ハルシネィション(8)

「ただいま……八戒? 」
 悟浄がバイトを終えてアパートに戻ったとき。八戒の姿はなかった。
 煙のように消えていた。どこを探しても八戒はいなかった。思わず、取り落とした紙袋から、りんごが転がり畳の縁で止まる。それは差し込みだした夕陽を照り返して紅く光った。悟浄はひとり、アパートの一室で立ちつくした。






「さん……ぞ」
 八戒は助手席から不安げに、三蔵の顔を覗き込んだ。運転している金糸の髪の持ち主は、にこりともしない。憮然ぶぜんとした表情で、ひたすらフロントガラス越しの外をにらんでいる。
「……僕」
 銀色の車はウィンカーを点滅させて道を曲がった。あまり減速しないでハンドルが切られる。八戒の躰が横にかしいだ。
「うるせぇ、運転中だ。黙れ」
 怖ろしく低い声で院長は告げた。銀の外車は、仕様も日本車とは微妙にことなっていた。ウィンカーやワイパーの操作が少し違う。
 とはいえ、三蔵の私用の車なので本人は慣れたものだ。税金対策で買った車だが、よくよく考えれば、勤務する病院と家の往復で、他に使うあてなどなかった。
「これ、三蔵の……」
「俺の車だったらなんだ」
 通常、アウトバーンを120qで飛ばすためにつくられている車だ。この車を所有しているからには、たまには遠出でもしなくてはいけないところだ。
 つい先日まで、八戒さえ調子がよさそうなら、連れ出して外の空気でも吸わせようと三蔵は思っていた。花の綺麗な場所にでも立たせてみたかったのだ。花を背景に微笑む八戒は綺麗だろうと思っていた。
 それは甘美な夢想だった。そして夢想は夢想でしかありえなかった。そんな夢は文字通り幻となって終わったのだった。苦々しいものが、後から後から胸の奥からこみあげてきて、三蔵の口もとを歪ませた。
「この俺から逃げ出しやがって」
 地の底を這うような、ぞっとする声音で三蔵が呻いた。
 八戒が抜け出した空の保護室を見たときに、三蔵を襲った感情は紛れもない喪失の感覚だった。自分の思いが無惨にもうち砕かれた怒りに身を焼いた。許さないと思った。連れ出した悟浄とかいう看護士も許せなかったが、それ以上に、のこのことその後をついて逃げ出した八戒本人がなにより許せなかった。
 それは、三蔵に対する裏切り以外のなにものでもなかった。
「僕は……」
 助手席で弁解しようとする八戒を、院長は怒鳴りつけた。
「うるせぇ。本当に黙れ。黙らねぇと何するか分からねぇぞ」
 車の中を沈黙が支配した。銀のメルセデスは高速に乗り、ひたすら病院への道をひた走った。





 三蔵は閉鎖病棟の前に車を横付けにした。
「院長! 」
 駆け寄ってくる病棟医のひとりに、三蔵は車のキーを抜いて放り投げた。
「この車を駐車場に入れておけ。役立たずでも、そのぐらいはできるだろうが」
 居丈高に傲然と言ってのけると、三蔵は八戒の髪をわしづかみにした。
「こい」
「…………! 」
 八戒が悲鳴を上げる。動物のように髪をつかまれて痛かった。
「さんぞ……さんぞッ」
 三蔵の腕に手を添えて、八戒が縋るが、容赦はされなかった。リノリウムの床の上を引きずるようにして、奥へ奥へと連れてゆかれる。三蔵の足は、エレベータの前で止まった。その白い冷たい指が「下」の表記のあるパネルボタンを押した。
「お願いです……僕の話を……」
「てめぇの話なんざ、聞く必要あるか」
 とりつくしまも無かった。三蔵の態度はこの上もなく冷たかった。
 エレベータが到着し、八戒はやはり家畜のように箱の中へと追い立てられた。浮遊感とともにエレベータは地下へと降りてゆく。
 八戒は諦めて三蔵の顔をまじまじと見つめた。エレベータについている蛍光灯の光のせいだろうか。白皙のその顔は血の気が失せて人形のように見えた。以前よりも格段に冷血に見えた。
 それでも、三蔵は相変わらず華やかな美貌ではあった。しかし、その顔をあらためてよくよく見ると、以前よりせたような、やつれたような印象がにじんでいた。顎の線が少し尖ってきている。
 そのせいか、相も変わらずの秀麗な容姿だが、よりいっそう、近寄り難い、冷気漂う気配を身に纏っていた。もっとも、八戒はそれが自分のせいだなんてことは微塵にも気がついてなどいないに違いない。
 三蔵の顔を覗き込んでいると、軽い衝撃とともにエレベータは止まった。
「ついたぞ」
 院長の冷たい声音とともに、八戒は引きずるようにエレベータから連れ出された。
 そこは地階だった。閉塞感のある通路に、切れかかった蛍光灯がうっすらと点っている。
「こっちだ」
 三蔵は、厚い鉄のドアの鍵を開けた。重量感のあるドアが、重々しく軋んだ音を立てて開いた。
 鉄のドアの向こうには、鉄の金網張りのドアがもう一つあった。厳重な警戒だ。こんなところなら、確かに逃げられまい。地下だけで二重の鉄のドア、それから、地上の病棟入り口にも二重の鉄柵のドアがある。
 内部の金網張りのドアを開けると、そこは地下の特別病棟だった。
 消毒薬の匂いと、生臭いなんともいえない、濁った空気に包まれる。無機質なコンクリートの白い壁と、リノリウム張りの床。細長い通路を挟んでコンクリートと鉄格子の嵌った独房のような部屋がどこまでも連なっている。どこか非人間的な風景だ。

 そのときだった。
「……アレ。院長? 」
 八戒も見覚えのある白衣の人物が現れた。閉鎖病棟の主任病棟医、你健一だった。ほとんどこの特別病棟の主のような態度で、彼はにやりと笑った。おどけたような仕草で院長に挨拶をする。
「今日は、また……ってどちらへ」
 三蔵は、你の挨拶を無視して、八戒を引きずり、病棟の奥へと向かった。それへ慌てて你が追いすがる。
「一番、奥の部屋、空いていたな。借りるぞ」
「……院長? 」
 你の目が初めて腕の中の八戒へと向けられた。一瞬なにもかも了解したような光りをその漆黒の瞳は浮かべたが、すぐに良識ぶったことを言い出した。
「院長、しかし、この患者はこんな重症棟に入れるような症状に見えませんが……」
「うるせぇ。口答えすんじゃねぇ、殺すぞ」
 院長の挨拶は実に手短だった。紫暗の瞳に浮かんだ、苛烈な光を見て、你が諦めたように肩を落とした。白衣のポケットを探り、鈍く光る鍵とカードを差し出す。
 無言で你の手から部屋の鍵をひったくるようにして奪うと、三蔵はそのまま通路の奥へ、八戒を抱えて消えた。






 通路の左右に、二重張りの鉄のドア、二重の鉄格子で厳重に囲まれた病室が連なっている。重症患者はもちろんのこと、警察から心身喪失等で凶悪な事件を犯した患者を一時預かりすることも多い。
 ちなみにその管理体制は鉄壁で、あの、悪名高き八王子医療刑務所にも勝る設備と自負している。デジタルなカード式とアナログな錠前式と二重拵えになっているドアの鍵を開け、三蔵は八戒を中へ突き飛ばすようにして、入れた。
「ここが、これからオマエの住みかだ」
 冷たい声が、部屋のタイルに反響した。そこは異様な部屋だった。
 床も、壁も、天井も全て白いタイル張りだ。部屋の床は微妙に傾き、隅には排水溝がついている。天井についている蛍光灯まで金網で覆われているが、それは保護室でもおなじみだ。
 緩衝材のゴムのベッドが床に埋め込めれている。ベッドを利用して自殺を試みないようにとの配慮だろう。吐いたり、失禁したりすることでもあれば、ホースで部屋ごと洗えるように徹底的に工夫されている部屋だった。
 病室前面には、鉄格子が二重にはめ込まれ、地下にあるので、明かり取りの窓すらない。ドアに小さい引き戸式の小窓があるが、内側からは開かない。代わりに太い金網の張られた換気扇が回っている。
 以前いた保護室も、人用の檻としか呼べないような代物だったが、こちらはまた輪をかけて凄まじかった。
 三蔵は、部屋の隅についていた監視……保護観察用のカメラに触れ、その電源を落とすと八戒に向きなおった。
「俺から逃げやがって」
 三蔵は八戒の襟首えりくびをつかんだ。シャツの喉元のどもとをわしづかみ、壁へと押さえつける。もの凄い力だった。冷たく硬いタイルの感触を背に感じながら、八戒は呻いた。
「誤解です……三蔵」
「何が誤解だ」
 喉を締め上げたまま、三蔵が腕に力を入れた。
「いっそ、殺しちまうか。お前なんざ。そうすればもう俺から逃げることなんて……考えなくなるだろうが、どうだ」
「…………! 」
 八戒が目を剥く。三蔵の声はぞっとするほど冷たかった。
「ま……て……」
「ああ? 」
 八戒の唇が、わなないて、音をむなしく綴ろうとして失敗するのを眺めていた三蔵だったが、ようやくその腕の力を弛めた。
 解放されて、八戒が壁へ躰を預けたまま、ずるずると床へ座り込む。その床もタイル張りで硬い。しばらくの間、八戒の咳き込む苦しげな音が部屋に反響した。喉に三蔵の手の跡がつくほど締め上げられて、酸素を求めて躰が痙攣する。
「ぼ……く……は」
 咳き込む耳障りな呼吸音の間から、八戒は切れ切れに言葉を継いだ。
「待って……たの……に」
 三蔵の整った眉がつりあがる。
「さんぞ……の……いう……と……お」
「俺のいうとおりなんか、待っていなかったろうが」
 紫暗の瞳が憎しみの色を湛えて苛烈に光る。三蔵は八戒の艶やかな髪をわしづかんで引きずり回した。
「てめぇはアル中野郎を誘惑しただけじゃ飽き足らなくて、今度は看護師に色目使ったんだろうが。俺から逃げたくて、あんな野郎をたらしこんでたんだな。呆れたヤツだ。この淫売が。男だったら誰でもいいのか」
 三蔵は平手を放った。タイルの嵌まった部屋の壁に高い音が反響する。
「ちが……違……」
 腕を上げて、三蔵の打擲ちょうちゃくから逃れようと、八戒が小さく身を竦める。
「悟浄とかいったか。あの野郎。そういえば、解放病棟にいたときから、お前とあの看護師、なんだか妙だったな。その頃からか。そうなんだな」
 三蔵は再び八戒の襟首をつかんだ。薬の禁断症状でより一層痩せて上背ばかりある細い躰を責め苛む。
「あんな、にやけたゴキブリ野郎、どこがいいんだ」
 三蔵の言葉を聞いて、八戒の口調が変わった。
「悟浄さんの悪口はやめて下さい! 」
 八戒は凛とした声で悟浄を庇った。
「あの人は悪くありません。あの人は……優しくていい人なんです! 」
 洗脳されて、自由を奪われても、八戒の精神は完全には死んではいなかった。八戒はやはり八戒だった。こんな追い詰められた状況下だというのに、悟浄のことを全身で庇った。
「あの人は、僕とあなたのことを誤解していて……僕を救おうと思っていただけなんです! 」
「言いてぇ事はそれだけか」
 三蔵は表情すらも消えたぞっとするような声音で言った。
 いまや、八戒の眼前にいるのは、人というよりも冷徹な死の天使のようだった。かつて、幾つもの町を滅ぼし、業火にした、天のよこした滅びの使者に似ていた。
 三蔵は八戒を蹴った。鋭い蹴りだった。
「…………! 」
 声も出せない衝撃に、八戒がその場で躰を折って悶絶する。床へ倒れ込み、悶えるそのしなやかな痩躯を冷然と三蔵は上から眺め下ろした。
「家畜の定義を知っているか」
 三蔵が、今度は八戒の手の甲を足で踏みつけた。力を入れて踏みにじられ、黒髪を振り乱し、悲鳴を上げて床に転がる。
「家畜は自分で自分の性交する相手を選べない……お前と同じだ、八戒」
 三蔵は口元をつりあげて笑った。
「犬め」
 嗜虐的な笑みがその酷薄な面に浮かぶ。
「お前が、例え俺のことが嫌でも……何しろてめぇは家畜同然だからな。そうだろうが。淫売が……誰とでも寝やがって」
 三蔵が踏みつけていた足をどけ、代わりにまた髪をつかんで顔を上げさせた。八戒の顔はひどい暴行の連続で苦渋に塗れてはいたが、それでも美しかった。
「豚め、この俺を裏切りやがって。ただで済むと思うなよ」
 三蔵はそういうと、内ポケットを弄った。金属製の細身のケースを取り出す。中には注射器が二本と、アンプルが幾つか入っていた。
「思い知らせてやる。俺が……どんなに」
 続く言葉を飲み込むようにして唇を噛み締めると、三蔵はアンプルの中の薬剤を注射器で吸い上げた。空気が入らないように、薬液を調整する。そして、八戒の腕をつかんで引き寄せた。
「三蔵ッ……! 」
「忘れさせてやる。あの紅い髪の野郎のことなんざ思い出せなくしてやるぞ」
 注射針が、皮膚を貫く。微かな痛みが走り、八戒は眉を顰めた。誤解だと、何度叫んでも、三蔵は聞いてくれない。
「さんぞ……」
「動くな」
 目の前で、得体のしれない透明な薬液が、八戒の躰に注入されてゆく。
「さんぞッ、さんぞ……! 」
 八戒は涙目になっていた。不安でしかたがなかった。こんな罰を受けるようなことを自分は本当にしたのだろうか。なんでこんなに三蔵は怒っているのか。八戒にはさっぱり分からなかった。
 手馴れた動作で注射をし終えると、三蔵はまたひときわ人の悪い笑みを浮かべた。
「一時間たったら、また来る。それまでに俺を納得させるような詫びの言葉でも考えとけ」
 三蔵はそういうと、部屋から立ち去った。八戒は苦しげに呻き声を上げ、その背中を追おうと、立ち上がったが、薬剤によって神経が犯され、その場にずるずると力を失って倒れ込んでしまった。





 閉鎖病棟の地下にある、 『特別病棟』――――重症棟。
 陰惨な空間だった。どう言葉を飾ろうと、ここには苦悩を超えたなにかがある。人にとって尊厳とは何かと、深く考え込ませるような事象が日夜繰り広げられている。
 各病室には、放っておくと、手首を切り落とすほどの自傷行為をするものや、意味の無い笑いを恍惚と続けながら、何かの瞬間に居合わせた相手に頭突きを食らわすもの、自分の糞尿を壁に塗りたくるものなど様々な患者がバラエティに富んだ症例を繰り広げながら 「治療」 されている。
 病棟担当者は閉鎖病棟主任でもある你医師で、彼の厳重な管理下にあった。叩き上げの重症患者専門医の彼にはどんな悲惨な患者の症例にも心動かされるようなことなど無いようだった。
 だが、そんな冷徹な你から見ても、保護室にいた八戒に対する院長の執着は度を越しているように思われた。毎晩のように院長の慰み者にされ、その躰を貪り喰われている八戒の存在は冷徹無比なこの男にしては珍しいことに心の何処かに引っ掛かっていた。
 熱い喘ぎ、艶かしい肢体、整った顔立ちを歪めて快楽に喘ぐ様が気になってしょうがない。何時からだろう。彼は院長の玩弄物のようになっていたのだ。


 そして、今日。
 三蔵は八戒をこの地下の特別病室に連れ込んだのだった。
 まぁ、理由など聡明な你医師にとってはお見通しだった。


 你は、奥の部屋へ八戒とともに入った三蔵が、ひとりで出てきたのを認めて、タバコの煙を燻らせながら、ゆっくりと傍へと近寄った。その動きは、大型の回遊魚を思わせる。
「ひでぇ臭いだな、ここは。相変わらず」
 三蔵が顔を歪めて、挨拶がわりのように呟いた。八戒のことについては触れもしない。
「まぁ、どこも重症病棟はこんなもん……だと思いますヨ」
 你医師は場にそぐわないのんびりとした口調でそれに答えた。
 確かに臭い。患者に清拭をしたり、病室内をホースで洗浄できるように全室全面タイル張りにしたり、換気扇の数を増やしたりして凌いではいるが、重症棟はどうしても、糞便を垂れ流しにする患者がいるので、どこか動物園めいた排泄物と獣の臭いがする。
 人間は体か精神のどちらかが壊れれば、排泄の問題と無縁でいられない。
「院長、今日はまたどうしてこちらに」
 你医師は八戒を連れ込んだ時点で、院長の意図など分かりすぎるくらい分かっているくせに、ことさらとぼけて三蔵に訊いた。ほとんどイヤミの一種だ。
「この間、暴れてたアル中がいたろうが、アレはどうした」
 しかし、三蔵もとぼけ返した。八戒については触れたくないらしい。大切な存在だった。全く関心などない患者のことをわざわざ訊いて、話をそらそうとする。
「ああ、『彼』ですか」
 それでも、你は三蔵に話を合わせた。
 『彼』とは以前、同室の八戒のことを襲ったアル中患者のことだ。「他人を襲う危険性が継続してある」 としてこんな地下病棟に押し込めていたのだった。
「はぁ。暴れるんで、セレネ−スを筋注してぐっすりお休みですよ」
「幸せな奴だ」
 吐き捨てるように三蔵は言い、そういえば、たまたま気がついたとでもいうように言った。
「……あと、俺が今日連れてきた患者だが」
你は、『おいでなすった』 とでもいうような光を眼鏡の奥で浮かべた。横目で院長を探るかのように見つめる。
「少し 『処置』 をした。俺は一時間したらまた来る。余計な手出しはするな」
 三蔵はそう告げると、きびすを返した。一時間、病院のどこかでタバコでも吸って潰す気だろう。
(ご執心なことで)
 思わず、你はその唇をつりあげた。
――――猪八戒。院長から毎夜のように虐待のように抱かれ続けることに耐えられなくなったのだろう。看護士と一緒に逃げ出した美しい黒髪の青年。
 結局、探し出されて見つかってしまい、きゅうをすえるために……絶対に逃げ出せないように、こんな地下病棟に閉じ込められてしまったのだ。
(不憫な子だね。綺麗過ぎるんだよなァ)
 你医師はそう思っていた。
 三蔵が出て行った後、你は宿直室の椅子に腰かけた。院長の突然の来訪に、やれやれとため息を吐く。お偉いさんのきまぐれに付き合わされるのは、つかれるものだ。
 ひとしきり、首を左右に回して、ほぐすような仕草を繰り返していたが、ふと思いついたように、CDプレイヤーの電源を入れた。サティの美しくも奇妙な味わいのピアノ曲が流れてくる。
 コーヒーでも淹れようと、你が戸棚から自分専用のウサギ柄のマグカップを取り出した。部屋の隅に置かれた保温ポットの傍へ歩み寄る。インスタントコーヒーをビンから直接マグカップに入れ、湯を注いだ。立ったまま、コーヒーの香りをしばらく楽しみ、壁の一面を占めるモニターへ目をやった。この病棟は患者の安全確保と称して、カメラが各病室に備えられている。
 そして、その画像は、この宿直室で確認できるのだ。何しろ、病室の壁は厚いし、病室は縦に長いし、症状は重いしで、目に届かないうちに重篤な事態にならないとも限らないからだ。ドアに監視できるよう小窓があるが、始終確認して回るほど人手はなかった。
「あれ? 」
 你は首を傾げた。モニターに映る病室のうち、八戒の入れられている部屋のカメラだけが映らないのだ。電源でも落ちているらしい。
「……ったく」
 心の隅で、院長がわざと電源を切ったのではと思わないでもなかったが、なにしろ、三蔵ご執心の患者だ。何か不測の事態でもあったらまずかろう。
「しょうがないなァ」
 你は頭を掻きながら、マグカップを机へと置いた。




 鼻歌混じりで、你は八戒の押し込められている病室の鍵を開けた。
 殺風景な白い病室の壁際に、黒髪の青年が座り込んでいる。白いタイルに、黒髪が映えて綺麗だ。痩躯のしなやかな躰を自ら抱きしめるようにして、腕をまわしている。着ているシャツを握りしめ、何かに必死で耐えているようだ。
「あ……っ……ん……せんせ……い」
 そこにいたのは、人のかたちをした妖しい生き物だった。
 八戒は、白衣姿の你医師を認めて、すがった。
「苦しいんです……たすけ……て」
 整った眉が悩ましく寄せられる。腕を組むようにして、自分で自分を抱きしめていたが、そんな仕草は、艶やかな躰の輪郭を浮き彫りにして、男の情欲を誘うかのようだった。
 でも、本人は気がついていないだろう。優美に寄った服の皺さえ、ひどく悩ましかった。
 思わず、你は生唾を飲み込んだ。
 とろりとした表情で你を見つめている八戒は明らかに何かの薬物を使用されている。
「ふ……」
 ぶるぶると、躰を震わせている。催淫剤でも使用されているのだろう。壮絶な色気だった。気がつけば、你医師は自分でも知らぬ間に躰を八戒の方へと屈めていた。唾を飲み込む。八戒から目が離せなかった。
「欲しい……の? 」
 思わず問い掛けた。問い掛けずにいられなかった。
「お願いせんせ……」
 吐息塗れのそれは、甘い甘い誘惑の声に聞こえた。本人はこんな状態から、ともかく助けて欲しいとの意味で、言っているのだろうが、そんな言葉は違う意味合いに聞こえてしまう。
 八戒のしどけない仕草は、人外の魔性の生き物としか思えない。凄絶な色香が立ち上り、你すらも絡めとった。
「お願いってナニ? 院長はすぐ抱いてくれなかったんだ? オアズケ? 」
「…………! 」
 無言で首を振る。そんな八戒を、你は強引に抱き寄せた。熱い躰だった。
「イヤ? ボクじゃイヤ? ……でも、こんなになっちゃって……アト、一時間も我慢できるの? キミ」
 抱き寄せた八戒の熱い吐息が你の耳朶を甘く打つ。疼く躰をなだめるのに、必死で、你の言葉が耳に入っているのかどうかすらあやしい様子だ。
(……使用した薬剤はメチルフェニデートかアンフェタミンか? まったくエグイことするねェ、あの人も)
 八戒の情欲に目を覚まさせ、躰に火を点けるために薬剤まで使用する三蔵の執着に何かぞっとするものも感じたが、我慢できなかった。いやこんなもの見せつけられて、堪えられるわけがない。
「ボクが叶えてあげるよ。キミの『お願い』」
 金属音を響かせ、ベルトのバックルを外すと八戒の望みを叶えるために你はその躰を沈めようとした。
 院長と八戒の秘め事を知ってしまってから、ずっとこの青年を你も抱いてみたかったのだ。
 この華奢な細腰を腿の上に引き上げて、許してと懇願するのをオスの切っ先で挿し貫き、抜いては挿しを繰り返すことを一瞬とはいえ夢想した。甘い淫らな喜悦の声を聞きたいと、思っていなかったといえば、嘘になる。
「…………! 」
 你の意思に気がついた八戒が、躰を強張らせ逃れようともがいた。
「……もう遅いよ。大丈夫、院長センセには内緒にしてあげるよ」
 你が淫靡に囁いたときだった。
「俺に何を内緒にするって? 」
 背後から声がした。
 氷のような冷たい声だった。
「……院長! 」
 你が驚いて振り向こうとするよりも早く。
 三蔵がその顔を殴りつけた。



「ハルシネィション9へ続く」