ハルシネィション(5)

 仕事が終わると、三蔵が浮き立った足取りで、何処へともなく消えることが増えた。
 しかし、ポケベルで呼び出すと直ぐにやってくる。どこか病院内にいることは間違いない。
 でも看護士も、医師たちも院長が何処へ行くのかは全く知らないでいた。
 何処へ行っていたのかと訊くと、
「まぁな」
 とだけ返答される。
 しかも、そんなときの三蔵はひどく機嫌がよかった。院長に、何か密やかな愉しみがあるのは、間違いない。ここのところ、声を出して笑うことすら増えたのだ。
 確かに三蔵は院長としては若すぎるほどの年齢だったが、以前は年齢など感じさせなかった。その生来の冷静さと、落ち着きが年齢を感じさせなかったのだ。
 それがいまや、どうだろう。時折、窓の外を見ながら、ぼんやりとしたりしている。
 全く、最近の彼は彼らしくなかった。その様子を見て、三蔵もまた、年相応の若者だったのだということに、今更ながら周囲は気づかされている有様だったのだ。
 

 


 実際、三蔵は上機嫌だった。何しろあれほど求めていた八戒が手に入ったのだから。
今日も三蔵は八戒のいる保護室へ足を向けていた。
 まるで、美しい熱帯魚に餌をやるのを楽しみにするアクアリストのように、稀少な生きた蝶々を大切にするコレクターのように、毎日、三蔵は八戒の元へ通った。
「薬は飲んだのか? 」
 深い緑色の瞳を瞬かせている八戒に三蔵は優しくく。
 三蔵の着ている白衣が眩しい。普通は人の命を救ってしかるべき人間が着る筈の白衣が、いまや死神が着る衣裳のように見えるのは気のせいだろうか。
「飲まんと良くならんぞ」
 治す気など何も無いくせに、楽しそうに三蔵は言った。
 もとより八戒は病人ではない。多少問題といっても軽い不眠症だ。本来入院までする必要すらないのだ。
「ハロペリドール、ベゲタミンにリタリン、サイレース、ウィンタミンにコントミン。何でもあるぞ。眠れないと言っていたな、粉末のバルビタールでもいい。出してやろうか? 」
 向精神薬の名称を口にのぼらせながら、歌うように三蔵は言った。
 しかし、これらの薬を使用するために、三蔵は八戒のカルテには、なんと記入する気なのだろう。カルテには、強い薬を使用するための、胡散臭い病名だけが増えていった。
……精神科医の嘘が見破られることなどあるのだろうか。
 どの道、この保護室に閉じ込められていては他の医者にセカンドオピニオンなど、受けたくともどうにもならなかった。
 事実、八戒が受けているのは監禁だった。それも、逃げ道のない完璧で合法的な監禁だ。人権蹂躙じゅうりんも甚だしかった。法治国家では人は法に守られているという。
 でも、罠に嵌めようという人間がいたらどうなるのだろう。そしてその人間が三蔵のように……医者だったら。
「今は強い薬は止めるぞ。また後で出してやる」
 実を言えば、抱く前に長く効く強い睡眠薬など出してやる気は最初からないのだ。抱いている八戒が寝てしまっては面白くもなんともない。
 三蔵は銀色フィルムに包装された薬を取り出した。
「トリアゾラム(ハルシオン)だ、今日は」
 楕円形の綺麗な青色の錠剤。三蔵は手ずから薬の包装を開け、八戒の舌にそれをのせる。
「飲め。」
 八戒が躊躇ちゅうちょしていると三蔵がそのあごをとらえ、強引に口付けた。
「んんんっ……んっ」
 錠剤ごと、三蔵の舌でむさぼられる。そしてやがて、三蔵の舌で喉の奥の方へ追い落とされた。
 八戒は錠剤を三蔵の唾液とともに嚥下した。
 睡眠薬に苦味のあるものは少ない。今、無理やり飲まされたのは短期作用性の睡眠薬だった。
「ふっ……」
 飲み込みきれず咽(むせ)る八戒の額に口付けて、三蔵が囁く。
「それじゃ、眠くなるまでセンセイと遊ぼうか」
 卑猥な口調で毒のような言葉を耳に注ぎ込まれ、八戒は意識を薄れさせていった。
 病院長である三蔵に一介の患者である八戒が逆らう術などなかった。




 どんなに、今まで八戒は抵抗しただろう。
 泣いても叫んでも無駄だということを理解するのに、ひと月かかった。
 叫べども誰もこない。話す相手もいない。暴れれば、強い薬を無理やり飲まされ動けなくされた。孤独で、しかも何をすることも許されぬ、長い時間だけがじりじりと過ぎていった。
 おまけに、夜中だろうが、昼間だろうが、勤務の空いた時間に、三蔵が飛ぶようにして突然現れる。
 そして、八戒を勝手に貪りたいだけ貪って去ってゆく。実際八戒は最下層の娼婦よりも酷いような扱いを受け続けていた。八戒は三蔵の精液を受け止めるだけの、性欲処理機のような存在にまで堕されていた。
 その上、拘禁されていることによる、ストレス性の不眠が八戒の気力を少しずつ削りとった。
喚き散らして、三蔵に抵抗していたのは、最初のうちだった。
 冷酷に自分を犯して去ってゆくことを日課と心得ているかのようなこの男に、段々と抵抗する気力を奪われていった。
 それでも、八戒の誇りはいまだ完全に無くなってはいなかった。高い崖の上に咲く決して手に入らない白い花のように、八戒は誇り高かった。
 惨めな檻のなかで、未だにその背筋を伸ばすようにして、気丈な目つきで常に三蔵を睨みつけてきたのだった。
まだ、この頃までは。





 「ひっ……う……」
 既に、三蔵の手によって、八戒は一糸もまとわぬ姿にされていた。鉄格子のまった室内に、八戒の喘ぎ声が響く。
「は……」
 薬で自由が利かなくなってゆく重い躰を、八戒は三蔵の好き放題にされていた。
 いっそ薬の作用のままに薄れさせてしまいたい意識を、三蔵が八戒を突き上げるようにして覚醒させる。
「俺がイクまで、寝るんじゃねぇ」
「う……」
 無理やり薬を飲ませておいて、勝手極まる言い草だった。朦朧もうろうとしてくる意識と、三蔵の性器で内部が広げられて突かれる感覚が、いまや八戒の全てだった。
 人としての尊厳を奪われ続けている八戒には、もはや三蔵が一方的に与える惨めな快楽だけが、慰めとなりつつあった。
 もう、人としてのプライドも何もない、虫のような快楽。虫が明るさにつられて炎に群がるような、そんな刹那的で屈辱的な快楽の虜になりつつあった。
……そして、いずれ虫のように炎に焼かれて落ちるのだ。
 この夜も随分と長いこと、三蔵の陵辱行為は続いた。
 ようやく八戒を抱くことをやめ、三蔵は部屋から出て行こうとしていたが、何かを思い出したように立ち止まった。
「俺のことが憎いか」
 三蔵が、八戒の顔も見ずに問う。
「絶対に……許しません」
 薬の作用で朦朧とした意識の中、それでも八戒は気丈にも返した。
 瞬間、三蔵の口元に皮肉な笑みが浮かんで、消えた。苛烈な輝きを放つ紫暗の瞳で、八戒を一瞥いちべつすると、三蔵はその場から去った。

 三蔵が出て行った後、汚れた躰で力なく床に座りこみ、ある有名な詩句を思わず八戒は呟いた。
「……息をつきつつ死者を見つつ行く者よ、いざこの心憂き罰を見よ、かく重きもの他にあるや否や見よ……」



 毎日毎日。
 気の狂いそうな単調な生活が続いた。八戒にはもう、時間の感覚などなかった。
 拘禁こうきん症になりかかっていた。独房は、非人間的なところである。あまりにも長い間、人をそのような閉鎖的な場所に閉じ込め続けると、やがて狂ってしまう。
 それに加えて、八戒は毎日のように三蔵の陵辱を受けつづけていた。八戒の神経も精神力も限界に近かった。



 そんなある日のことだった。
 行為が終わった後、ふと三蔵が思い出したように呟いた。
「本が読みたかったりするか? 」
 この頃、ふっとした瞬間、三蔵はひどく優しかったりする。
「え……」
 本が読めたらどんなにいいだろうとは、毎日思っていた。この何もない牢獄のような日常がだいぶましになる。
「やらんでもないぞ」
 三蔵は八戒の方を、その深い紫暗の瞳で見つめた。何かを注意深く測っている目つきだ。
「そのかわり、この手帳に今から俺が言うことを書け」
「え? 」
 そんなことでいいのかと、不思議そうに目を丸くする八戒の前に、三蔵が自分の手帳と、ボールペンを差し出した。
 ボールペンはどこにでもある、簡単なプラスチック製の安価なものだ。手帳は三蔵の私物なのだろう、黒革のすっきりした縦長で小型の手帳だ。
 三蔵は、手帳の白紙の頁を押さえて八戒に差し出した。
「……僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいますと一筆、書け」
「……! な……」
 八戒は絶句した。その瞳が大きく見開かれる。この男は一体何を言い出すのだろうか。
「早くしろ」
 手帳とペンが手に渡される。
 八戒は屈辱的な念書を書かされようとしていた。
「なに、ただの遊びだ」
 三蔵は事もなげに言った。確かに書く言葉はひどいものだが、よく考えれば単に書くだけのことだ。
 そしてそれだけで、読みたかった本が手に入る。八戒は唾を呑んだ。
 震える手つきで、ペンを手に取った。ひさしぶりの筆記用具の感覚に戸惑いながらも三蔵に求められた言葉を手帳に書いていった。
 それを三蔵は、食い入るような目つきで眺めていた。その目の光はどこか八戒の様子を探るような目つきだったが、八戒は気がつかなかった。
 八戒は手帳に書くと、それを三蔵に返した。三蔵は渡された手帳に目を落とした。

 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。

 多少震えて歪んでるとはいえ、八戒らしい達筆で丁寧な字が、そこに並んでいた。奴隷契約めいた一文を八戒に書かせておいて、三蔵は楽しげに笑った。
「じゃあ、今度来たときに、本は返してやろう」
 三蔵はそのまま、ドアへと足を向けた。そのあっさりとした言葉に、八戒は思わず呆然とした。もっとひどいことをされると思っていたのだ。
「あの……」
「なんだ」
 三蔵の短い応えに、訊くべき言葉がみつからず、八戒は言いよどんだ。
「なんでも……ありません」
「そうか」
 三蔵はそのまま出て行った。いつものように嬲ったり嘲られたりもしなかった。八戒はひどく拍子抜けした。


 そして
 その日の夜更け、三蔵から手持ちだった本が返された。
 わざわざ勤務時間中に隙を見てやってきたことが、その忙しそうな様子から自然に知れた。
 三蔵は八戒の私物の本とは別の新しい本も差し出した。
「興味がありそうだと思ってな」
 思わず八戒は三蔵に呟いていた。
「……ありがとうございます」
 自分を地獄に叩き落とし、夜となく、昼となく勝手に自分を犯し、陵辱する男。常に薬を使われ、朦朧とした精神状態におかれて、正常な思考を麻痺させられ続けている毎日の元凶。
 それなのに、
 八戒はそんな自分の陵辱者に向かって感謝の言葉を言っていた。おかしなことだった。
 しかし、本人はそのことに全く気がついていなかった。
 三蔵は、口元を釣り上げて微笑んだ。
 じきにそれは日課になった。
 どうせ、八戒には無為のあまり気の狂ってしまうほどの時間があった。営々と三蔵に飼い殺しにされているだけなのだ。時間はたっぷりあった。
 何もしないよりは本当にましだった。なにもしないことがどんなに辛いことか、普通の生活をしている時には分からなかった。それほどの苦痛だった。
 三蔵はいつの間にか勤務を終えてやってくると、まずはじめに八戒に以前書かせた屈辱的な念書を書くことを要求した。
 最初は何故そんなことをするのかと、抵抗があったが、なんとなく逆らえなかった。
 八戒は三蔵からボールペンを受け取った。何行か求められるまま書いた。
 八戒は書き終わると、黙って三蔵に手帳を差し出した。

 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。

「これでいいですか? 」
 三蔵は満足そうに肯き、八戒の腰を自分の方へ引き寄せた。いつものように抵抗しようと八戒が抗うのを慣れた手つきで押さえる。
 もとより、強い薬で朦朧とした状態が続いている八戒には、三蔵相手に完全な抵抗などできなかった。
 いつの間にか、三蔵は八戒にとって絶対的な存在になっていたのだ。
 もう、毎日の快適さも、生殺与奪も、なにもかも、全て三蔵の気まぐれ次第だったから。

バルビタール、フェノバルビタール、アモバルビタール。

 前頭葉も麻痺させる、自白剤としても使用されることのある強い薬を八戒は毎日使われ続けていた。
 理性を剥ぎ取って本能だけにされるような朦朧とした状態で、ひどく淫らな言葉ばかり、三蔵に言うことを強要され、それを言いながらついには三蔵を求めたような気もするが、もう記憶が飛び飛びで、自分が何を言っていたのか、翌朝は上手く思い出せない。
『僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます』 まさに性奴隷に似た八戒の毎日だった。

 そんなふうに日々はゆっくりと過ぎていった。

 更に一ヶ月が過ぎた頃、

「八戒」
 三蔵が勤務を終えて、保護室に顔を覗かせた。
「いつものヤツは書けたのか? 」
 三蔵が優しい声色で八戒に声をかける。
 いまや、八戒は三蔵に求められた契約の言葉を、手帳ではなく、もらったノートに何行も書くようになっていた。一日に何枚も、何枚も。

 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。
 僕はあなたの奴隷です。何をされても構いません。ずっとここにいます。

「やっと今、書き終わりましたよ」
 八戒は笑って三蔵を振りかえった。その顔に浮かんだ表情は、まるで待ちかねていた恋人を迎える人のようだった。
「えらいじゃねぇか、こんなに書けたのか」
 三蔵が、やや大げさに褒めた。
 何もかもが異常だったが、じわじわと真綿で締めるように、その意識を変えられていった八戒には、それが異常だとはもう、思わなかった。いや思えなかったのだ。
 はじまりは、ほんの一行だった。ほんの。そのほんのわずかな譲歩、それが転落のはじまりだった。
 人間は、自分自身がどんな人間なのかを、自分の行動から判断するという。
 洗脳するときに効果的なのは、洗脳したい思想を相手に言わせ続けることだ。口で言わせるのもいいが、更によいのは書かせることだ。自分のしている行為が書くことによって明確になるからだ。
 隔離をし、睡眠を奪い、尊厳を奪い、屈辱を与え、薬剤を使用し、そしてたまに優しくする。飴と鞭。それは、洗脳の常套手段だった。
 三蔵がやってきたことは、洗脳の最たるものだったのだ。
 三蔵が笑った、哄笑にも似た低い笑い声が闇に響く。もう、八戒は抱き寄せても抵抗しなかった。人形のようにおとなしく三蔵の腕の中にいる。

 八戒が保護室に入れられて四ヶ月が過ぎようとしていた。






 病院の、もう人の姿もまばらな食堂で、悟浄は遅い昼を取っていた。当直の関係で遅くなったのだ。
 精神科医療とは、やりようによっては楽にすますこともできると言われている。現にこの病院に、悟浄のような看護士がたくさん必要かといえばそうでもない。
 何故なら、この国の精神医療とは日本医師会の会長をして、かつて 「牧畜業」 と罵られたほどのありさまだったからだ。
 要するに強い薬を与えて暴れたりしないように、看護しやすいように患者をコントロールする病院が多いのである。
 更に病院側に都合のいいことには、精神医療特例法で守られていた。これは精神医療現場が、通常の病院よりも看護士数が少なくとも許可する法律である。
 しかし、人権団体からは悪法との声が高いこの法も、実際に現場で働く悟浄にしてみれば関係がなかった。
(難しいこた知らねぇけど、やっぱりどこでも患者さんの相手はターイヘンよ)
 優しい悟浄は幾ら自分が大変でも、患者をないがしろにすることなど、絶対にできなかった。
 食堂の日替わり定食をかき込む悟浄の傍を、閉鎖病棟主任の你がやはり定食を載せたトレイを持って近くを通りかかった。
 悟浄は思わず大きな音を立てて、席を立った。你の方も悟浄に気がつき、その口元を歪めるように笑った。
「アンタ……いや、先生」
 悟浄は、躊躇ためらいながら声をかけた。いけ好かない男だが、声をかけずにはいられなかった。
「……俺、いつになったら、元の閉鎖病棟の仕事に戻れるんですか? 」
 八戒の一件以来、悟浄は閉鎖病棟の仕事を外され、開放病棟へと担当替えをさせられていた。
「いやぁ、そーんなことをボクに言われてもね。なにしろ君を閉鎖から変えろってのは、院長命令なんだよ」
「……八戒はどこなんですか」
 悟浄は真剣な表情で你を睨みつけた。你の微かな表情の変化一つも見逃すまいとするかのような真摯な目だった。
「まーた、その話? ボクは知らないよぉ。そんなの院長に聞いてよ」
 とぼけたような你の声が響いた。
 躰を仰け反らして、わざと道化のように答える。その仕草は、酒場で踊って人をからかう悪魔のように軽薄だった。
 你は人の悪い笑みをその唇に浮かべながら、悟浄の顔を覗き込んだ。
「……そんなに、気になるの? 」
 你の目つきが珍しく真剣になった。虚無にも似た濃い黒色の瞳に、悟浄の燃えるような紅い瞳が真正面からぶつかった。
(こいつは、絶対に知ってる。いや、閉鎖の主任病棟医が知らないわけがないんだ)
 悟浄は、你の目つきを見たときに確信した。
「教えろ!! 」
 思わず大声が出た。你の白衣をつかんで殴りかからんばかりの勢いだ。
 何ごとかと、やはり遅い昼をとる人々の注視を浴びるが、もう気にしてなどいられなかった。
 そんな悟浄の必死さをまるで嘲笑するかのように你が囁いた。
「いいの? いや、別にボクはキミに何されようと気にしないけどねェ。ボクを殴ってみる? そんな、しょっちゅう問題起こしてごらんよ、この病院にいること自体できなくなるよ♪ 」
 脅しにも似た言葉が、你の薄い唇から出た。
 歪めた唇は笑っているようだったが、その目は笑っていなかった。
「……っ! クソッ! 」
 確かに你のいう通りだった。
 そして、この病院を追い出されたら、八戒を探すことは難しくなるだろう。いや、ほとんど不可能になってしまうに違いない。
 言葉に詰まる悟浄の前で、你はお道化たような一礼をすると、その場から立ち去った。どこまでも忌々しい男だった。
 頭を振って、自分のテーブルの上を眺めると、半分だけ手をつけた定食がそのままになっていた。放置されていたそれは、すっかり冷め切っていた。
「……クソッ」
 先ほどと同じセリフを元気なく呟くと、悟浄はもう定食なんか食べるのを止めようかなというような気分になった。
 しかし、それではまるで你に負けてしまったようで、悔しかった。
 悟浄は、席に着くと、猛然と定食の残りを食べ始めた。味なんかほとんど判らなかった。
 ただ、あの儚げな美人さんを救うまでは絶対に誰にも負けない、そんな一念だった。
 無理やり定食のメインである生姜焼きをやっつけて、冷えた味噌汁をほとんど飲み込んだとき、 後ろの席から中年女性の声が聞こえてきた。
「……なんだかね。最近アッチの四階がおかしいって話よ」
 なんだ、オバちゃんたちの井戸端会議かと、無視しかけた悟浄だったが、次の言葉を聞いて息が止まりそうになった。
「そう、そこの保護室にね、すっごい綺麗な緑の目をした若い男のコがひとりだけいるって噂よ。そのコの他には患者さん、その階からわざと追い出しちゃってるのよー。ねーおかしい話でしょー」
 思わず、悟浄は後ろの席を振り返った。病院内で、患者の配膳を担当する賄い婦達が二、三人そこに集まっていた。ごく普通の噂好きそうだが、どこにでもいそうな中年女性達だ。
「オバチャンお願い」
 悟浄は思わず、駆け寄って声をかけた。男前な悟浄の突然の登場に、女性達の間からはちょっと若やいだ声が上った。
 しかし、そんな声は耳に入らないといった様子で、悟浄はまるで蜘蛛の糸をつかむ人のように必死で言った。
「その話、もっと詳しく聞かせてくれねぇ? 」


 

「ハルシネィション6へ続く」