ハルシネィション(6)

 え……ご面会ですか……? 
 いや、面会は面会室でしていただかないと困るみたいですよ。ええ。
……特に、こっちの病棟は。
 そりゃ、勝手に入っちゃまずいでしょう。
 しかも、何ですって。あなた……四階の……403号室の患者さんに御用ですって……? 
 あそこに……誰がいるか……あなた……ご存知なんですか……?
……それなら、まぁいいや……じゃあ私もお話しましょう。
 ええ、私も驚きましたよ。いや何、私は新しい蒲団を運ばせて頂いただけの業者なんですけどね……。
 見たんですよ……私、あそこで。何をって……いや、なんでしょうね。上手く言えないんですけどね。いやほんと、まるで白昼夢みたいな話で。
 403号室の前まで来てびっくりしましたね……鉄の格子越しに今まで見たことの無いくらい綺麗な若い男の人がいたんですから。
 そう、黒い艶のある短い髪に、深い緑色の瞳が印象的な人なんだけど……。
 なんていうのかな。はっきり言ってありゃあ、綺麗な鬼ですよね。
 人間じゃない、人間じゃないですよ。あそこまで綺麗がいっちゃうと人間じゃない。
 え? いやだから、そんな感じなんですよ、あなたもご覧になれば分かりますって。
 長い手足を格子に絡めてその人、外を眺めているんですけど……まるで誰か待ってるみたいでしたね。
 ホラ、花魁とか女郎とかっているでしょう? 昔の。そうそう、あれと同じ感じで……こう、客を引くみたいに……妖しいっていうか、いやそりゃ、確かにその人は男なんですけどね……本当に、非現実的な感じなんですよ。
 みりゃ分かりますよ……なんていうのかな、殺風景な病室とかも、その人の美しさを際立たせるために、わざとしてる演出なんじゃないかって、思ってしまうくらいなんですから。
 ぞっとしましたね。いやぁ、美人みてぞっとするなんて経験、初めてでしたよ。
……そうそう。こんな話、ありませんでしたっけ、若い男の気を引いちゃって、嫉妬深い旦那の逆鱗に触れて座敷牢に閉じ込められちゃう奥さんの話。
 実は単に若い男が勝手に奥さんに、のぼせあがってるだけなんだけど……それで、最後は奥さんの気が触れちゃうって話
……そんなもの連想しちゃうくらい、その患者さん綺麗な人でしたねぇ。
 え? 想像力が逞しいねぇって? 
 いやぁ、そのとき運んでた蒲団が、失礼ですけど病院の保護室なんかで普通使うかなって思うくらい上等の品だったもんで、つい……ねぇ。
 そうそう、新しくするんですって、その患者さん専用に。不思議な話でしょ?
 いや、言わないで下さいよ。私のことは。この話は私とあなただけの秘密ってことにしておいて下さいね……。
 で、あの患者さん……いったい……誰なんですか……。





「今日は、仕事が終わるの遅かったんですね」
 三蔵の肩に頭を預けながら、八戒は言った。八戒は簡易な、入院患者用の浴衣を着ている。
「待たせたか」
 三蔵は八戒の躰を引き寄せた。しなやかな痩躯が腕のなかで甘えたようにすり寄ってくる。
「可哀想なことをしたな、明日はもっと早くこよう」
「いいんです。僕、おとなしく待ってますから」
 八戒が儚げに微笑む、どこか憂いを帯びた、ふるいつきたくなるような表情だった。
 かつての激しい抵抗も、反抗的な目の光も今はどこにも無い。
「脱げ、時間がもったいない」
 直接的な三蔵の言葉に、黙って八戒は自分から寝間着の帯を解きだした。はらりと浴衣が足元に落ちる。
「あ……! 」
 のろのろするなとでもいうように、せっかちな三蔵の腕が伸び、八戒は瞬く間に男の躰の下に敷き込まれた。
「さんぞ……」
三蔵は八戒の顎をそのまま捉え、その冷たく整った唇を寄せると、吐息さえも奪うようなくちづけをした。
この二人にとっては、もうどんな夜も短くてしようがなかった。



 まろやかな八戒の尻を抱えながら、三蔵が背後から突き上げた。
 肉が肉を打つ淫らな音が部屋中に満ちる。八戒はまるで、獣のように四つん這いにさせられていた。
「だから、この間教えたように俺が挿れた時に締めろ」
「あ……っ! できな……」
 三蔵は黙って八戒の尻に平手を放った。鋭い音が響く。
「ああっ……! 」
 打たれた拍子に甘美で倒錯的な快感が走り抜けた。脳細胞が死滅して蕩ける快楽にも似た、自意識を蕩かして無にされるような嗜虐的な快感だった。
 どんなに自分が、淫らなのか思い知らされるような行為。誇りも、自意識も、理性も、何もかも三蔵によって剥ぎ取られ、そして八戒にはもうどこにも逃げ場がなかった。
「……打たれるのが、好きなんだろう。淫乱が」
「ちがっ……ちが…う」
 一度、自意識も何もかも剥ぎ取られたセックスの快感を知ってしまった八戒は、自然により被虐的な情交を望むようになっていた。
「打たれるのが……じゃな…くて」
 八戒は陶然とした表情で、三蔵に躰を後ろから揺さぶられながら言った。
「さんぞ……だから……」
 その、まるで麻薬のように甘い言葉を聞いたときに、三蔵は躰の芯から何か熱いものが湧き上がってくるような気がした。
 爪の先まで眩暈(めまい)がしそうな陶然とした気分に支配される。多幸感とでも表現するべき、そんな気持ちになったのは初めてのことだった。
 後背位で八戒を抱いていたのが、悔やまれた。どんな表情で、そんな言葉を言ったのか、見たくてたまらなくなった。
「クソ……! 」
 三蔵は八戒の躰を引きつけると、貫いたまま、八戒の躰を裏返した。
 肉筒を軸にして三蔵のペニスが躰の中で回る感覚に八戒がのたうつ。片足を三蔵の腕で抱え上げられ、その胸にぴったりと引き寄せられた。
 奥の奥まで三蔵で埋められ、八戒は躰を海老のように反らせた。がくがくと躰が震える。今にも達してしまいそうだった。
 三蔵はそんな八戒の内部の淫らな蠢きに息を詰めるようにして耐えると、浅く深く抜き挿しした。
「もう一度、言え」
 三蔵がきつく八戒を責めたてながら、その口内を貪る。微かに煙草の残り香のする三蔵の舌を八戒は受け入れていた。
 甘美な肉塊をお互いに絡み合わせて、上も下も繋がり合っていると、そのまま二人で一緒に蕩けてしまうような心地がする。
 混ざり合って、躰の境目も輪郭も何もかも失ってしまうような、こうやって繋がりあっているのが、元々の姿だったような、そんな境地に二人で達していた。
「ああっ……! 」
 脳の中を快楽の粒子が煌めきはじめ、八戒はもう、呂律も回らない。
「さんぞ! ……さんぞ! も……」
 快楽が極まって痙攣し出した八戒を三蔵は許さないとばかりに、突き上げた。
「もう一度言え」
 無理な注文だった。既にもう八戒の口からは人と呼ぶのも憚られるような、意味をなさない甘い喘ぎ声しか出てこなかった。
 とろとろと口の端から、飲み込みきれぬ唾液を垂れ流して、焦点の合わなくなった翡翠色の瞳で三蔵をすがるように見あげている。
「くふっ……」
「いやらしい躰になったな、そうやって動かす方が好きなのか? イイトコロにそうやってると俺のが当たるんだろが」
 八戒は気がつくと、三蔵が抜き挿しする向きではなく、ちょうど横に向かって自分の腰を振りだしていた。
 三蔵が縦に動くときに、横に動くと、八戒を狂わせる一点に上手く三蔵のカリが引っかかるのだ。何度も犯されているうちに、そんなことを勝手に躰が覚えてしまった。
「あっ……あっ……」
 八戒が唇を噛み締めた。足が突っ張るような動きをして爪先まで反った。足の親指を足裏へ折りこむように曲げて、三蔵の与えてくる快感に耐えた。
 腰奥が熱く悶えて燃えるようだった。何もしていないのに、胸の飾りが尖って震えてしまう。
 三蔵はそれを潰すように捏ねまわすと、舌先で嬲った。溶かしてしまおうとするかのように舐める。
「……!! 」
八 戒の躰が、びくびくと三蔵の下で跳ねた。狂ってしまいそうだった。
「さんぞ……さんぞ、も……っ僕……イク……ッ」
 三蔵の広い背中に腕を回して縋りついた。何かにしがみついていないと、底の無い快楽の淵に落ちて戻れなくなりそうだった。
「いきたいなら、イッていい。何度でも出せ……腰が立たなくなるくらい抱いてやる」
「さ……ぞッ……あ……!あッ…… 」
 八戒が、甘い悲鳴のような声を放って逐情する。達する瞬間、八戒の手は反射的に何か捉まるものを求めるように三蔵にしがみつき、その背に爪を立てた。
 八戒の放った精液は自らの胸元近くまで飛び散って白く汚した。当然それは三蔵にも降りかかったが、唇を掠めたその淫らな液体を、三蔵は舌を伸ばして舐め取った。
 三蔵は達した直後の八戒の姿を舐めるように眺めた。三蔵の躰の下で、息も絶え絶えになりながら、躰を開かされ、奥に硬い男のものを咥えさせられ、感じすぎて目を潤ませているその姿に、改めて欲情した。
「あ……! 」
 達したばかりで敏感な八戒のペニスを、三蔵は手に取ると尖端の輪郭を指でなぞり上げた。少し残っていたらしい残渣がぷつりと、白い玉のように浮かんでくる。それを先端にわざと塗り込めるようにして弄んだ。
「ひ……! 」
 ただでさえ、達したばかりで力の抜けた敏感な躰を、突っ込まれたまま、前も弄られて八戒が戦慄いた。
「いや……それ……許して…… 」
 八戒が狂おしく三蔵の腕を逃れようと逃げを打つが、敷布に縫い付けるように貫かれたままではどうしようもなかった。
「止めるか? 」
三蔵が突然動きを止めた。そのまま、八戒を上から眺めた。
 三蔵が動きを止めると、よりいっそう三蔵を咥えたまま、びくびくと痙攣している恥知らずな自分の後孔の存在を意識してしまい、八戒が羞恥に目元を染めた。
 もう、何もかもさらけ出させられて逃げ場が無かった。八戒は忘我の淵で三蔵をねだった。
「欲しい……さんぞ、さんぞが……」
「八戒…… 」
 熱い、熱い三蔵の熱が八戒の内部に放出される。
 そのうちの一部は粘膜から、吸収されて八戒の血に肉へと溶け込むだろう。そして、何もかも三蔵と一緒になるのだ。
 三蔵の熱い精液を肉筒の奥に注ぎ込まれると、躰の底の底から、男に淫らに犯され尽くされたような、被虐的な満足感に襲われ八戒はそれに酔った。
 初めて自発的に八戒から求められて、三蔵はその夜、我を忘れた。檻の中の獣はいまや二匹に増えていた。





「…………」
 朝、三蔵は保護室で目を覚ました。八戒を抱いて、そのまま二人で眠ってしまったらしい。
 普通、夜の場合、三蔵は八戒を抱いた後、まるで用はそれだけ、吐精してしまえばお前など関係ないとばかりの冷然とした態度で、八戒のいる保護室を後にしていた。
 それが、昨日は明け方まで八戒を抱いてそのまま寝てしまったのだ。
 その場に適当に脱ぎ捨ててあった白衣も、服も皺が寄っている。白衣はまだナイロン素材だから良いものの、服はどうしようもなかった。
 これから住居に戻る時間は三蔵にはない。白衣を羽織り続けて今日一日誤魔化し続けるしかないだろう。
 白衣を手元に引き寄せると手に硬い金属製のものが触れた。この保護室の鍵だった。
 そんなものが入っていた服を、八戒の寝ている傍に置いて眠りこけていたなんて、三蔵にしては珍しい失態だった。
「ん……」
 傍らの八戒が身じろぎをした。三蔵は思わず手元の鍵を隠した。
「おはようございます……三蔵? 」
 朝、まだ三蔵がいることを訝しがりながらも、八戒は目を覚まして三蔵に声をかけた。
「まだ、いてくれたんですね。三蔵」
 白い花が開くような笑顔で八戒は笑った。早朝の殺風景極まる保護室に不似合いな甘い空気が漂った。
「ああ。しかし、もう行く。仕事だ」
「そうですか」
 少し残念そうな顔で八戒は俯いた。三蔵が訪れなければ、この保護室には会話をする人もいない。
「また、仕事が終わればすぐ来る。それまで、おとなしくしてろ」
 三蔵はわざとぶっきらぼうに横を向いた。落ち着かなかった。
 昨日の八戒の痴態と言葉を思い出した。まるで恋人同士の情交のような甘い夜だったのだ。まるで照れ隠しのように三蔵は言った。
「そこの蒲団、もう古いから新しいのにしてやる。いいな」
 それでもう会話は終わりだというように、三蔵は逃げるように立ち上がろうとした。
「三蔵」
 八戒がその背に言葉を掛ける。
「……待ってます」
 途端に息が止まるほど、濃密な甘い空気が二人の間に漂った。八戒が目元を染めて俯く。
「そうか」
 三蔵は、さも冷淡そうに答えると、保護室のドアを閉めた。
 しかし、勤務のために院長室へと向けた足は、いつもよりひどく軽やかで弾んでいた。





 八戒は毎日、三蔵の勤務時間が終わるのを待つようになった。
 三蔵の時間が空くのは夜とは限らなかった。割と不規則だった。それでも八戒は辛抱強く待った。
 洗脳されてしまった八戒にとって、三蔵は世界の全てになっていた。廊下で物音がすれば、三蔵なのではないかと鉄格子越しに廊下の方を覗いてしまう。
 そして三蔵ではないと分かると、八戒は意気消沈して部屋の隅へと戻った。
 最近はそんな毎日だった。






 とある夜。
「学会で松山へ行かなきゃならん。暫く独りでいられるな」
 三蔵が八戒の頬を両手で包むようにして言い聞かせている。
「……いやです。淋しい」
自意識をすっかり壊されてしまった八戒はやたらと素直だった。そんな八戒を望んでいた筈なのに、いざそうなってみると、三蔵はどうしたらよいか分からなくなった。
 長年、不幸が当然な毎日を過ごしてきた人に突然幸福が訪れると、最初はこんなふうなのかもしれない。
 三蔵は戸惑っていた。しかし、それは蕩けるような甘い困惑だった。
「たった独りなんて……いやです。いかないで」
 八戒は子供のように聞き分けがなかった。しなやかな痩躯を三蔵に絡め合わせるようにして縋った。艶めかしく浴衣の裾が割れる。
「二泊で済む、直ぐ戻るからいい子にしていろ」
 八戒は三蔵の言葉に答えず、まるで妖艶な猫のように三蔵の傍へよると、その白衣の前を寛げるようにして身をすり寄せた。
 そして、頭をそのまま三蔵の下肢へと埋め、ジッパーをその唇で引き降ろそうとする。濃厚なおねだりだった。
「ん……」
 上手く降ろせなくて、何度かそこへ頬を摺り寄せた。
 眩暈のするような可愛らしくも艶めかしい八戒の仕草に煽られて、三蔵の熱が抑えようもなくその一点へと集中してくる。
「クソ……」
 痛いほど突っ張るようになった前を三蔵が寛げると、途端に張り詰めた肉塊が八戒の顔を弾くようにして飛び出した。
 それを見た八戒の顔といったら、見ている方が恥ずかしくなるくらい嬉しそうな表情だった。舌なめずりせんばかりだった。
 もう、そんな淫蕩さを八戒は隠しもしない。そんな風に三蔵が閨で育て上げてしまったのだ。
「はむ……っ」
 飛び出た肉塊をすかさず八戒が口に含んだ。見る人が見れば、八戒に対する調教が、如何に容赦のないものだったのか、その所作だけで分かったかもしれない。最初から奥へ奥へと躊躇いも無く深く咥え込んだ。
 喉の奥まで三蔵のでいっぱいにすると八戒はそれを口腔で絞り上げるようにして愛撫する。口に含みきれなかった根元に手を沿えてそれも合わせるように扱き上げた。
「……旨そうに喰いやがって。そんなに旨いのか、俺のが」
 熱い八戒の粘膜に包まれて、三蔵が苦しげに眉を顰めて、その甘美な感覚に耐える。
「はぐ……おいし……です、さんぞ……の」
 三蔵の肉塊を咥えているだけで、躰の芯に淫靡な快楽が滲むように湧き起こってくる。舌を絡めて頬張っているうちに、飲み込みきれない八戒の唾液が三蔵の幹を伝い落ち、敷布を汚してゆく。
 そのうち、喉の奥の方にやや塩気のある先走りの粘液を感じるようになった。とろみのあるそれが喉を伝いだす。少し苦しくなった八戒が、舌を裏筋に絡めるようにしてストロークを弱め、三蔵のカリに唇を引っ掛けるように扱いた。弾力のあるそれに走る血管の感触までもが愛しくてたまらない。
 しかし、
「かは……」
 八戒は突然、髪をわしづかみにされて、引き剥がされた。唇を半開きにして、口端から自分の唾液とも三蔵の体液ともつかぬ淫らな液体を滴らせている。
「や……」
 途中で行為を中断させられて、八戒が恨めしそうな視線を三蔵に投げた。
「そんなにしたら、イッちまうだろうが」
「や……さんぞの……欲しい……です」
 精飲したかったというのだろうか。完全に性に陶酔した、蕩けきった表情で八戒は三蔵を見つめた。舌で唇から垂れた体液を舐め取る仕草や表情が凄艶で目の毒だ。
「俺はお前の中でイキたいんだよ、こっちに尻向けろ」
「や……! 」
 まだ、どこかで聞き分けのない八戒を、叱るように押さえつける。後の孔にその長い指を差し入れ、広げるように弄くりだした。八戒の口から抑えようの無い嬌声が上がる。
「俺が留守の間、自分でスルなよ。我慢しろ」
 勝手なことを三蔵は言った。
「ふ……」
「そのかわり、我慢できたら、俺の濃いのを飲ませてやる」
「さんぞ……」
 淫らな甘い縛鎖(ばくさ)のような言葉を囁かれて、八戒が身悶えた。しかし、抵抗などできない。
「……分かりました。いい子に……しています」
 まるで神前で誓う厳粛な言葉のように八戒は言った。三蔵はその顎を大切そうに捉えると、そっと壊れ物に触れるようにくちづけた。
 そしてそのままその甘い躰を穿つ。途端に蕩けるような喘ぎが八戒から上がった。激しく腰を打ち付ける三蔵の動きに合わせるように、喘ぎ声が切れ切れに漏れる。柔らかく蕩けた八戒の熟れた躰を三蔵は心ゆくまで堪能した。
 甘い夜は果てもなく続き、密やかにひたすら深まっていった。






 そして次の日。
 三蔵が学会へと出張してしまってから、八戒のいる保護室を訪れるものは全くいなくなった。
 いや、全くというのは、言い過ぎかもしれない。三度の食事を出す、賄い婦は確実にやってくる。
 しかし、それだけだった。



 八戒は、三蔵が買い与えてくれた本を手にとりながら、ぼんやりとしていた。
 昨日、三蔵は八戒の頭を大切な宝物のように撫でさえした。自分を監禁した男と恋人同士のような状態になっていることに、普通の時の八戒ならば異常だと冷静に判断し、嫌悪するだろうが、既にきれいに洗脳されてしまった今となっては、今更三蔵の行為をどうこう思うことも無い。
 実際、実のところ八戒は、三蔵の希望を無意識に先回りして、叶えているだけだった。自分の生殺与奪権を握る者に好かれたいと思うのは人間の業だ。相手に阿り、人は自らの尊厳や誇りを売り渡す。精神的な売春行為とでもいうべきそれは、全て生き延びるだめに人間に備わった動物的な本能だといえるだろう。
 しかし、八戒はそんな自分の行動や心の変化に全く気がついていない。三蔵の洗脳は完璧だったのだ。
 いまでは、八戒は心の底から三蔵の事を好ましく、愛しいとすら思っている。今となっては、三蔵を何故あのように憎んでいたのか、思い出したくとも思い出せなかった。
 三蔵はいまや八戒にとって世界の全てだった。金髪の白い大天使。冷たいかと思えば、どこか照れたような表情をする綺麗な人。無慈悲なくせに優しく、冷酷なくせに暖かい。そんな相反する魂を持った、どこか孤独な美しい月に似た人。

そんな彼を
八戒は好きになってしまっていたのだった。



 三蔵の訪れない無為な午後を八戒が独り過ごしていたときだった。廊下から靴音がした。人が歩いてくる。
 八戒は思わず、廊下に面した鉄格子に張り付いた。冷たく硬い格子をつかんで、やってくる人影の正体を見極めようと目を凝らした。
 男の足音が二組と、何か大きなものを荷台で運んでくる音がする。
「じゃあ、蒲団はこちらの部屋でよろしいですか」
「ええ、今開けます」
 新しい蒲団を納めに来たらしい業者と案内役の看護士だった。
 そういえば、以前、三蔵が蒲団を新しくしてやると言っていたのを八戒は思い出した。
 八戒の居る403号室で彼等は立ち止まった。久しぶりに八戒が見る三蔵と賄い婦以外の人間だった。看護士が三蔵から預かったらしい鍵を取り出すのが見える。鍵が軽い金属音を立てて冷たく鳴った。
「…………」
 やっぱり、三蔵はまだ帰っていないのだなと八戒がぼんやり考えだしたときだった。
 凄まじい肉と骨を打つ鈍い音が檻の外で響いた。衝撃のあまり、火花が散ったのではないかと感じられたほどだった。目にも留まらぬ速さで、業者と看護士が床に崩れ落ちる。後ろから誰かに殴られたようだ。電光石火の早業だった。
驚きに目を見張る八戒の目の前に、現れたのは
紅い髪の若い看護士だった。
長い艶のある紅い髪が八戒の眼前で、鉄格子越しに揺れる。見覚えのある、精悍な顔立ちの男がそこにいた。
悟浄だった。
「八戒、助けに来た。ここを出よう」



「ハルシネィション7へ続く」