ハルシネィション(27)

 連絡が来てから、どのくらい時間が過ぎたことだろう。たいして経ってはいない。しかし、三蔵にとっては途方もない時が過ぎたように感じられた。

 閉鎖病棟の玄関口に銀色の車を横付けにして慌ただしく降りる。
 車をそのまま置いてロビーへと走った。
 リノリウムの床に、慌ただしい靴音が響く。
 生来、せっかちで短気な性質のため、この男がこんな足音をたてることはよくあることだった。

 道ならぬ黄泉路を急ぐ金の髪をした華麗な鬼。
 
「院長!」
 居合わせた看護師たちが驚いた声をあげた。院長先生はいつも見かける白衣姿ではない。スーツを着ている。今日はご出張のはずだ。いぶかしがる周囲の声にも三蔵はふりかえらなかった。
「うるせぇ黙れ」
 その紫色の瞳には必死な色が浮かんでいる。鬼気迫る気配を漂わせながら地下行きのエレベータへと走り去った。




 暗い。
 病棟の底の底はひどく暗かった。
 「この世に存在してはいけない場所」 は常に暗いものだ。
 病室の蛍光灯は切れかかっているようだった。




――――精液の臭いのまじった空気が病室の中にただよっている。まるで売春宿のようだ。とはいえそこにいるのはすれっからしの娼婦などではなく、端正な容姿をした清廉な黒髪の青年だ。もっともこの男には相手の男を狂わせる天性の何かがある。

 殺風景な天井では金網に包まれた蛍光灯が輝き、ベッドではうす青い色をした美しい敷布が絹のつややかな光沢を放っている。
 黒髪の美しい青年はひとり放心したような表情でひざをかかえていた。まだ、麻酔が抜けきっていないのか、けだるげな表情だ。

――――あの禍々しい電気けいれん器は駆けつけた看護師たちによって片づけられ、ニィは左右から人々に取り押さえられて別室へ連れていかれた。

 静かになった病室に、真面目な紅孩児の声が静かに響く。
「これから、貴方にいくつか質問をします。答えてください」
 その言葉は、一種の宣告にも似た緊張をはらんでいた。
 赤い髪をした白衣の男が異端審問官のごとく問診表を手に立った。
「貴方の名前を教えてください」
 黒髪の美人は微動だにしない。その緑の瞳を丸く見開いたまま返事もせずに震えている。
「貴方の……ご自分の名前ですよ」
 紅先生はゆっくりと質問を繰りかえした。「当たってほしくないことが当たった」 そんな悲痛な表情を一瞬、彼は表面に浮かべたが、さすがそこはプロというべきかすぐに職業的な鉄面皮をかぶって無表情になった。
 八戒は唇を噛んで下を向いている。
 名前、名前。自分の……なまえ?
 ひたすら黙って小首を傾げている。医師の言う言葉が分からないのか 
   名前とは何だろう。
 そんな表情だった。
 紅孩児が再び質問する。
「今年は何年ですか」
 今度は微かに八戒の唇が動いた。
「わ……」
 それは、返事をするというよりも声が出るのを確認している、とでもいうような様子だった。画家が筆で書いたかのような、すらりとした眉をひそめ黒髪を揺らす。
「わかりません」
 気の抜けた声だった。呆然とした声だ。それでも赤毛の医者は粘り強く質問を続けた。
「今の季節はなんですか」
「わかりません」
「今日は何曜日ですか」
「わかりません」
「今日は何月何日ですか」
「わかりません」
 それは無情なやりとりだった。それでも紅孩児は辛抱強く言った。
「昨日、何をしていたか思い出せますか」
「?」
 黒髪の美人は首を振っている。質問の意味が分からない。頭痛でもするのか、眉間にしわを寄せている。ひどく苦しげな表情だ。
「貴方の誕生日はいつですか」
「誕生日? 」
 どこか無邪気さすらたたえた調子でその問いはオウム返しに八戒から問いかえされた。瞬間、本心からの声を紅孩児は出した。
「誕生日という意味がわからないのか猪八戒。生まれた日のことだ」
 一瞬、医師という職業を離れた私人に近いときの調子で答える。その声には悲痛な響きがあった。
「生まれた日」
 八戒は呆けたように繰りかえした。考え続けると苦しいような気分にでも襲われるのか口元を片手で押さえている。
「……分かりません」
 誕生日という概念も分からないのだろう。八戒があきらめたように首を振っている。
 生まれた場所を教えて下さい。育った場所を教えて下さい。ご両親の名前を教えて下さい。姉弟はいましたか? 友達の名前を教えて下さい。過去、3ヶ月で一番印象に残ったことを教えて下さい。血液型は? 学校はどこを卒業しましたか?
 どれにも、八戒は答えられなかった。完璧に記憶障害だ。
 最後に、もう一度
「貴方の名前を教えて下さい」
紅孩児は一字一字を区切るように発音した。
 名前
 病室内が沈黙に支配される。天井の蛍光灯が切れかかった音を立てて微かに明滅する。しばらくの間、眉根を寄せて考えていた黒髪の美人はとうとう首をかしげた。
「…………分かりません」
 わかりません。
 自分の名前。自分の名前。じぶんの名前。じぶんのなまえ?
「…………そうですか」
 ひとつに結った長く赤い髪が白衣の背中で揺れている。心なしか紅先生はすっかり肩を落としていた。


 八戒が麻酔から覚めてから。
 紅孩児は見当識の確認をずっとやっていた。ミニメンタールステートテスト検査と呼ばれるものだ。
「今日は何月何日ですか」「ここは何県ですか」などの簡単な質問だ。10分ほどで終わる簡単な検査だ。交通事故などの受傷後によく行われる。認知障害、高次脳機能障害を診断するためのものだ。正常人であれば満点で答えることのできるこの検査に、ほとんど八戒は返事をすることすらできなかった。

 自分の名前さえ、綺麗に忘れ去っていた。
 全てを綺麗さっぱり忘れ去っていたのだった。過去も未来も全部。本当に全部。記憶も全て。
自分の名前すら全て忘れてしまった。
八戒。
 忘我の淵で院長が大切ぞうに宝物みたいにささやいた名前。でも、それすら思い出せない。
 強力なECTの毒牙は、確実に八戒の脳を蝕んでいたのだった。何も何も思い出せない。電撃が、脳の表層のシナプスの電位を書き換え役に立たない。もう何も思いだせない。自分の名前も、自分が何者なのかも。自分はどうしてここにいるのかも。
 何も、何も思い出せないのだ。自分が人間なのかどうかなのかさえ。

 大切な思い出、大切な肉親の名前、大切な友達の名前、大切な自分の名前、もう何も何も思い出せない。

 そのときだった。

 ものすごい勢いでドアが開く。金色の髪が殺風景な地下の蛍光灯の明かりを跳ね返すようにして光った。

 院長だった。

 いや。白衣を脱いだ死の天使。いつもの白衣ではなく背広を着ている。
「なんだてめぇは」
 金色の髪を光らせて腹の底から響く怒号をあげた。
「何してやがるてめぇ」
 鋭い紫の瞳で紅孩児を睨みつける。
 自分以外は入れぬはずの病室に他人が侵入していることを警戒して怒っていた
「申し訳ありません」
 紅孩児はひたすら頭を下げた。誠実で真っすぐなしぐさだった。
「俺が行き届かないばかりに、八戒さんを」
 三蔵はまっすぐベッドに駆け寄った。
「八戒! 」
 ベッドにうずくまる黒髪の男の名を呼ぶ。必死な表情だ。紅孩児が、背後から腕を伸ばして院長を止めた。
「……院長。八戒さんには重篤な記憶障害が起きてます。もう、自分の名前も覚えていないんです。本当に何も覚えていないんです」
「…………!」
 三蔵はギリギリと歯噛みをした。とんでもない連絡を学会の会場で受けたときから、最悪の事態が脳裏をよぎってはいた。
 しかし、それが現実のものになってみると足元から何かが崩れてゆくような感覚に襲われた。
 紅孩児がなるべく冷静な口調で説明しだした。
「見当識の確認をしましたが、10点以下です。逆向性健忘が起きてます。おそらくもうETCを受ける前のことは何も覚えていないと思われます」
「…………なんだと」
 紫色の瞳に凶暴なまでの怒りの色が浮かんだ。言われた言葉が信じられないのだろう。いや理解はしているのだろうが信じたくないのだ。
「おそらく、貴方のことも思い出せないでしょう」
 紅孩児の感情を抑えた声は鬱々と響いた。
「ふざけやがって黙れてめぇ」
 威嚇するような声をだして紅孩児の腕をふり払った。現実を告げる紅孩児を黙らせれば残酷な現実が消えると思っているかのようなふるまいだった。
 しかし悪夢は消えなかった。事態は最悪だった。三蔵は呆然として、八戒のそばにかけよることしかできなかった。

 しかし、その時。
 信じられないことが起きた。

「…………さんぞ?」
 黒髪の美人が呟いた。

 三蔵。
 そのつややかに整った唇は確かに院長の名前を呼んだ。

 紅孩児が信じられないと言う様に目を見開いた。驚きだった。
 昔ながらの電気ショック療法、『電パチ』 を悪意のある医師の手でかけられたのだ。意図的に脳を焼いて廃人にするために。それなのに。

 不意に
 目の前で八戒が微笑んだ。

 それは天から降る白い花のような聖なる笑顔。
 首を傾げればその白い額で長めの艶のある黒い前髪がさらさらと音を立てる。

 三蔵の名前を覚えている。
 三蔵のことだけは覚えている。
 
 八戒は。
 自分の名前を忘れても、三蔵の名前は忘れなかったのだ。
 ずっと。

 奇跡だった。

 大事な、壊れやすいガラス細工のように、三蔵は思わず八戒を抱きしめた。

 なにもかも忘れても、三蔵のことだけは覚えていた。

 奇跡だった。


 
 



「ハルシネィション28へ続く」