月の刻印(5)

 途中、とある町に立ち寄った。ちょうど、ジープに積み込んだ食糧も日用品も底をついていた頃だった。
「八戒―ッはっかーい」
「なんです、悟空」
 結構大きな町の市場。雑踏の賑わいの中で八戒が振り返る。柔和な笑顔をその顔に浮かべている。
「これ! これ食べたい! 」
 悟空が露店のひとつを指差した。饅頭の湯気と、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。
「しょうがないですね。ひとつだけですよ」
「えー! ひとつかよー! 」
 目立つふたりに、通行人たちがちらちらと視線を投げかけてくる。小柄な金の瞳の少年と背の高い美人の組み合わせは人目を引いた。
 しかも、服装からして、ひと目で旅の異邦人だと知れる上に、八戒の容姿は整いきっていて怖いほどだった。人々が振り返るのも無理はなかった。
 市場には様々な店が立ち並んでいた。肉を売る店は、店の天丼から肉を吊るし、野菜を売る店は青々とした葉物を積み上げている。
 日用品を売る店、薬を商う問屋などその種類も様々だ。布を扱う店には反物が店先まで広げられて大した盛況だった。
 そんな雑多な通りに、露店の物売りが粥やら麺やらを売る声が朗々と響く。市場は非常に活気があった。
「あと買い物なに! 八戒」
 悟空は買い物に付き合うのが好きだ。いろいろ珍しいものも見られるし、何しろ優しい八戒にねだって食べ物を買ってもらえるからだ。
「後は悟浄と三蔵の煙草ですかね」
 八戒は手の中のメモ書きを見ながら言った。
「あーも! こないだ買ったばかりじゃねぇ? 」
「あの人たちにも困ったものですよねぇ」
 八戒と悟空は和やかな会話を交わしながら街を歩いた。悟浄も途中まではついてきていたが、途中で可愛い女の子でも見つけたのだろう。いつの間にか、いなくなってしまっていた。
 三蔵といえば、買い物などという細々したことは生来面倒なのか、最初からついてこなかった。
「ここですかね」
 日用品を扱うらしい店先へと八戒は足を踏み入れた。店内は外の賑やかさに比べて静かでほの暗い。刻み煙草やオイルやら金物やらに混じってレジの近くに煙草が並んでいる。
 八戒は悟浄と三蔵の好きな銘柄がそろっていることを素早く確認すると、レジの男に注文した。
「すいません。ハイライトとマルボロをツーカートンずつ」
「はい」
 今まで新聞を読んで店番していた男は顔を上げた。眉を上げて八戒の顔をじっと見つめる。
 そして、そのまま男の動きは止まってしまった。不躾にもひたすら八戒を見つめている。
「……煙草下さい」
 微妙な間に居心地の悪さを感じながら、八戒はもう一度いった。
「あ、はいはい。お待ち下さいね」
 レジの男はまるで夢から覚めたとでもいうように呟くと、屈み込むようにして、煙草の在庫を足元から取り出した。
「はいどうぞ」
「どうも」
 受け取ろうとして、八戒は身を竦ませた。煙草の袋を渡すついでにその手をやんわりと握られたのだ。
 戸惑った。背後で金物をいじって遊んでいる悟空を振り返るが、助けを求めるには距離があった。
 突然のことにびっくりする八戒の隙をつくように、レジの男は八戒の手を指の腹で撫でまわしだした。
「あの……」
 気色が悪くて鳥肌が立った。
 そのとき、
 突然の出来事に戸惑う八戒の背後から、聞き覚えのある声がした。
「どーした。八戒」
 それは赤い髪の男前だった。
「……悟浄! 」
 助かったとばかりに八戒が振り返る。レジの男は連れの悟浄を認めるや否や手を離した。
「おっさーん」
 状況を素早く理解した悟浄がレジの男に近づいた。ずかずかと大またで歩み寄ると、勢い良くレジ台を蹴飛ばした。
「やめてくれる? そーゆーセクハラ。ウチの影の総番長に手ぇ出そうなんざ、百億年早ぇよ? 」
 悟浄が凄んだ。こんなとき、その頬の傷は効果覿面だ。
「悟、悟浄ッもういいですから」
「はぁ? お前、気持ち悪くねぇのー? 最近らしくねぇぞ……以前はもっと」
 大声を上げだした悟浄を押し出すようにして、八戒はその店を出た。
「ったく。お前が止めなきゃ殴ってやったのによ、あのエロオヤジ」
 悟浄は店を出た外でもぶつぶつと呟いていた。
「男に手ェ握られたのが、人に知られると恥ずかしいってんで黙ってんのか? そしたらお前なんか」
 悟浄は続けた。
「犯されちまうぞ、そのうち」
「!」
 八戒は返事をしようとして咄嗟のことに咽ながら、親友を見つめた。真紅の瞳は意外と真面目で真剣だった。
「だって最近、すげぇお前ってば、色っぽいんだもん……ナンカあった? 」
 そうなのだ。
 悟浄から見ても、最近の八戒はどこかおかしい。いやおかしいくらい色っぽかった。隠しても隠し切れない色香のようなものが、最近の八戒からは自然に立ち昇り匂うようだったのだ。
 目つきも、その風情もどこかで男を待っているような婀娜っぽさが滲みでていた。無意識に誘っているような。その細い腰つきも、最近はなんだか特に目の毒だった。
 奥の奥で、三蔵に穿たれることを待ちわびてる躰。それを隠そうとすればするほど、それがなんてことない仕草にまで自然に香ってしまっていたのだった。

 悟浄にそんなことを暗に指摘されて、八戒は目の前が真っ暗になるような気がした。

 自分の淫らさは、最近漏れるようにして、皆に分かってしまっているのだ。
 八戒はそう思うとぞっとした。
 隠しても隠しても。
 網から水が漏れるように。自分の淫乱さも隠しようがないのではないか。八戒はそう思った。憂鬱だった。
(三蔵は何故自分を抱くのだろう)
 八戒は密かに考えた。
 きっとこんな誰が見ても淫らな自分は、単なる性欲解消の捌け口なのだ。
 旅という不自由な非日常の中で、便所に選んだ手ごろな性欲処理の道具。何故か八戒にはそうとしか考えられなかった。

 三蔵は抱く理由を言ったことなどなかった。

 だから

 八戒は、自分はそんなものに違いないと思った。

 性奴隷の下僕。

 いつの間にか、傍には悟空が来ていた。八戒の顔色が悪いのを心配した様子で袖をひっぱっていたが、そんなことにも八戒はしばらく気がつかずに考え込んでいた。



「今日の部屋割りは……僕、悟空と一緒でもいいでしょうか」
 八戒は困ったような笑顔で告げた。ちょうど、夕食のテーブルにみんなでついたところだった。テーブルには悟空の頼んだ山のような料理が並べられつつあった。
 食欲の権化のような悟空の頼み方には順番も何もあったものではない。普通は最初、冷菜やスープでも頼むものだと思うが、関係なく既に酢豚やら炒飯やらが並んでいる。質より量という主義主張が素直に出ているオーダーでそれはそれで微笑ましかった。
「へ? めっずらし。今日はお前ら一緒じゃなくていいのー? 」
 悟浄が炒飯をかき込みながら答える。手に持ったレンゲで八戒と最高僧を交互に指した。
「やったぁ。八戒と同じ部屋―! エロ河童のいびき、聞かないですむ。ラッキー」
「ふっざけんな。こっちのセリフだそりゃあ! 」
 いつものように賑やかに始まった河童と子猿の小競り合いを他所に三蔵が低く呟いた。
「……聞くぞ。なんで俺と違う部屋になりたい」
 最高僧は八戒の方を真っ直ぐに見つめた。一見すると三蔵は無表情だった。しかし、その白皙の美貌が苛立つように曇っているのが、八戒だけには分かった。
「いえ、別に意味はないんですが、たまには」
 八戒は曖昧に笑った。三蔵と目を合わせずに答える。その紫暗の瞳を見ると心が騒いだ。いや、正確にいうと三蔵の姿を見ているだけで、最近の八戒は躰が淫らに疼くようになっていた。条件反射とでもいうのだろうか。
 八戒はもう、そんな自分がいやだったのだ。
「じゃ、僕はこれで」
 八戒は逃げるように席を立った。これ以上、三蔵の姿を見ているのは耐えられなかった。
「あっれー? お前もう、食べないの? 」
 悟浄が心配そうに眉を寄せる。
「八戒ッ食べないと病気になるぜ! 」
 悟空がご飯粒をたくさん口の周りにつけて、その上豚の角煮を頬張りながらいう。
「ハッ、お前は食べ過ぎで病気になんねぇのが不思議だけどよ」
「うるさいな! エロ河童! 黙れってば! 」
 悟空がご飯粒を口から飛ばしながら応戦する。
 再びはじまった悟空と悟浄の仲の良い喧嘩に力の無い微笑を浮かべながら、八戒は食堂を出て行った。
「チッ……」
 三蔵が舌打ちするのに、悟浄と悟空が静かになる。お互い顔を見合わせた。
「あのさ……三蔵サマ」
 悟浄が三蔵に向って言いにくそうに切り出した。
  「昼の……コトなんだけど……」
「昼? なんかあったのか」
 三蔵は眉を寄せ、軽く首を傾げて続きを促した。



 その夜。
「おやすみなさい。悟空、電気消しますね」
   結局、八戒は悟空と同じ部屋で寝ることになった。誰も八戒の希望に反対しなかったのだ。八戒はこんな風にひとりでベッドに入るのは久しぶりだった。
 三蔵と一緒だと、いつも同じベッドで寝ていた。男ふたりでは狭くてしょうがなかったが、お互いを貪ることに夢中で、狭さなど意識もしなかったのだ。
 しかし、ひとりのベッドはやはり手足も伸ばせて広々として快適だった。
「悟空? 」
 八戒はなおも呼んだが返事はなかった。
 それもその筈だった。悟空はすでに健やかな寝息を立てていた。健康優良児の彼は、ベッドに横になると同時に寝付いてしまったのである。八戒は微笑むと、ベッドサイドの明かりを消した。
「ん……」
 いつもなら。傍らには金の髪の最高僧がいて。その腕を伸ばしてくる。
「あ……」
(寝るつもりじゃねェだろな)
 そう言って重ねられる唇から伝わる三蔵の体温を八戒は思い出していた。マルボロの匂いがかすかに香るくちづけ。
「く……ん」
 思い出せば躰の芯が疼いて眠れない。
「……も」
 八戒は頭を振った。横になると、闇の中から自分を抱く鬼畜坊主の幻影を見る自分に気がついてしまった。あの腕をしらないうちに求めてしまっているのだ。
 もう、眠れない。
 八戒は寝るのを諦めた。外にでも出て、頭を冷やそうと思った。



 三蔵は廊下でマルボロを燻らせていた。紫煙が闇の中に漂う。出窓に腰掛けた三蔵の手元を、月が銀色の光で照らし出す。
 今夜の宿は古式ゆかしい中華風とでも呼ぶべき建物だった。嵌め殺しの窓には、美しい格子戸がついている。月の光を浴びてできるその影すら繊細で華やかだった。
「……フン」
 食堂で八戒が消えた後、悟浄に言われたことを思い出していた。
『アイツひとりにしない方がいいんじゃね。三蔵サマ』
 悟浄はそう言った。そして、その日の昼にあった不快な出来事を話し出したのである。
「クソッ……」
 八戒にいやらしい手を伸ばしてきたとかいう、タバコ屋のオヤジにも腹が立ったが、八戒にも腹が立った。
 三蔵にはどうしてそれが、自分を放っておいて一人寝させる理由になるのかが分からないのだ。
『そういうモンなんじゃないの。今日アイツなんだか落ち込んでるみたいだし』
 同居人をやってたこともある悟浄は、八戒が三蔵と部屋を別にしたがった理由をそう言った。それも三蔵には訳が分からなかった。
 落ち込んでるんなら、ますます自分の傍にいればいいじゃねぇか。そう思ってひたすら不機嫌に煙草をふかした。
 舌打ちをひとつすると、振り返って背後の外の景色を眺めた。上弦の月が冴え冴えと美しい。
「クソが……」
 もう何度目かになるか分からない悪態をひたすらついた。
 確かに三蔵から見ても、最近の八戒はどこかが変わった。どこがどうとはいえない変化なのだが、とにかく、どこか艶めかしい。
 それはふとみせる表情だったり、仕草だったりした。服のボタンを留めなおす手つきにも、モノクルを嵌めなおす仕草にも、最近は色香としか呼びようがないものが香った。
 抑えた妖しい艶めかしさが漂って、三蔵も目の遣りどころに困ることすらあった。
『最近八戒ってばキレ―なんだもん』
 サルまでが、食堂で悟浄に合わせるように言っていたのを思い出す。
 今夜は部屋で寝れそうになかった。じっとしていられそうになかった。
 三蔵が忌々しそうに舌打ちする音だけが廊下に響いた。



 同じ頃。
 八戒は廊下にでも出て頭を冷やそうと思った。古いつくりの廊下は、窓ガラスがふんだんに使われていて外が良く見える。当時は高かっただろうガラスが贅沢に嵌め込まれていた。
 昔のままの風情を良く残す、贅沢にも手吹きの板ガラスだ。一枚一枚手作りで、厚みが均一でない。そのため微妙な歪みを所々生じていた。そのため外の景色も歪み、幻想的に感じられる。
 それを飾る格子戸も古いが見事な細工で、職人の腕のよさが伝わってくる素晴らしいものだった。今は捨てられて見向きもされない技術だ。

 古式ゆかしい立派な宿屋だった。

 そんな宿屋の廊下は長かった。突き当たりまでいってみようと、八戒が角を曲がったとき、
 三蔵の姿が見えた。

 八戒は一瞬息が止まるかと思った。

 それは月の魔魅のような姿だった。

 三蔵は廊下の出窓に腰をかけ、月の光に照らされていた。僧衣ではなく、簡単な浴衣をゆったりと着崩していた。胸元から見える肌が八戒を誘っているように見えた。
 その金糸の髪を、月が背後から照らしだしていた。三蔵の輪郭が神々しい月の光を帯びて、柔らかく発光しているように見えた。三蔵は突然現れた八戒の姿に驚いた風でもなく、昂然とまっすぐに見つめ返した。
「さん……」
 八戒が思わず話し掛けたそのとき、三蔵が先に口を開いた。
「エロオヤジに触られたってのはどっちの手だ」
 三蔵の言葉は極めて単刀直入だった。
「え? 」
「どっちだ」
「み……右手です……けど」
 八戒の答えを聞くやいなや。
「……ッ! 」
 三蔵は八戒の右手を手に取るとくちづけた。丁寧に唇を這わせる。
「さ、さんぞ」
 そのうち、甘い舌が指の間を這いまわった。淫らな所作で舐め上げだした。
「あ……」
 きゅと躰の芯を甘くそそられて、八戒は思わず目を堅く閉じた。躰が熱く疼く。
「消毒だ」
 三蔵は愛想もなくぶっきらぼうに呟いた。
「だ、だめ……です。ほんとに……! 」
 八戒は逃れようと躰を捻った。舐められた指から熱い疼きが、躰中を甘い電流のように伝わって焼いた。
 そんな八戒の様子を見て、三蔵は口の端をつりあげるようにして笑った。
「俺から逃げようなんて思うんじゃねぇよ」
 窓の格子が月の光に照らされて床に影を落としている。華麗な影絵のようだ。
 鬼畜最高僧は逃れようとする八戒の痩躯をきつく抱きしめた。



 「月の刻印(6)」に続く