ハルシネィション(7)

「ここを出よう」
 悟浄にそう言われたとき、八戒は首を横に振った。
「駄目……です」
 三蔵の顔が八戒の脳裏に浮かんだ。彼を裏切ることなんて、とても出来そうに無かった。
「三蔵……に、僕は三蔵に約束したんです……待ってるって……」
 ぼんやりと八戒は言った。何か強い薬でも飲まされているような、どこか頼りない口調だった。
「八戒……? 」
 悟浄の目の前にいる『八戒』は確かに四ヶ月前の八戒とはどこかが違った。
(院長のヤツ……何かしやがったな)
 悟浄は心の中で舌打ちした。汚いやり方だと思った。
「……話は後で聞く。ともかく、今はここから逃げるんだ」
 躊躇ちゅうちょする八戒の腕を取り、その肩を担いで、悟浄は言った。
「早く! 」
 その時、床にのびていた、同僚の看護師が身じろぎした。業者の男はいまだ床に伸びたままだったが、さすが看護師の方は仕事柄、荒事に慣れていた。震える唇で悟浄に告げた。
「ご……悟浄、こんなことしやがって……どうなるか、分かってるんだろうな! 」
「あーら、まだ起きてたの?  ワリィけど、もうちょっとおネンネしててくんねぇ? 」
 床に突っ伏したまま動けない相手に、悟浄は軽やかに言った。
「悟浄! 」
 看護師は倒れたままうなった。ひじでいざって床を芋虫のように壁へと這っている。
 次の瞬間。
 病棟内に警報が響き渡った。
「なに?! 」
 看護師の男が這いずって、廊下の壁にある警報のボタンを押したのだった。甲高いサイレンが空気を切り裂くように容赦なく廊下に響く。
「ちっ……! グダグダやってる暇ァねぇってこった。いくぞ! 八戒」
「ここから、逃げられると思うなよ! 悟浄ッ! 」
 背後から浴びせられるその声には応えず無言で八戒を担ぐと、悟浄は四階の廊下をひた走った。
 エレベーターのドアが開き、サイレンの音に集まってきた看護師達数人が飛びだしてくる。廊下にけたたましく複数の男達の足音が響いた。
「待て! 」
「悟浄、お前ッ」
「待て、どこいく! その患者は……」
 気合一閃。彼らを認めた瞬間、悟浄の紅い瞳が真剣な色を帯び、苛烈に煌めいた。
「わりぃ。勘弁して! 」
 悟浄が八戒を抱えたまま、左右から掴みかかってくる腕を次から次へと払い、鋭い蹴りを放った。
もんどり打って、瞬時に大の男数人が床に突っ伏す。華麗な身のこなしだった。あっけにとられるほど、見事すぎる白兵戦だった。それは芸術の域に達していた。
「悟浄ッ! 」
 遠巻きにしていた看護師たちがそれを見て叫ぶ。歯ぎしりの音が聞こえてきそうな形相だった。
 続けざまに飛び掛ってくる連中を悟浄は片手で殴りつけた。手加減なしの悟浄の拳は相手の肝臓を狙いすましたように打った。
 相手は躰を二つに折って転げ回り、胃液を吐いて悶絶する。見事な肝臓打ちを披露しておいて悟浄は飄々ひょうひょうとしていた。八戒を肩に担いでいながら凄まじい破壊力だ。
「悪いけど、いま俺、手加減する余裕無いのよ」
 そう言いながら、後ろから八戒へ手を伸ばした奴に振り返りもせずに肘鉄ひじてつを食らわす。
 ちょうどそれは狙ったように顔面を打ち抜き、その場で相手は崩れ落ちた。
 華麗な大立ち回りだった。明らかに悟浄は喧嘩慣れしていた。
 しかも、相手は閉鎖病棟でも選りすぐりの、荒事に慣れきった看護師連中だった。もともとが暴れた患者を取り押さえることを日々の生業としているような奴等だ。
 それを芸術的と表現する他ない体術で瞬時に迎撃したのだ。凄まじい腕前だった。
 以前のときとは違い、もう悟浄は引き返すことなどできない。悟浄の覚悟は本物だった。
「行くぞ! 八戒! 」
 悟浄は、八戒を病院の外へと連れ出した。

 悟浄に連れ出された病院の出口から見た空は、ひたすら眩しかった。それは何ヶ月もの間、監禁され続けていた八戒の目を焼くようだった。
 どこまでも続く青い空。重なりあう水の分子の色。青。
「でも僕は……約束したんです。三蔵に」
 八戒は空を見上げながら呟いた。
「待っているって」






 そして。

 それから。

 病院近くにある悟浄のアパートに戻るわけにはいかなかった。とりあえず束の間でも住居が必要だった。
 幾つも離れた町まで、八戒を連れて悟浄は逃げた。
 四畳半と六畳間の築二十年以上経つ安アパートが、とりあえず行き着いた先だった。アパートを借りるときの保証人には、遠くに住んでいる悟浄の兄を拝み倒してなんとかなってもらった。
『三蔵のところに戻らないと』 と糸の切れた人形のように言い続ける八戒を騙し騙しこのアパートに連れて入った。
 夜逃げ同然だった。
 とりあえず、病院の病衣を着替えさせようと、悟浄はパジャマの入ったビニールの袋を八戒の足元に投げた。日に焼けた畳の上へそれは乾いた音を立てて落ちた。咥えタバコで、悟浄が促す。
「ほら」
 八戒はアパートの畳の部屋でじっと座りこんでいた。どこかいまだに夢うつつといったその表情には生気というものがない。
 のろのろと悟浄がよこしたパジャマを手に取った。ビニールの包装をゆっくりした動作で破り、緑のチェック柄のパジャマを出す。
 しかし、出したはいいがそのまま布地を指で擦ってぼうっとしている。まるで心あらずとでもいったような様子だった。
 そんな八戒を見ていられなくなって、悟浄がかわりにそれを着せようとした。
「ほら。コレ、こっちに袖通して……って。オマエ、脱げよ。浴衣着たままは着られねぇよ」
 悟浄がさすが看護師と思わせる、馴れた手つきで八戒の浴衣を脱がした。
 しかし、
 悟浄は八戒の躰を見て思わず、咥えていた煙草を口元から落としそうになった。
 全身に情事の跡がついていた。
 白い肌にところ狭しとばかりに鬱血の跡が散っている。噛まれたような跡もついていた。それもひとつやふたつではない。到るところに喰われるような愛撫の跡がついていた。
 それはつけた人間の執着の激しさを示すような印だった。気をつけてよくみれば手首や足首には縛りつけられた跡のようなものも残っていた。
 八戒は性的な暴行を受け続けていたのだ。
 悟浄は思わず歯ぎしりした。非道な仕業だと思った。それは正義感の強い悟浄にとって許せないことだった。
(院長の野郎……ただじゃおかねぇ)
 悟浄はひそかに心のうちで呟いた。
 ともかく。こうして、奇妙な共同生活は始まったのだった。






 結論から言えば、悟浄は本当に甘かった。
 薬の効果が切れれば、すぐ四ヶ月前の八戒に戻るのではないかと悟浄は高を括っていた。
 しかしそれは甘かった。三日経とうが、一週間経とうが、八戒はそのままだったのだ。ひどい陵辱のあげく洗脳された意識は完全には戻らなかった。三蔵の洗脳は完璧すぎた。
 何日か無為に過ごした後のある日。
 とうとう悟浄はキレはじめた。
「お前、おかしいんだよ! 四ヶ月前はそうじゃなかったぞ、アンタ」
 悟浄は、八戒の両肩に手をかけて揺さぶった。なんとか正気に戻って欲しかった。
 悟浄の言葉に一瞬八戒の目に生気が甦った。肩に掛けられた手を冷たい仕草で振り払う。その口元には妖しく冷たい微笑みを浮かべていた。美しいが、どこか均衡を欠いた表情だった。
「僕、病院に戻ります」
「どうやって戻るんってんだ。あんなトコ戻さねぇよ」
 悟浄はきっぱりと言った。悟浄を支えているのはおおむね正義感だった。三蔵の悪逆非道の振る舞いをこれ以上は許せないと思った。
「三蔵っ……さんぞ! 」
 それなのに、八戒は自分に非道の限りを尽くした男のことを、まるで恋人でも呼ぶかのような切なげな声で呼んだ。事態は最悪だった。悟浄は頭を抱えた。




 そんな日の夜だった。
 夜も眠れないらしく八戒が身じろぎする音が絶えず聞こえてくる。
 別々の部屋で就寝していた悟浄だが、壁の薄い隣の部屋から呻き声まで聞こえるに到って、隣りの部屋のふすまを思わず開けた。
「八戒? 」
 悟浄が覗くと、既に鬼気迫る事態となっていた。
 蒲団の上に座って、八戒は自分の手を噛んでいた。血が滲むほど歯を立てている。
「……馬鹿! 何やってんだ! 」
「さんぞ……? 」
 焦点のあってない目で八戒は悟浄を見つめた。
「僕……僕が悪い子だったから……」
 八戒はうわごとのようなことを相変わらず呟き続けている。
「僕が……悪い子で……待っててあげなかったから……こんなに苦しいの? 」
 当然のことだが、三蔵の元を離れてから、八戒は睡眠薬の類を投与されていない。
 睡眠薬を絶たれて自覚する、まず第一の症状は、以前より不眠がひどくなっていることだ。最近の八戒には自然な眠りなど望むべくもなかった。確かにそれは辛いことだろう。
 悟浄は無言でその手を口から外させ、戦慄して噛み跡を見つめた。歯型が皮膚を食い破って血が滲んでいる。普通、自分の手を咥えるときは人間無意識に加減をするものだ。だが、八戒にはそれが全くなかった。ひどい自傷行為だが、こうしないと禁断症状に耐えられないのだろう。
 もう、どこかが狂ってしまってガタがきているとしか思えない。
 凄まじい退薬症状に八戒は襲われていた。

 廃人。

 不吉な言葉が悟浄の脳裏をよぎった。

 この手の中毒の特徴である振戦しんせん症状も全身に出ていた。要するに躰の震えが止まらないのだ。どうしようもなく震える手で、自分の躰を抱きしめながら八戒は言った。
「僕は三蔵のところに帰らないと」
 壊れた機械のように八戒は同じ言葉を繰り返した。
「お願いです。僕を三蔵のところに帰して」
 がたがたと手が、指が震える。そんな廃人一歩手前の様相で八戒は悟浄に縋った。
「僕は……」
 八戒はふらふらと立ち上がった。病院にでも帰ろうとでもいうのだろうか、いや本人はそのつもりだろう。八戒の動きは、いびつで直線的だった。まるで機械のように不自然な動きだった。薬物中毒に固有の、パーキンソン症状と呼ばれる一時的な神経の異常症状のせいで、ひきつったような動きしかできないのだ。
「三蔵がいないと生きていけない」
 八戒はそういうと、そのまま意識を失った。悟浄は思わず駆け寄ってその躰を支えたが、どうしたらよいものか、途方に暮れた。
 悟浄は常識人だった。正義漢で普通の男だった。そんな彼からしてみれば、八戒の身の上に起こっている一切は異常すぎた。





 水晶宮が雷撃にうような音を立てて、壊される僕の自意識。真昼の夢、幻覚製造器のような腐った脳髄からイドが垂れ落ちて消える。人生を美しくするような思想など、持ち合わせていない、それは確かに僕に下された罰に違いない。薬物による副作用でやたらと喉が渇く。ふるえる手で書く字はすべて古代の線形文字に似ている。忘れたい人、忘れたい夢、忘れたい将来。絶望を消す薬の名前を教えて。明滅するハルシネィション。副作用で抜け落ちる記憶、リアルが薄れ消えてゆく現実。今日が何日なんて、もう分からないし必要ない。パージェス頁岩けつがんから発掘された古生代カンブリア期のハルキゲニアが笑う。あかつきの湖面を飛ぶ、晴れやかなハルシオンバード――――かわせみのさえずりが耳にうるさい。眠剤ハルシオンの見せる明け方の悪夢。忘れようとしても思い出せない過去。アナグラムと回文。不都合な真実と幻灯のような現実。全てはハルシネィション――――まぼろしのように。




 八戒が、ようやく落ち着いたのは、もう夜が明ける頃だった。




 実際の話。
 悟浄と八戒の毎日は地獄に近かった。
 バルビツール酢酸系の睡眠薬は中毒になりやすい。中毒性のものを急に断つと、禁断症状が出る。八戒はこの手の成分が大量に入った薬を毎日三蔵に使われて飼い殺しにされ続けていたのだった。自白剤として使用されることもある、記憶も飛ぶ強い薬である。
 それが、急になくなったのだから悲惨のひとことだった。

 身体依存に精神依存――――薬物依存とよばれる症状に、八戒は苦しんでいたのだ。

 依存症、中毒の肝要な点は、その依存しているものが快楽をもたらすからなどの、はっきりした理由があるうちはまだ可愛いものだということだろう。
 そのうち恐ろしいことに、それなしでは日常生活すら送れなくなってくる。
 要するに、その依存対象があることが、普通の状態になってしまうのだ。

 手段が、目的にすりかわってくる。

 薬なしでは生きていけない。薬がないと日常生活に差し障る。薬があって初めてまともに動ける。薬抜きで生きていた頃のことなど忘れてしまい、――――もう思い出せない。
 それが薬物依存の実態であり、中毒というものの本質である。これが、厚生省のいう『ダメ、絶対』の実情だった。





 一方。
 病院に戻った三蔵を待っていたものは、主のいない保護室だった。
 院長は激昂げっこうした。その怒りは激しかった。あたりを焼き尽くすようだった。
「てめぇら。草の根分けても探せ。ボケが。不始末起こしやがって殺すぞ」
 三蔵は凄まじい勢いで周囲へ怒鳴り散らした。病棟の暗い廊下に怒号は反響した。
「院長、警察にも連絡しますか」
「いや、まだその必要はない」
 それは最終手段だった。
「系列病院全てに連絡しろ。おい、ここら辺全部の病院にも訊いてまわってこい」
「は! 」
「早くしろ! バカが。行け! 」
 三蔵は怒鳴った。
「ったく……見つからなかったら、てめぇら全員クビだ。覚悟しとけ」
 可哀想なくらい、病棟主任や病棟医たちは頭を下げていた。土下座しかねない勢いだった。白衣の裾をひるがえして三蔵はその場から立ち去ろうとした。
 しかし、その前に、鉄格子ごしの保護室を未練ありげに見つめた。今は空虚なその部屋のなかに、かつてはいた妖麗な主の残像を探し求めるかのような、どこか切なげな目つきだった。
 そんな、自分の思いを振り切るように、首を横へ振ると、三蔵は呟いた。
「ま、しかし」
 口元に不吉な月のような笑みが浮かんだ。
「ほっといたって、アイツはどっかの病院に行くだろうからな」
 三蔵は薄く笑った。
「行くしかねぇ。だってアイツは『そういう躰』だからな。俺から離れるからだ。……ったくバカが」
 三蔵は謎めいた言葉を呟くと、病棟医たちの前から白衣を翻して消えた。華麗な死神を思わせる立ち居振る舞いだった。
 三蔵の足音が聞こえなくなると、その場に残された医師たちの間から、息継ぎをするかのようなため息が一斉に漏れた。
 なんとしても、八戒を探し出さなければ、彼らの未来はなかった。






「僕は三蔵のところに戻らないと」
 八戒はずっと糸の切れた人形みたいに同じ言葉を呟いていた。それは悟浄からすれば 「狂ったこと」 だった。
 三蔵の投薬は、実に巧妙だった。薬というものは、どんなものでも飲み続ければ耐性ができる。要するに躰が薬に慣れてしまうのだ。慣れてしまえば効かなくなる。効かなければ効かせるために量を増やす。
 そうやってどんどんと中毒の域にまで薬を飲む量が増えてしまう。耐性が体内で形成されてしまうのだ。毒を少量ずつ飲んでいると、不思議なことに致死量を飲んでも死ななかったりするのはこのためだ。麻酔を打つのが常態になると、麻酔が効かなくなったりもするが、それもこのためである。
 しかも、そうやって薬の量を増やし続けていると、やがて地獄のような破綻を迎えてしまう。薬物依存の地獄が口を開けて待っているのだ。
 その点、三蔵はさすがに医者だった。全てを考慮して薬を与えていた。八戒の様子を注意深く観察していて、耐性が形成されそうになると別系統の薬に素早く代えるのだ。
 それは職人芸に近い匙加減だった。中毒になりかかっていた薬を少しずつ減らしてゆくのも忘れない。
 この手の薬を急に断つとショックが大きいのを、流石に三蔵は知り尽くしていた。何か別のもので代替してゆくのだ。

 しかし、そんなことは三蔵以外、知るよしもなかった。






 八戒が憔悴して隣の部屋で休んでいる隙に悟浄は自分の荷物を取り出した。ごそごそとカバンの奥をまさぐり、本を取り出す。前のアパートから持ち出していた看護の教科書だった。何ページかをぱらぱらとめくって覗き込んだ。
 ほとぼりが冷めたらまた看護師として勤め先を見つけようと思っていた。役に立つこともあるだろうと荷物の中に突っ込んでおいたのだ。
「えーと、リダツ、薬物の離脱症状、離脱……離脱ッと」
 一応、看護師である悟浄には、八戒の症状がなんであるのかは、おおよそだったが、察しがついていた。
「離脱症状を避けるには……少しずつ薬の量を減らしてゆくしかない。依存物質を突然絶つことは、かなりハイリスクである……か」
 本にはそう書いてあった。

 ということは、どこからか薬を手に入れてきて、少しずつ減らしていけば、八戒の苦しみも少しは軽くなるのではないか。悟浄は考え込んだ。
 今のままの八戒を放っておくことなどとてもできない。なんとか、八戒を救いたかった。
 悟浄は決心した。






 そういう訳で。
 次の日の午前中。
「あのう」
 とある心療内科医院を悟浄は訪れていた。受付係りも驚いただろう。何しろ能天気……いや、極めて陽性の「いい男」がおよそ似つかわしくない場所にのうのうと現れたのだから。
 心気症の類になど、一切罹ったことなどないに決まっている明るい声だった。ひと目でこの医院の患者として失格という様子だった。
「その、家のモンが眠れなくて困ってるから、……薬とか欲しいんだけど」
 実に怪しい申し出だった。悟浄の紅い髪を一瞥するなり、受付の係は警戒した。睡眠薬を使ってよからぬことでも企んでいる若い連中の一人かもしれないと思われてしまったのだ。
「市販薬とかでどうにかならなかったんですか? ご本人を連れて出直していただけませんか」
 受付の女性の対応はけんもほろろだった。
 とはいえ、悟浄は八戒を連れてくる気にはならなかった。三蔵の目がどこに光っているか分からないし、第一なんとなく嫌だった。他の人間の目に八戒を触れさせたくなかった。
「いや、そこをなんとかならない? 」
「困ります」
 押し問答をしている時に、診療室のドアが開いた。中から男が出てきた。トイレにでも立ったのだろうか。白衣の類は着ていない。どこかぬぼっとした冴えないシャツ姿だ。
「あ、先生……実はこの方が」
 受付の女性が 『先生』 に話し掛けようとするのを遮るようにして悟浄が言った。
「先生? ちょうどよかった。お願いします! 」
 悟浄は慌てて口を挟んだ。
 街の『メンタルクリニック』の開業医のなかには、患者に威圧感を与えないために、わざと白衣を着ない医者も数多くいる。
 何故自分がここへきたのかを、肝心の部分はもちろんぼかして必死で説明した。ここで医者に逃げられたら終わりだと思った。医者は悟浄のいう言葉を暫く黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「……そうですか、ご事情は分かりました」
 思慮深げな声だった。穏やかそうな笑みを浮かべて医者は続けた。
「いちどそのご本人にはカウンセリングにでも来て頂くことにして、今日はあなたがご心労ということにして、何か眠れる薬でもお渡ししましょう」
 さすが餅は餅屋だった。医者の対応は当意即妙だった。体面上、悟浄に薬を出すことにするから、それを家人に流用したらどうかと暗に勧めているのだ。出るところに出れば薬事法違反だが、世の中、そうそう法律どおりに割り切れない。グレーなことは幾らでもある。
「では、申し訳ありませんが、他にも患者さんが居られますから、順番待ちをして頂けますか? 」
 待合室には人が鮨詰めの状態で、相当順番待ちをしないといけない様子であった。生気のない顔が並んだソファを悟浄は振り返った。赤い髪の男前はいかにもその場にそぐわなかった。明らかに浮いていた。
「保険証をお預かりします」
 悟浄はその言葉にやっと従った。


 一見、
 全ては何事もなく、上手くいくかのように思われた。


 問題は、その後だった。

 医者は悟浄と話した後、診察室に戻った。次の患者を待たせたまま、雑多なカルテが載ったままの机の上へと手を伸ばす。ファックス機能もついているちょっと大きめの黒い電話を、そわそわした仕草で引き寄せた。
 辺りをそっと伺うように目を走らせ、もう一方の手を机の引き出しへと伸ばし、分厚い名刺入れのファイルを取り出した。薬品メーカー営業や、医療機器メーカー営業担当者などの名刺がファイルされているものを邪魔そうに押しのけ、奥から大切そうに黒い表紙の一冊を取り出した。
 それは、錚々そうそうたる大病院や大学病院に勤務する医者仲間の名刺がファイリングされているものだった。
 町医者はしばらくの間、ファイルをめくっていたが、やがてそのうちの一枚へと手を伸ばした。
 その名刺には、三蔵の名前と病院名が記載されていた。町医者は迷わず名刺にある電話番号へとかけた。果たして電話は繋がった。
「U病院さんですか……ええ、ええ私、いつも学会でそちらの三蔵……院長先生のお世話になっているものでして……ええ、今度是非」
 町医者は実に愛想のいい声で受話器に向かって喋った。微妙にへりくだった声だ。
「……実は院長先生の探してらっしゃる患者の居所が分かりそうなんです。是非お耳に入れておきたいと思いまして……」
 悟浄の紅い髪は目立ちすぎた。
 町医者は運の悪いことに三蔵と学会で懇意こんいだったのだ。
 八戒を探して血眼になり、あらゆる手を尽くしている三蔵が、この町に居る自分の息のかかった医者連中に八戒を探していることや、悟浄の特徴を告げていないわけがなかった。
 縦のつながりの強いこの業界では、高名な三蔵に恩を売っておけば後々何かと得だった。町医者は、看護婦を招きよせて、受付で悟浄が記入した用紙の住所欄を電話口でとうとうと読み上げた。
 もし、悟浄が偽の住所を記入していたとしても、無駄だったかもしれない。何しろ、この病院に通える範囲に住んでいるということは、もう明々白々だったからだ。






 それから数日後。
 ふたりの隠れ住むアパートに銀色の高級車が慌ただしく停まったのは、悟浄が町医者の元を訪れてからそう日の経っていない、とある午後のことだった。
 八戒はそのとき、アパートの部屋でぼんやりとしていた。
 悟浄は短期間のバイトにでており、ひとりだった。町医者の処方した薬が、少しは効いたと見えて、振戦しんせんも少しは軽快し、八戒はおとなしくしていた。
「俺は夜には戻るからな。勝手に外とか行くなよ」
 悟浄にはそう言われていた。

 穏やかな午後の日差しの中で、目を細めて窓の外をぼんやりと眺めていると、ドアが激しい調子で叩かれた。普通の人ならば、何か反応するだろうが、今の八戒は違った。ただただ、ぼんやりとしている。無反応のまま、ドアをただただ、眺めていた。
 そのうち、業を煮やしたように、金属音とともに鍵穴が回転し、ドアが開いた。合鍵でも使ったのだろう。アパートの大家らしい年配の男と、スーツを着た金糸の髪の男が玄関へと入ってくる。
 大家がへりくだった様子で金の髪の男を先に通した。それが、さも当然だとでも言わんばかりの、押し出しの強い様子で男は部屋の中へと入ってきた。他人の家に勝手に入ってきたというのに、その態度には悪びれたところが微塵もない。傲岸不遜といってもいいほどに堂々としていた。
「……こんなところにいやがったのか。随分探したぞ」
 聞き慣れた低い声がした。
 目の前には、白皙の大天使にも似た男――――三蔵が立っていた。
 いつもの白衣姿とはちがったが、細身のスーツを颯爽と着た姿も水際立って華麗だった。見慣れた紫暗の瞳が、真っ直ぐに八戒に向けられている。
 八戒の足元から現実の全てが崩れ去った。世界は、目の前で妖しく揺らぎ、その様相を変えた。三蔵がいる。それが八戒にとって現実の全てととって代わったのだった。
「さんぞ……!」
 八戒は思わず三蔵に手を伸ばした。救いを求めるかのような幼子のような仕草だった。顔が無邪気な喜びに輝く。白い花に似た微笑みが満面に広がった。
 確かに八戒は薬の中毒症状にも苦しんでいたが、どちらかといえば、三蔵という存在に完全に依存してしまっていたのだ。
 しかし、
 三蔵の態度は以前とは違った。伸ばされた八戒の手をもの凄い力でつかんだ。折れるほどに力を込める。その激しさに、八戒が痛そうに眉を顰め、小さく悲鳴を上げた。
「俺から逃げやがったな。てめぇ、躾しなおしてやるぞ」
 ぞっとするような冷たい声音で院長は言った。



「ハルシネィション8へ続く」