ハルシネィション(26)

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。
普通は、数秒ですむはずの通電を、ニィはずいぶんと長くかけていた。 ベッドの上で八戒は死んだように動けない。麻酔がひどく効いている。

「さぁて、全てを失ったら、どうかな。キミが本物の廃人になって、人間じゃなくなっちゃったら、あの男、どんな顔するかなァ」
 一瞬、暗い気配が空気に満ち満ちた。ニィの表情はひょうきんなのにそのくせものすごく暗い。
 生は暗し、死もまた暗し。この不吉な医者はその死神に似た白衣をひるがえし、黒髪の患者に馬乗りになっている。その両手に一対の装置を掲げて。電極だ。短い円柱型の電極を患者の額にあてがっている。
 医療行為のくせに、ひどく卑猥だ。
 まるで、死刑の執行式に似た気配が濃くたちこめる。
 生と死なら死に近い気配。薄暗い黄泉の気配が病室内にただよう。確かに今、何かが死んでいる。そう何かが死んでいるのだ。
――――脳細胞。電気的な刺激で各神経がやり取りされ、ニューロンはまたたきシナプスは繋がってゆく。今、八戒の脳は無理やり外部からの電圧ですべての機能が断たれようとしているのだ。
 すべてがご破算になり、脳が焼き切れる。
 ニィがしているのはそういう行為だ。何もかも。何もかも脳の表面の電位を書き換え何もかも 「なし」 にしようとしている。
 脳を焼き切る。
 ひとの業ではない。
 ひととしてのしていいことの領分を越えている。
 ニィ健一は長い舌をだして自分の身体の下にいる八戒の頬をぺろり、となめた。興奮している。自分のしている非人間的な行為に興奮しているのだ。八戒を壊す行為に興奮している。
 あまりに強い電流のせいだろうか。麻酔をかけられている八戒の指がぴくりと動いた。筋弛緩剤をたっぷりと打たれているはずなのに。
 指がかすかに動く。
 筋弛緩剤は危険な薬物だ。打ちすぎれば不随意筋のすべてを止めかねない。睡眠薬や麻酔薬による死は安楽かもしれないが、筋弛緩剤による死は意識がある分、恐怖しかないだろう。意識が明確なのに呼吸や心臓に関する筋肉がじわじわ止まるのだ。ときおりこれを末期ガン患者に安楽死と称して処方する医者がいるらしいが、とんだサディストだ。
 自殺志願者としては、そんな薬剤では死にたくない。願い下げだ。
 むしろバルビツール系の睡眠薬を200錠ほど手に入れてひといきに飲み、誤嚥してのどがつまるのを狙いたいくらいだ。またはリストカットしすぎて貧血になり、心臓に負荷がかかって死ぬのを待ちたい。
 
 筋弛緩剤。

 そんな強烈な薬剤を体内に注入されているはずなのに、八戒の手指がかすかに蠢いた。相当の衝撃のある電撃を脳に加えられているのだろう。脳の前頭葉から運動野にいたるまで焼かれているのに違いない。
 生理的な痙攣が起きている。筋弛緩剤で痙攣を押さえているのに限界だった。
「院長なんかの奴隷に無理やりされちゃってかわいそーに。僕がキミを真の意味で自由にしてあげるよ」
 本当に何もかもが静かだった。ニィの呟きしか聞こえない。
 八戒の病室は精神病院の重症棟内だというのに、やたらと高価な羽根布団やら、絹仕立てのシーツやらとりどりの高価な布で覆われている。
 それは、この美しい男に執着する院長の気持ちをありありと露骨なまでにさらけだしていたが、いまやこの儚いまでにきれいな男はそんなことも知らぬげに、ただ眠らされニィが額に加える細長い電極からの電撃にひたすらに耐えている。
 いや、薬をたんまりと注入されてされれるがままだ。電撃の波にあわせて男にしては長いまつげがふるえ、痛ましいほどに整った顔は白いを通りこして青ざめている。
 そんな処刑じみた空気に
 瞬間。
 かぐわしい匂いが殺風景な病室内に立ち込めた。
 こんなに殺風景な病室なのに、かすかな芳香が鉄筋コンクリートつくりの壁へ床へ天井へとただよう。
 八戒からだった。この男からただよう石鹸の匂いだ。ひたすら院長を受け入れる抱き人形のようになってしまっていても、もとからの優等生気質はかわらないらしい。
 品のいい清潔な匂いがこのきれいな男の全身から立ちのぼった。それは、絶妙な調子でもともとの体臭と微妙にまじりあった。簡素なのに、地味なのにどこか深く男を狂わせる匂い。
 それは楊貴妃と呼ばれた絶世の美女を彷彿とさせる。あの女も何もしていないのに男をおかしくさせる名手だった。それと同じ種類の人間なのだ。この猪八戒という男は。悪魔じみた魅力があった。
 ずいぶんと長くニィは八戒を押さえつけ、その額に電極を当てていた。両手で額を左右から押すような筒のような電極をあてがう。電気けいれん治療法ができた当時の古い機械だ。八戒の額に直接押し当てられている電極は白い綿に包まれて濡れている。食塩水で濡らした方が通電がいいのだ。
「ぐ……」
 八戒の唇から苦しげな声が漏れた。食道からのどを通る生理的な空気音だ。通電が長すぎるのだ。

 そのときだった。

 慌しい金属音が突然、病室の空気を切り裂いた。金属製のドアが勢いよく開け放たれた。
 ありえないことだった。あってはならない事態だった。
「ニィ! 」
 長い赤い髪がニィの視界いっぱいに広がる。切れ長の瞳が殺気を帯びている。頬の紋様が大写しになった。
 扉が開くのを制止するヒマもなかった。
 赤い髪の王子様が勢いよく、飛びこんできた。
「な……」
 ニィが目をむいた。信じられない邪魔がはいった。

 紅孩児。

 この清廉な若先生は、いつの間にか八戒の部屋の前を往復するのを習い性にしていた。そう。八戒に加えられる院長先生一連の 「治療行為」 をこの男に気づかれないようにするのは、無理というものだったのだ。
 「日課」は院長がいなくとも変わらない。いや、院長がいないときにこの黒髪の患者がどんなに淫らな行為をしているか、誰が知らなくとも紅先生だけは知っていた。
 そんなわけで、今日も日課のごとく八戒の病室のドアへ耳をあてていたのだ。
 変異に気づき、はりつくようにしてドアの外から内部を伺っていたのだろう。そして、わかってしまったのだ。中にいるのがいつもの金の髪をした鬼ではなく、同僚のメフィストフェレスだと。
「……これはセンセ。どうして」
 慇懃な調子でニィは言葉を返した。憎々しいまでの余裕だったが、その声はかすかに驚きを帯びていた。  
 まさか紅先生が飛び込んでくるとは思いもよらなかったのだ。ニィの手には電極が光っている。八戒に馬乗りになったままニヤリと笑った。するとまるでその邪悪さをとがめだてするかのごとく正義感に満ちた声が部屋中に響く。
「彼から離れろ。ニィ! 貴様」
 紅孩児の手には、カードキーがあった。この地下病棟の、入り口の扉、患者の全室共通のカードだ。
「参ったね。知ってたの。このカードキーが」
 ニィはその不吉なメガネ越しに紅孩児をにらんだ。どうしてこの若先生が、自分の手持ちのカードでこの八戒の病室が開けられると思ったのだろう。
 そう、紅孩児は病室をノックしたり叩いたりもしなかった。ただ、他の病室にするように読み取り口へカードを差し入れたのだ。
「なるほどね薄々、気づいてたってワケ。紅センセったらスミに置けないねぇ」
 にらみつける紅孩児の前で、カラスに似た男がうっそりと笑う。
「確かにねぇ。この部屋のカードキーに複製とかスペアはないよ」
 邪悪な光を浮かべたまま、ニィはその目を細めた。

「何故なら」

――――この地下病棟の鍵をいつの間にか、「すべて」 共通にしてしまったからだった。

 八戒専用の電子錠を他の電子錠と共通に書き換えさせたのだ。
 そう元々、利便性のために、各病室のカードキーは共通だった。各病室の電子錠は共通なのだ。
理由は明快だ。世話をするものや看護師や医者。ようするに病院内のものなら開けたって普通の病室はなんの問題もないのだ。困るのは患者本人と部外者が開けたいときだけだった。
 しかし、八戒の部屋のドアは特殊だ。何しろ八戒は普通の患者ではない。院長先生の囲われもの。院長先生の慰めもの。そんな「用途」をもった患者など、想定外だった。そのためその扉は特別にあつらえられた。覗くための小窓もないし、頑丈だ。三蔵が取り替えてしまった。当然、電子錠も八戒の部屋専用で他とは違った。あたりまえだ。

 それなのに、
 先日、ニィが業者にいいつけて共通のものに変えてしまったのだ。
「あ、ソコの部屋の鍵も一緒のでいいよ」
 軽薄な声で、元閉鎖病棟主任は真面目な業者の男たちに伝えたのだった。
 鍵を扱う業者はまったくニィの指示を怪しまなかった。もともと病院の鍵など医療関係者だけが開けられればいい性質のものだからだ。
 異常なのはむしろ八戒の部屋の方だ。病院といういわば公共の建物の内部だというのに、魔窟のようだった。病院内に院長しか訪れることを許されぬ病室がある方が異常なのだ。
 そう、ここは魔窟、または桃源郷。八戒という名の麗しい獣を捕らえておくための、 

 人間用の檻だった。

「クッ……クックックックッ」
 カラスに似た男の、いやな笑い声が鉄筋コンクリートの白い壁に響き渡った。獲物である美肉を捕まえたまま、勝ち誇ったように笑っている。
「カギのチェック、しとかないなんて院長先生ってばつくづくマヌケだよねェ」
 にやにやと口元からいやな笑いを消さずに言った。
 とぼけた口調。しかし手元から電極をはなそうとしない。八戒の白い額に通電し続けたままだ。気のせいか、通電される黒髪の長い前髪で覆われた額はうっすらと汗を浮かべている。限界が近いのだ。木の箱上の計器やメーターの針が振りきれそうだ。
 それを見て、押し殺した声で紅孩児が言った。
「離れろと言ってるだろう。ニィ。許さんぞ」
「……知らなかったよ。清廉潔白な若先生までもが、この淫魔の虜とはね」
 一瞬、ニィの体の下で、八戒が小刻みに震えそのまま動きを止めた。
「! 呼吸停止か」
 紅孩児が眉をつりあげた。電気によるショックでおこりがちな現象だ。
「ん? 筋弛緩剤を使ってるしね。その影響……」
 ニィが言葉を終わるより早く、赤毛の若先生が体当たりしてきた。白衣のえりをつかもうと必死だ。床に転がりとっくみあう。八戒の額に押し当てられていた電極が床へと落ちて転がり、硬質な音を立てた。いままで不気味に振りきっていた計器の針はいきなりゼロを指すと静かになった。
 八戒は小刻みにまつげを震わせている。……それでもなんとか呼吸が戻った。
「う……」
 八戒の立てた苦しげな声に思わずニィはふりむいた。いや、それは声と呼べるものなのか。生理的な空気がのどをふるわせる音にすぎない。意思からだしている 「声」 ではない。しかし、筋弛緩剤の効果はあきらかに弱くなってきていた。処方しなれた向精神薬と違って筋弛緩剤など精神科医の専門外だ。処方をあやまったかもしれない。
 そんな一瞬の隙をついて紅孩児がニィの頬に拳を叩きこんだ。黒髪が揺れ端正な顔からメガネが吹き飛ぶ。
「ニィ、本当はこの患者を殺す気だったんじゃないのか」
 床へ乾いた音をたててメガネが落ち、転がった。片方のレンズにひびが入る。いやな音が響く。
「さぁね」
 殴られて切ったらしい。赤い血が唇から滴る。
「貴様! 」
「ただ、……そうだね。ただ殺す以上にあのキチガイ院長が悲しむようなことを、このカワイコちゃんにしてやりたかっただけなんだけどな」
「ニィ! 」
 相手の正気を疑いながら、紅孩児がうめく。ニィを腕づくで八戒からなんとか引き剥がし、傍の床へ強引に押さえつけていた。
「そうそう。このコがさ、廃人になっちゃったら、あの院長、どーすんのかな」
 メガネを奪われ素顔に剥かれたニィの顔がゆがんだ。泣いているような笑っているような笑顔だ。邪悪というより、正気を疑わせるような笑顔だった。
「そりゃ、このコ。とっくにセックス依存症の上に院長依存症で廃人みたいなモンっていえばそーなんだけど」
 クックックッ。ニィの狂ったような笑い声が、病室内に響く。
「あの金髪の院長のことをさ、もう二度と思い出せないようなオツムにしてやりたくてね……せめてものお礼にさァ」
「貴様……」
「もういいんだ。赤毛の王子様」
 白衣の胸元をつかんだ、紅孩児の手を、ニィは一本一本、ひきはがそうとした。
「ボクはもうね、今日限りこの病院を辞めさせてもらうよ。ココに来る前、院長室に辞表を置いてきたしね」
「ニィ! 」
「無駄だよ王子さま」
 邪悪な魔法使い。いや黒髪の悪魔が口の両端をつりあげ、今度こそ哄笑に近い大声で笑いだした。
「猪八戒」
 電気けいれん器はその額から外れたものの、麻酔が効いて動けない。そんな男の名前をまるで呪いでもかけるかのごとく彼は呼んだ。その名前を構成するひとつひとつの音を意味ありげにニィは発音した。
「もうこのコは手遅れだよ♪ ボクが念入りに壊してヤッたからネ♪ 廃人だと思うよ」
 紅孩児は思い切り相手の顔へ、もう一度、拳をたたきつけた。

 


――――学会会場。院長先生は大勢のひとに混じって面白くもなさそうにホテルの広いロビー狭しと貼られたパネルを見つめていた。
 そのときだった。
 三蔵のスマートフォンが軽やかな電子音で鳴った。
 華麗な美貌の院長先生は、しばらくの間スマートフォンでなくていつもの医療用PHSや専用回線医療用ポケベルだと思ってスーツの懐を探していたが、外出先であることを思い出すと医師らしいしつらえの黒いカバンの中をのぞきこんだ。確かにカバンの底で通信電気機器が発光し明滅している。うれしいことも不幸も伝えてくれる魔法の機械だ。
 その液晶画面には、勤務先である病院名が明滅していた。なんとなくいやな予感が背を這いのぼってくる。その感覚に耐えながら液晶へ触れた。

「なんだうるせぇ。俺だ」

 ぞんざいに返した後、その耳へ飛びこんできたのは思ってもみなかった言葉だった。

 見る間に白皙の顔がゆがみ暗紫色の瞳が驚きに見開かれる。その電話の内容は三蔵の予想をはるかに超えていた。


 
 



「ハルシネィション27へ続く」