煉獄の孔雀(2)

「三蔵……八戒の具合―――どう? 」
 心配そうな悟空がドアから顔を覗かせる。
「心配するな。自分の部屋にいろ」
 三蔵が顔も向けずに返事をする。その視線は八戒に注がれたままだ。八戒の全身は清められ、清潔なシーツに包まれてベッドに横たえられていた。
「う、うん」
「ジープの面倒を見ててくれ。頼んだぞ」
「お、おう」
 悟空も三蔵の様子がただ事でないのをひしひしと感じている。抑えた殺気とでもいうべき空気を鬼畜坊主はずっと身に纏っていた。
 悟空はごねずに素直に姿を消した。本当は八戒の様子をひとめでも見て、安心したいのに我慢したのである。
 なんといっても、悟空も三蔵が八戒を連れて帰ってからというもの、その壮絶だった光景に、もう何も言えなくなってしまっていたのだった。
 最初、八戒の危機を知らせたのはジープだった。主とはぐれたジープは、八戒が妖怪の男たちに絡まれているのを見て、一目散に援軍を求めて宿へ戻ったのだ。
 ジープのただならぬ鳴き声を聞いた三蔵が、銃を手に無言で立ち上がった。上半身裸で、やっと塞がった傷も痛々しく、包帯を巻きつけた満身創痍だった。
 悟浄が代わりに行くと言ったが、三蔵は聞く耳もたなかった。素早くいつもの僧衣をその身に纏ったのだ。
「宿でなんか待ってられっか。俺が行く」
 そして――――。
 血まみれの八戒を両腕に抱き、三蔵は戻ってきたのだった。

「風呂だ! 風呂の準備しろ! サル早くしろ!」
「わ、わかった」
「河童! ボケッとしてんじゃねぇ! タオルありったけ持って来い!」
「お、おうよ」

 三蔵は殺気立っていた。何があったのかは最後まで喋らなかった。悟浄が真白いタオルを手渡したとき、羅刹のような形相で三蔵は振り返った。
「タ、タオル――――」
 気を呑まれて悟浄は思わず立ちすくんだ。
「あ、ああ」
 脳が沸騰するような激情に駆られていた三蔵は、相手が悟浄だということをようやく認めると気の抜けたような声を出した。
 一瞬向けた紫の視線は、まさにその一瞥で人も殺せそうな鋭さを伴っていた。
「お風呂! お風呂できたけど――」
 悟空が呼ぶのに、三蔵は八戒を抱えたまま立ち上がろうとした。それを悟浄も傍で支えようとする。
「触るな! 」
 激昂しきっている最高僧に、悟浄が抑えた声音で言った。
「手伝うって」
「いらねぇ」
 言い捨てるように告げる三蔵の背に、悟浄が重ねて言った。
「気持ちは分かるけど、アンタもケガしてんじゃん。――――ふたりでキレイにした方が八戒もキレイになるって」
 悟浄は淡々と言った。
「――――俺も八戒のことは大事だし」
 紅い髪の男は、珍しく真面目な表情で呟いた。本心だろう。この男はどこまでも親友思いなのだ。
「……フン」
 まだ少年っぽさが抜けきらない悟空と違って、悟浄には八戒の身に何が起こったのかなど、ひと目で分かってしまったに違いない。
 いや、血に混じって香る消し難い精液の匂いで、もう既に隠すことなど不可能だったのだ。
 三蔵は、八戒を抱えたまま、浴室へと姿を消した。浴室へのドアは閉められなかった。それは了解の徴だと判断した悟浄は、三蔵の後から風呂場へとついて入った。

 八戒はひどく汚れきっていた。

 男ふたりがかりでも、その作業は割と難儀した。何しろ八戒には意識がなかった。

 シャワーを出しっぱなしにして、八戒の身を清めながら三蔵は泣いているように思えた。 浴室の湯気と、シャワーの水滴でよくは分からなかったが、少なくとも悟浄にはそう見えた。




 そしてそのまま。
 八戒が意識を失って三日が経とうとしていた。

 軽い音を立てて、部屋のドアが再び叩かれる。
「誰だ」
「俺」
 悟浄は、するりとドアを開けて部屋へと入ってきた。手に青い皿を持っている。
「まだ、目ぇ開けない? 」
「ああ」
「そっか、宿のおねぇちゃんに頼み込んでリンゴ切ってもらったんだけど――――まだ、ダメか」
 ベッドサイドの小机に、悟浄は静かに赤い果物の載った皿を置いた。
「相当、衰弱している。まだ起きないだろうな」
「クソ……」
 悟浄は空いているもうひとつのベッドの隅へ腰かけた。三蔵は寝ている八戒の傍に椅子を置いて、飽きることもなく八戒の顔を黙って眺めている。
 どこか祈るようなその表情は、鬼畜坊主にしては珍しいもので、滅多に拝めるものではなかった。
「あれ……?」
 悟浄は部屋の棚の上に呪札が置かれているのを見て、思わず立ち上がった。
「ああ、ソイツで……八戒は……」
 三蔵が口ごもるように呟く。
「…………」
 苦しそうな三蔵から、無理に詳細を聞こうとは、悟浄は思わなかった。そっとしておこうと思った。
 悪夢のような情景を再び思い出させて、その傷口に塩を塗る必要もあるまい。
 悟浄はいまいましそうに捨て置かれている、その札を手にとった。その札もひどく血で汚れきっていた。いまや血が乾いて黒くなっている。
「ひでぇことしやがる……」
 悟浄は思わず歯ぎしりをした。三蔵の様子から、もうすでに相手は三蔵が殺したか、死んでいるかしているようだとは思ったが、何遍殺したって飽き足らないと思った。
「それより、何しに来た」
 三蔵は静かにいった。深手を負っているにも関わらず、八戒の枕元から離れようともしない。八戒のやつれて憔悴した顔を飽きずに眺めている。
「何しにって……アンタ、躰もたないでしょ。もう、三日は寝てねぇじゃん。看病代わろうと思ってさ」
「うるせぇ、余計な気まわすんじゃねぇ」
 三蔵はぶっきらぼうに言った。その頑なな様子は、まるで八戒が目を開けることがあれば、真っ先にそれを確認するのは自分の役目だとでも思いこんででもいるかのようだった。
「おい、アンタ。意地張ってんじゃ……」
 悟浄がさすがに呆れたように言い返したときだった。
「おい」
「あ……」
 寝ている八戒が身動きをした。その長い睫毛の先が震えている。
「八戒……! 」
 風雨で痛めつけられた清楚な花が開くかのように。
 八戒のその翡翠色の瞳が開いた。
 意識を取り戻した八戒の上に被さるようにして覗き込んでいた三蔵の顔に明らかな喜色が浮かんだ。
「俺だ。俺が分かるか。八戒」
 立ち上がって、その顔と顔をつけんばかりにしてその瞳を覗き込む。八戒には大写しで三蔵の顔が見えていることだろう。
「さ……ぞ?」
 どこか夢うつつな八戒の、あどけないような声が響いた。
 悟浄はそっと立ち上がった。背を向けて、その場を離れる。
 ドアを閉める前に、三蔵が八戒の躰をきつく抱きしめる気配があった。悟浄は静かにドアを閉めた。
「よかったねぇ……三蔵サマ」
 悟浄は後ろ手にドアを閉めると、廊下で呟いた。ドアにもたれて足を組んだ。
 口端に久しぶりの笑みを浮かべると、ハイライトを取り出して火を点ける。美味そうに悟浄はひさしぶりに紫煙を吐き出した。




 蛇とサソリに蜘蛛に蝦蟇がまにムカデ。あらゆる地上の毒虫を同じ壷に入れて蓋をする。
 エサなど当然与えない。
 するとどうなるか。
 
 古代中国の道教の書によれば、それらは壷の中でお互いを喰いあい、数を減らしてゆく。終いには、仲間を喰らって丸々と太った一匹が残る。
 共食いの地獄を生き延びた、最後の一匹を放って意中の相手に呪いをかけるのだ。
 それが、
 巫蟲ふこ――――蟲毒こどくと呼ばれる禁忌の呪法だ。

 それは遠い昔から行われた、忌まわしくもおぞましい呪いであった。

(共食い)




「倒れてちゃ世話ねぇわ」
 悟浄がやや呆れたように言う。
「うるせぇ」
 三蔵が不機嫌に呟いた。ベッドの上に上体を起こして悪態をつく。
「たいしたこたねぇ。多少熱っぽいだけだ」
 深手を負って、安静にしないで動き回って、しかもそれが開いて、ろくろく消毒もしないで。
 三日三晩、八戒を見守って不眠不休で。
 三蔵は八戒の無事を確認して、気が抜けたのだろう。とうとう熱を出して寝込んだ。
 もともと、限界に近くてただでさえ寝ていなくてはいけなかったのに、無理をしたのだった。気力だけでもっていたのだ。
 八戒も一度目を覚ましたとはいえ、ほとんどそれからも、うつらうつらと始終寝ていた。回復しきっていないのだろう。
「ま、仲良く同じ部屋で寝ててよ。俺とサルはしっかりとやってっから」
 鬼畜坊主の枕元近くの椅子に腰掛けて、悟浄が悪戯っぽく笑う。タバコは吸っていない。寝ている八戒に配慮しているのだろう。
「うるせぇ。殺すぞ」
「はいはいっと。憎まれ口だけは元気でしゅねぇ三蔵サマってば」
 からかうような口調の悟浄に、三蔵は銃口を向けた。そのまま、ためらわずに撃つ。
 銃声が三発高く響いた。
「うおっ! あぶねぇ! 病人だと思ってりゃ。この鬼畜ボーズが! 」
 超人的な反射神経で悟浄は弾を避けた。座っていた椅子に弾痕が重なるようにしてついた。
 正確無比な腕だった。普通だったら至近距離に撃ちこまれてお陀仏だろう。
「フン。うるせぇ。ぐだぐだ言ってんじゃねぇよ。消えろ」
「へいへい」
 悟浄はそのままドアの向こうへと姿を消した。
「ったく」
 熱のある躰をもてあましたように、三蔵が再びベッドの上へ横になった。
 悟浄がいなくなると、部屋はとても静かだ。やたらに時計が針を刻む音が耳につく。
「ん……」
 寝ている八戒が寝返りを打った。
 三蔵ははっとしたように、八戒の寝ているベッドの方を振り返った。
 河童がごちゃごちゃとうるさいので、頭にきて思わず銃声を立ててしまった。八戒が休んでいることを瞬間忘れ去っていた。
 起こしてしまったかと、黙ってその様子を伺っていると、果たして八戒はその目を静かに開けた。
「…………」
 顔色は悪く、いささかやつれた風情だが、そんな様子もやはり美しかった。
 血の気を失った唇の代わりに、今はその額を飾る黒髪がひときわ艶を放っている。
「すまん。起こしたか」
 三蔵は、きまり悪げに八戒の顔を覗き込んだ。
「それとも、食事でもするか。今日はまだ何も食べてねぇだろ」
 三蔵が、その黒曜石を思わせるような艶を放つ髪を指で梳くようにした。額にかかっているのを払う。少し汗が浮いていた。
「夜、うなされてたぞ。夢でも見てたのか」
 八戒のぼんやりとしていた瞳に光りが戻った。
「僕……」
 ベッドに横になったまま、周囲を見渡す。
「ここ……」
「宿だ。もう大丈夫だ」
 一度、目を覚ましたとはいうものの、そのまま力尽きたように眠りについてしまった八戒にとっては、ちゃんと意識を取り戻して言葉をいうのは、これがはじめてのようなものだった。
 三蔵は、なるべく八戒を刺激しないような穏やかな口調で言葉を継いだ。
「ずっと寝ていたんだ。もう四日になるか。具合はどうだ」
「僕、僕は……」
 瞬間。
 八戒の脳裏に地獄のような廃屋の光景が甦った。
 押さえつけられる手足、殴られる躰。男たちの嘲笑。突きつけられる怒張。充満する精液の匂い。暴力、血。
 残酷に犯された。それもひとりやふたりではない。たくさんの男たちによって玩具のように輪姦され続けたのだ。
 自分をモノとしてしか、慰みものか、家畜のようにしか思ってない連中にむごたらしく弄ばれて、そして――――
 孔という孔を犯され、同時に嬲られ、嘲られ、呪札で縛められ強姦され続けた。
(さっきよりは、感じる? 美人さん)
(やめてだ? ……あんた。尻振ってるじゃねぇか。……ヨクなってきたんだろ? )
(心配すんな。死ぬッてくらい、ひぃひぃ言わせてやるからよ……)
 鬼畜な連中の嘲りが、いまだに耳にこびりついて離れない。

 八戒は起きあがった。今まで寝たきりだった人間とは思えぬほどの素早い動作だった。
 口もとに何かがこみ上げてきたように片手でそれを押さえ、上体を起こすと反射的といってもいいような動きで、洗面台のあるドアの向こうへと姿を消した。
「八戒! 」
 三蔵の声が届いているのかいないのか。
「ぐ……ぇッ……ェッ」
 やがて、
 洗面所から、八戒の吐く苦しげな呻き声が聞こえてきた。
 八戒は吐いた。もちろん、何も食べていないので、胃液しか出てこない。黄色い胃液だけの吐瀉物を、躰を震わせて吐き続ける。
 まるでそれは、男たちによって無理やり求められ、その口へ体内へと飲み込むことを強要された精液を吐き戻すかのような行為だった。
 とはいえ、もう日数が経っていて、胃液しかでてはこない。胃酸が喉を焼く。
 苦しげな八戒の声は随分と続き、やがて胃液も何も吐くモノ自体がなくなったようだった。
「あ、あ……あ――――あ――――」
 ずるずるとその場に八戒は崩れるように座りこんだ。全身が小刻みに震えていた。ぶるぶるとその胃液で濡れた唇が震える。
 そのまま、声にならぬ声で悲鳴を上げだした。
 三蔵は、ベッドの上でその様子を静かに聞いていた。その白皙の顔が静かな怒りで紅潮する。
「クソッ……」
 顔をしかて、三蔵は唸った。その金糸でできたような髪をかきむしる。どうにもならなかった。
 殺しても、殺したりねぇ。
 死んだって許さねぇ。

 三蔵は、まるで眼前に八戒を嬲った連中がいるかのように、苛烈なその紫暗の瞳で睨みつけた。
 それは、羅刹のような形相だった。
 しかし、
 三蔵がこれから戦うのは、八戒の中の記憶――――だった。

 八戒の苦しそうな呻き声は、まだ続いている。






 「煉獄の孔雀(3)」に続く