ハルシネィション(23)

 いけない、とは思いつつ紅先生は地下病棟へ足を向けることをやめられずにいる。

 この真面目な赤毛の王子様は、『地下の一番奥の部屋』 に焦がれるようにひきつけられている。夕方になるとそわそわして落ち着かない。
 病室に食事のトレーが配膳されはじめる5時過ぎ。外では不吉にカラスが鳴き、夕暮れの薄明かりが西にかかった薄い雲を透かすようにしてさしこんでくる。そんな外を眺めながら、紅先生の気持ちは既に地下へと飛んでいた。
「先生」
 指示をあおぐ看護師の言葉も耳にはいってこない。話しかけられたのにうわの空だ。
「あ、ああ」
 思わず生返事して唾を飲みこんだ。いけないと思ってはいても、あの妖しい声が耳朶にからみついていまだに離れない。
(あ……っあっ……さ……んぞ)
 甘い甘い声だった。妖しい性的な魔物のような声。中枢神経を撃ち抜いてくるような性的な声だ。
「すまん。用事を思い出した」
 紅孩児が背を向けると、ひとつに結った赤い髪がその動きで揺れた。白衣の袖を指でかるくめくって腕時計を眺める。国内ブランドの地味でシンプルなものだった。時刻はすでに5時半をさしている。文字盤は白く、光るフレームは銀色で秒針は黒い。まるで持ち主に似たかのように誠実で真面目な時計だった。正確で狂うことなどないにちがいない。
 だけど。
「先生? 」
「すまん。ちょっと急ぎでな」
 言葉も終わらぬうちに紅孩児はエレベータの方へと歩いていった。もちろん 『下』 の階のボタンを押すために。
 狂わぬ腕時計とは対照的に、嵌めてるご本人の方は最近なにかが壊れていた。


 消毒液のにおいと亜麻仁油のいりまじったにおいが廊下を満たす。リノリウムは亜麻仁油を含むのでわずかに魚臭い。そこにクレゾールの塩素系の白い匂いがかぶさる。地下病棟の蛍光灯はあいもかわらず薄暗い。金属製の網のようなもので覆われている。割って、破片を手にいれて自傷でもされてはかなわない。防止策のひとつだ。
 そんな殺風景な白い廊下に、聞こえてくるかすかな声。
「あっ……あっあっ」
 甘い甘い声が、蕩けるような声が金属製のドアの向こうから漏れてくる。かすかな声だが、集中すれば聞き取るのはたやすい。衣ずれの悩ましい音。ドアの向こうでその病衣を乱して白い肌をあらわにしているのだろう。
「はぁっ……あっ……あっ」
 きしむ音も聞こえてくる。基本ゴム製のベッドの振動する音だ。わななくなまめかしい肢体を震わせているのだろう。おそらく脚の間で生え育ってしまった性器をそのきれいな手で握りしめているに違いない。
 生臭いのに、官能的で美しい喘ぎ声。ひどく性的な声だ。紅先生を虜にしてやまない甘い声だ。いけないことだとは知りながら、紅孩児はそのドアの前へふらふらと座りこんだ。鉄製のドアの冷たさも気にならない。
「……っ」
 この病室のドアの向こうでは美しい青年が男を欲しがって狂っている。
「いやぁ……あっ」
 悩ましい粘質な水音が立つ。性器の先端、亀頭を指でこすりまわしている音だ。指に透明ないやらしい汁がべたべたとついているに違いない。
「はぁ……っ」
 身体をふたつに折って、性的な衝動に耐えているのだろう。
「してぇ……っ」
 ひどくいやらしい言葉を漏らしている。「して」 何をしてほしいとこの美しい青年は呟いているのだろう。吐息まじりの声はくぐもっていて意味がうまく聞きとれない。
 それでも紅孩児は恋焦がれるものの特質で、八戒の言わんとしていることが分かった。
 ほしいのだ。あそこに男がほしいのだ。
 いやらしいことをねだっている。ドアのむこうで腰をくねらせて熱い性器を身体の奥底へぶちこんで欲しいと泣いているのだ。この麗人は。思わず紅孩児は歯を食いしばった。
「っ……」
 声を立てまいと耐える。
「はぁぁっ……あっあっあっ」
 ぐちゅ……ぐちゅぐちゅ。ちゅ。
 いやらしい音から想像して、片手で硬く張りつめきったものをしごいているのだろう。おそらくその胸の乳首も硬くシコっているに違いない。身体を倒し、自分を慰める卑猥な行為に溺れている。
 これはこの美しい虜囚の秘め事だった。紅孩児だけは知っている。この謎めいた病室にいる、院長先生の情人は、夕食の後、トレーを下げられると自分で自分を慰めているのだ。
 それはここ数日もの間にはじまった日課だった。あまりにも抱かれすぎて身体が常に蜜をたれながしている。もう男なしでは過ごせないのだ。
 夕方、荒々しい交感神経が去り、副交感神経が静かに支配する夜にさしかかると、この男は身体が疼くらしい。院長に穿たれることを待ちわびながら、自分で自分を慰めているのだ。
 あまりにもいやらしかった。

 紅孩児が八戒のこうした習慣を知ったのは、偶然にも院長とこの虜囚の情事を立ち聞きしてしまって以来、用もないのにこの病室の前をうろうろするようになってからだった。

 朝と昼は院長先生がこの病室へくるのは無理なことが多い。だいたい来るのは夕食も終わり、夜にさしかかる時分だ。配膳のトレーを下げる掃夫が、清潔な外見の若先生へそっと非難じみた視線を送ってくる。それでも訪れずにいられないのだ。
 ふらふらと八戒の病室のドア前にたどりついて紅孩児は、青ざめた。確かにそのうち金の髪をした院長先生が来る時間なのだ。見つかったらただではすむまい。
 理性にしたがい、ドア前から立ち去ろうとしたその瞬間。
「あっ……」
 甘い声。あまりにも甘い喘ぎがドアの向こうから聞こえてきた。思わず紅孩児は無言でドアへ耳をつけた。院長先生専用の美しい慰み者。あの男がオスを欲しがって悶えているいやらしい声だった。
 聞くものを蕩けさせる啼き声はいつまでも続き、紅孩児はドアへくぎづけになった。人の本能的な官能へ訴える魔性じみた淫蕩な声だった。

 以来、

 紅先生はまるで蜘蛛の毒に絡めとられたかのように、八戒の病室に吸い寄せられてしまった。

 そして、今日も。

「抱いて……抱いておねが……い」
 今日も八戒の甘い声はずいぶん長く続いている。紅孩児は熱いため息をついた。鋼鉄製のドアを破って、淫らな身体を思い切り穿ってやりたかった。
「あっああぅっあっ」
 細い悲鳴のような声をだしている。しとどに透明なガマン汁を亀頭からたれながし硬い幹を濡らして下までしたたらせているのがたやすく想像できた。
「はぁ……あーっああっああーっあーっ」
 切れ切れに悲鳴じみた嬌声が響く。性的に達している声だ。白濁した体液を放って身体を震わせているのだろう。語尾がかすれている。
「はぁっ」
 何度も精液を吐きだして、痙攣している。
「ああっ……」
 目を閉じてのけぞり、喘いでいる白い身体。身につけた薄青い病衣はところどころ紐が解け、おそらく下には何も履いていないだろう。衣のあわせめから見える震えるピンク色のとがった乳首。手で握りしめている薄赤黒い欲望の徴。その先端からは白い体液を垂れ流し、快感でうめいているのだ。
 なんていやらしい男だろう。紅孩児は想像した。古いカルテをあさったのだ。黒髪で緑の目の青年の写真が貼られていた。拝むようにして目に焼きつけた。
「あっ……」
 達して、しばらく時間を置くと、熱い吐息だけが聞こえてきた。はぁはぁと胸で息をする音。軽い紙が引き抜かれる音も続く。ティッシュを箱からとったのだろう。自分で自分をぬぐっているのだ。
「んんっ……さんぞ」
 舌ったらずな甘い声を漏らしている。院長の名前を呼んでいる。聞いて若先生はその紋様のある頬を染めた。全身に血が過剰なまでにかけめぐってくる。ドア越しに八戒の欲望を感じていた。
「あっあっ」
 ぐちゅぐちゅ、ふたたび粘液をこすりつけるような音がする。ぐぷ、ぐぷ、ひどく卑猥でいやらしい音が漏れだした。
「はぁ、あっ」
 聞いてるうちに身体が熱くなってくる。紅孩児は思わず片手でネクタイをゆるめた。息が苦しかった。
「ああっああっ」
 ぷ、ぷぷぷ。卑猥な音が漏れると同時に八戒が息をつめる。間違いない。この男は自分で自分を穿っている。美しい指で自分の後ろを慰めているのだ。
「抱いて……抱いて」
 おねだりの声も卑猥だ。後ろに自分の指をいれながら身もだえしている。後ろの指に集中するあまり、前はお留守になっているのか、シコる音は弱い。おそらくこすりあげているだけなのだろう擦過音が微かにする。
「あっあっあああ」
 歯を噛みしめているのに、その歯の間から漏れてしまう、そんな悲鳴がわずかに変わった。
「奥が……」
 後ろを自分の長い指で穿ちながら、うめいている。
「もっと奥まで……」
 腰をふるわせ、くねらせて、自分の指では届かぬ奥へ焦れるように粘膜をうねらせている。
「あ……奥に……欲し」
 泣き声まじりの声だ。自分で後ろの孔を慰めるのには限度がある。体勢も苦しいし、とても三蔵が穿つように奥の襞までこじあけることはできないのだ。
「ああっああああぅあああっぅ」
 狂ったような身悶えの声があがった。身体を仰け反らせて叫んでいる。もっと貫いて欲しい、穿って欲しいと獣のようないやらしい情欲に煮られて焦れていた。
 ドア前で座り込んでいた紅孩児は思わず自分のズボンのジッパーを下げた。金属音がするがもうかまっていられなかった。恐らく強烈な性感に悶えている八戒には聞きとれないだろう。ドアを隔てた向こうで、真面目な青年医師に盗み聞きされているなんてことは。
「ああっ抱いて抱いてください」
 後ろの孔へ自分の指を突っ込み、身体を震わせているらしい。自分の指を淫らな孔がひくひくとわなないて食いしめてくる。声は悩ましくかすれ、男を誘う声は哀願の響きをもっていた。
「指だと……とどか……な……ぃ」
 喘ぎ喘ぎ漏らす言葉の内容はひどく卑猥だ。イイところがひくひくとふるえてうねるのに、穿ってくれる男はいない。オスの怒張が欲しくて悶え狂っている。前も限界まではりつめ、天をあおいで揺れているのだろう、乳首までとがって上を向いているに違いない。いやらしい身体だ。
「犯して……」
 思わず、というような声だった。官能に満ちた卑猥な調子だった。淫魔としか思えない。紅孩児は思わず目を閉じた。ふるえる自分の手を下着の中へいれ、もう限界まではちきれそうになっている硬い怒張を握りしめた。ぼろん、と外へ顔をだした凶暴なそれへ自分の震える指をからめる。
「ぐ……」
 声をおさえようとは思うものの、おさえきれない。うめき声をなんとか奥歯でかみ殺した。

 いつのまにか、
――――想像の中で八戒を犯していた。
 細いきれいな身体を組み伏して、尖っている両胸の乳首を交互に吸ってやりたい。そして、脚を開かしてそのまま身体を進めて穿ってしまいたい。
「ああっああっ」
 ドアに耳をつけると、よがり声が聞こえてくる。男欲しさに自慰をしたものの、オスの性器でないとかなえられない奥底がうずくのだ。身悶えしている卑猥な声。想像の中でその細い腰をつかんで自分への方へとひきよせて打ち付けた。チンポで八戒のそこをめくりあげるようにして開かせ、奥へ腰をうちつける。もう我慢できない。
「ああっああっ」
 黒髪のきれいな男の目から涙が伝うが、やめてやれない。いや、この卑猥な存在は感じすぎて泣いているのだ。本当にいやらしい男だ。
「ああぅっああっ」
 胸へ顔を埋めるようにして乳首を舐めまわしながら腰をはげしくうちつける。ひどい快感に焼かれて腰がしびれる。思わずその男らしい眉根を寄せた。舐めていた乳首をはじくようにすると、それにあわせるように、ナカがきゅぅ、きゅぅと卑猥にうねった。……感じているのだ。
「あっあ……ん」
 うねる粘膜に吸いつかれるのを感じながら、紅孩児は八戒の尻たぼを片手でつかみもみしだく。卑猥すぎる肉体が許せない。抱く男を狂わせる媚肉の持ち主だった。
「イイっイイっ」
 あまりにも生臭い声を放って八戒が悲鳴をあげる。奥にまで届かないとはいえ、また達してしまったのかもしれない。荒い吐息が激しく漏れる。
 紅孩児はより強く目を閉じた。
 隠蔽するかのように倉庫にこっそりと保管されていた八戒のカルテの写し。昔の、開放病棟にいた入院したての頃のものだった。「不眠」と主訴が記入されている。そう、最初の診断は単なる 「不眠症」 だったのだ。カルテの本物は院長の机に大切にしまいこまれているに違いない。
 そのコピーは不鮮明だったが、整理のためなのか何故か写真が貼られていた。優しげな美青年の顔写真だ。柔らかい微笑みを口の端に浮かべている。
 温和そうな顔立ち。長めの黒髪に覆われた聡明な額。知的な光を浮かべた瞳。
 地下病室で院長に抱かれて喘いでいる、あの淫らな声の持ち主とは思えぬ姿だった。こんな、ご清潔な顔をして院長先生に尻をふってねだってるのだ。
 こんなに理知的な好青年が、院長の前では這いつくばり、そのチンポをおいしそうに口に咥えて喜んでいるのだ。しかも毎晩、犯されるのを待ちわびているのだ。
 紅孩児は眉を寄せた。腰の奥が甘くしびれ、背筋を上って脳を白く焼いてゆく。どこかとまどいに満ちた手つきでハンカチを取り出した。ティッシュを取りだすのは間に合わなかった。
「くぅっ……」
 身体を震わせた。心臓の拍動とリズムをおなじくして噴出する欲望の証がほとばしる。うけとめきれなかった白濁液が、座りこんでいたリノリウムの白い床に滴った。栗の花に似た精液の匂いがただよう。
「……八戒」
 生真面目な唇が禁じられた名をつぶやく。紅先生は何度も白い体液を吐き出した。それは大量だった。あわててティッシュもケースごととりだしてわしづかむとこぼれた精液をぬぐった。誠実そうな顔立ちに戸惑いを浮かべている。まったく紅先生に似合わぬ不品行だった。
 紅孩児は目を開けた。
「俺は」
 浅黒い精悍な肌に薄っすらと官能の汗を浮かべている。白衣を着たまま、患者の病室前で自慰行為をしてしまった。聖域である職場で仕事中にオナニーをしてしまったのだ。病院中から非難されるに違いない。
 しかも、ドアごしに患者の様子を盗み聞きし、それをオカズにシコっていたのだ。リノリウムの床に精液が滴っている。ぬぐってもぬぐいきれまい。あの親切な掃夫にも分かられてしまうだろう。
 品行方正で病院中のみんなが大好きな若先生はもういない。背にはえていた透明な天使の羽は淫魔によってむしりとられた。青年医師は堕落したのだ。
「俺はなんてことを」
 欲望を吐き出すと、一気にいつもの良識や理性が立ち戻ってきた。それでも一瞬、清潔なくせにいやらしい、ドアの向こうの青年の残像に、からめとられそうになったが、なんとか頭をふって立ち直った。
 紅孩児は自分の欲望にはじめて気がつき愕然とした。あの謎めいた、声だけの存在にすっかりとらわれてしまっていたのだ。あの美しすぎる院長先生をも狂わせる、妖しい淫魔じみた存在が気になってしょうがなくなっていた。
 ドアの向こうでは、衣ずれの音や紙箱を片づける音が聞こえてくる。自慰行為の後、身体をぬぐって身づくろいをしているのだろう。紅孩児には八戒が性的な欲望で肌を紅潮させたまま、恥ずかしそうに下穿きを履く姿が目に浮かんだ。確かに院長先生のおでましの時間だ。うっかり長居をしてしまったのだ。
 慌ててベルトをつけ、ネクタイを締めなおし、紅孩児はよろよろと立ち上がった。白衣が薄汚れている。いや精神的にも薄汚れたのだ。
 ドアの向こうではあいかわらず何かを片づける音が聞こえてくる。その音には困ったような響きすらあった。恐らく紅孩児と同じで我にかえった八戒が羞恥に駆られ、自慰行為の証拠を隠滅しようとして片づけをしているのだろう。
 脳裏に院長の金色の髪と白衣が浮かんだ。あんなに八戒に惚れこんでるのだ。八戒が自慰をしている最中にでくわしたらあの男はどうするのだろう。院長欲しさに毎日こんな濃厚な自慰をしていると知ったら。
 おそらく、ひどく悦ぶに違いない。恥ずかしがっても蕩けている最中なら、八戒も抵抗できずに三蔵に抱かれてしまうだろう。自分の指では届かなかったうずいている奥を、三蔵のを埋められて……それこそ気が狂うほど身悶えるに違いない。
あ……そこイイ……イイっ……さんぞ。あっあっ……。
 快楽に素直すぎる甘い声すら想像できた。
 一瞬、肉欲にふたたび脳が焼かれかかった。身支度を整えたはずなのに、性的なうずきが戻ってきそうで、紅孩児はあわてた。
 なかなか、淫らな想像は去らなかった。欲しがってとろとろになってるところを見つかって、おしおきされる八戒。自慰を見つかって懲罰を受ける彼はそれでもきれいに違いない。いやらしいやつだと三蔵にののしられ、罰としてさぞ激しく抱かれてしまうのだろう。

 そのときだった。紅孩児の心に暗いなにかがわきあがった。

 見たい。

 それは強烈な欲望だった。止めようもなく胸いっぱいに広がった。暗い悦びに包まれた妖しい欲望だった。
 三蔵と八戒。あのふたりが情を交わすのをこっそりと見たい。それは後ろ暗くも淫靡な願いだった。
 この病院の看護師たちに、誠実で優しい紅先生がこんなにも薄暗い欲望を持ってると知ったら仰天するにちがいない。
 そう、
 ここは明るい陽の光も差し込まぬ地下病棟なのだ。良識の及ばぬ悪魔の支配する場所だ。正常で健全な世界は頭上のかなたへ――――はるかに遠かった。
 

 
 
 

「さぁて」
 ニィは閉鎖病棟の4階にいた。古い倉庫代わりにしている部屋の前だ。
「どこにしまってたっけな」
 もう、使うものもない古い医療機器がしまいこまれている。捨ててもいいようなものも多い。または、博物館に寄付するべきだろう。
 手吹きガラスらしい医療用ガラスケースなどは下手したら戦前のものなのではないか。どこかがゆがんだガラスのシャーレなども下手をしたら製造年月日が大正に近いにちがいない。すっかりほこりを被っている。
 こうした骨董級の理化学機器がそこかしこに眠っていた。
「ああ、これ、これだよね」
 ニィは木の箱をガラスのケースの奥から取り出した。40cmほどの大きさの箱だ。そっけない黄色みを帯びた茶色の木製の箱。
「うは、なんだっけ。昔、オーベン(指導医)に見せてもらって以来かなァ」
 中をあけるとオン、オフの簡単なスイッチに丸い窓のメーターが目にはいる。前時代的な電気機器だ。しかし黒っぽいパネルにはめこまれているのがどことなく不気味だ。黒いパネルの上に 「笠井医療」 と白い字で記銘され、「電気痙攣(けいれん)器」 とすぐその下にその恐ろしげな正体――――機器名が書かれている。
「八戒ちゃん」
 ほこりっぽい、倉庫でニィがつぶやく。
「キミに、何にも恨みはないけど」
 脳裏には、あのサディスティックな院長の姿があった。傲岸で不遜な、ひとをひととも思わぬ、白衣を着た酷薄な死の天使の姿が。
「あの男には罰が必要だよね」
 ニィの不吉な笑い声が、誰もいない暗い医療用機器の墓場に響いた。

 



「ハルシネィション24へ続く」