をつりあげるようにして笑った。
その様子は『当たり前じゃないですか。今更、そんなこと言われても困りますよ』そう言っているかのようだった。
――――最初から不吉で奇妙な違和感があった。
そう、最初からおかしなところは至るところにあったのだ。それなのに、三蔵が勝手に無意識にそれを見ないふりをし続けたのだ。
八戒を思うあまり、考えないようにしてしまっていたのだった。
「お前を最初に見つけたとき。生きてるヤツはいなかった。よく考えてみりゃ」
三蔵は、八戒との間の距離を測った。
「あんな雑魚どもが、あんなひでぇ殺し方をしあえる訳がねぇ。……お前が殺したんだな。奴らを」
八戒を強姦した男たちはこまぎれに引き裂かれていた。あれは「誰が」やったのか。
仲間われだとしても、あの殺し方には凄まじい憎しみが感じられた。逆にいえば、あの場で、一番あの男たちを憎んでいたのは誰なのか。
「でも、呪札で縛められていたんですよ。僕は」
「いや」
三蔵は絞り出すような声で言った。三蔵の脳裏に甦る光景があった。
宿の部屋に置いてあった呪札を、悟浄は素手で持てた。
悟浄だって三下などとはわけが違う。仮にも錫月杖を使う妖力の持ち主だ。
それなのに、札が反応しなかったのは何故なのか。
「あの、札は途中で効果が切れたんだな。そうだな、八戒」
そう、札は確かに最初、効力があったのだろうが、八戒を封じているうちにその強大な力を抑えきれずに、呪が破られたのだ。
なんといっても八戒は、男たちに襲われる寸前、カフスをふたつ外していた。
完全でないとはいえ、これほど強大な力の妖魔を抑え込むのに札ひとつでは限界があったのだろう。八戒の妖気を吸いきってしまった呪札は、最後には完全に紙切れになってしまったのだ。
「途中で、札は紙切れ同然になった。それでお前は……」
八戒は、三蔵の言葉を聞いて、その時の状況を思い出しでもしたかのように、横を向いた。寒気のするほどに整った、 冷たい顔だった。
妖しい微笑みを変わらずにその口元に浮かべている。
確かに。
何人目かの男の相手をしている最中に、札はただの紙切れとなった。
八戒は即座に自分を犯していた男の胴をその長い爪で貫いたのだった。その口元には別人のように妖しい冷酷な微笑みを浮かべて。
「だったら、なんです。この僕を犯した連中なんて、死んで当然ですよ……あなたも含めてね」
酷薄な笑みとともに、低い笑い声が、闇に響いた。
三蔵の眼前に、自分を輪姦した男たちを片端から屠り、肉片へと変えてゆく八戒の姿が目に浮かんだ。邪悪な癖に、その姿は華麗で美しかった。
たとえ毒蛇を食べても、その毒に犯されぬ、華麗な孔雀のように。八戒を汚すことなど、確かに誰にもできはしないと思った。
まるで、優美に舞う孔雀のように。幾ら汚してやったと思っても汚れきらないのが、恐らくこの猪八戒という男なのだ。
目の前の男が三蔵の夢想を嘲笑うかのように、ひときわ妖しく微笑んだ。
「どうしたんです。三蔵。ぼんやりとして」
死ぬ覚悟でも決まったんですか。そう言っているかのような冷たい笑顔だった。
残酷な現実を突きつけられて、三蔵は眩暈がしてきた。傷ついた八戒を守りたかった。癒してやりたかった。
しかし、現実はその数倍、苛烈だった。繊細で優しい八戒。それは全て、三蔵ひとりが抱いていた幻想だったとでもいうのだろうか。
いや。
三蔵だって本当のところは、八戒の本質に気がついてはいた。いや、とっくに気がついていた。
思えば出会ったときから、この男は「大量殺人者」だった。その本質は邪悪に決まっている。
八戒が男たちを殺したはずだと薄々気がついていながら、それに目をつぶったのは、ひたすら、三蔵のエゴだった。
(確かに、俺はこいつに殺されてもいいと思う程度には惚れていた)
三蔵は口を歪めた。とっさに手にしていた、銃を構えて八戒へ照準を合わせる。意識のどこかで、警戒していたのだろう、果たして、S&Wは全弾が装弾されていた。
銀の小銃を向けられて、目の前にいる黒髪の妖魔は、得たりとばかりに口を歪めて哄笑した。
その笑い声は、『そうこなくちゃ面白くありませんよねぇ』そう言っているようだった。
窓の外では、細い月が姿を現しはじめた。三蔵と八戒の死闘を、静かに青白く照らし出す。三蔵の手の中で銃が月の光を反射して煌めいた。
考えてみれば、三蔵と八戒の関係は、恋だの愛だの、そんなおままごとみたいな言葉ですむような生易しいものではなかったはずだ。
性も死も、全てを飲み干して。
食うか、食われるか。硝煙と血の匂いが濃く漂う関係だった。
それでも甘美な夜、抱き合った記憶だけはひどく鮮明だった。陶酔したようにお互いを貪りあった。
背に刻まれた八戒の爪あとまでが三蔵にとっては甘く官能的だった。
そう。
殺し殺される血の饗宴に列席したものこそが、この杯を飲みほす資格があるだろう。
三蔵は自分の躰に八戒の長い爪が食いこむのを感じたような気がした。
しかし、それは定かではない。
眼前で、再び八戒が最後の慈悲であるかのように、その鋭い爪を無造作に横へとなぎ払った。
目の前の妖魔へ照準を合わせた三蔵の指に力がこもる。
銃声が闇に響いた。
「煉獄の孔雀(6)」に続く