ハルシネィション(21)

 閉鎖病棟2階、ナースセンターの隣にある休憩室で紅孩児は看護師たちに囲まれていた。大きな長い机を囲むようにぐるりと丸椅子やパイプ椅子が置かれている。簡単な給湯設備も備わっていた。
「先生、少しは休まれたんですか? 」
「先生、お茶はいりました。いかがですか? 」
 同僚たちの溢れるような好意に、紅孩児は疲れていたものの笑顔で応えた。労わってくれる仲間の気持ちがひたすらうれしかった。
「ありがとう」
 アルミ製のパイプ椅子に腰掛ける青年医師を囲んで、看護師たちはうれしそうだ。
「地下なんか、ニィ先生にまかせとけばいいのに」
「そうそう。そうですよ」
 居合わせた男性のスタッフも強く同調する。忙しい病棟のほんの一時、お茶の時間だ。
「いや、ニィはよくやってくれている」
 なぜか自然にかばう口調になる紅先生に周囲は不満そうだ。
「ええっ、先生がかばうことないですよ」
「そうそう、なんかこう、あの先生って気味悪いですよね」
「このコなんて昔、セクハラされたって泣いてたんですよぅ」
「セクハラ? 」
「当直の夜、お尻さわられたって」
「うわ最悪。ホント最悪な男ね」
 閉鎖の師長がお茶を抱えたまま嫌悪に眉をひそめた。
 いくら有能でもニィの人望はあまり現場のスタッフにはない。一見ひょうきんな振るまいの下に病的にサディスティックな面があるニィより、裏表なく誠実な紅孩児の人気はぬきんでていた。

 一緒に仕事をすれば、相手の人柄などすぐに分かってしまう。

 紅孩児は本当に優しかった。弱きものの楯となる強さと誇り高さが彼にはあった。指示漏れを看護師の確認不足のせいにする医者というのは山ほどいるが、紅先生はあろうことか、看護師のミスをかばおうとするのだ。
「地下なんかニィ先生にまかせて、もっと閉鎖の上の階の面倒を見てやってくださいよ」
「そうそう」
「そうですよ」
 あっという間に賛同者が幾人も現れる。
「でも、紅先生がときどき来てくださらんと、下は本当に殺風景だからなぁ」
「ほんとに」
 地下の重症棟担当の男性看護師たちがお茶を手に溜め息をつく。紅孩児の労いの言葉でも受けなくては、勤まらぬ辛さがあの病棟にはあった。
「あらー仕方ないじゃない。あそこには私たちは入れないんだから」
「そうよ。何よあの鍵」
「たいそうな電磁錠だよねぇ」
「最新式なんだって」
「うわ、この病院、ボロなのにねぇ」

 鍵。

 電磁錠のカードキー。

 紅孩児は白衣のポケットに手をいれてはっとその目を大きく開いた。
あまりにも色々あって、院長に渡すのを忘れていのだ。
 電磁錠の鍵は書き換えられているから新しいカードキーを渡さないといけないだろう。

「すまん。用事を思い出した」
「ええっ」
「お茶、飲んでないですよ先生」
「すまん。地下の一番奥の病室の鍵を院長に渡してないんだ」

 地下の

 一番奥の

 病室

――――瞬間、周囲が異様なほど静まりかえった。
 
「……それって周りの病室が空き部屋にされてるっていう、奥の病室ですか」
 若い看護師がおそるおそるという調子で口を開いた。
「ああ、あの……」
 周囲のスタッフがとたんに言葉を濁した。地下には確かに空き部屋があるはずのに、閉鎖から重症棟へこれ以上患者をうつせないのは有名な話だった。地上のナースセンターにも極秘の重要な連絡事項として入っているのだ。
「……あの部屋に誰がいるのか、知っているのか」
「そりゃ、まぁ、ねぇ」
 敬愛している紅先生に直接真剣に尋ねられ、皆しぶしぶ口を開きだした。
「いや、院長先生は隠してなさるけどさぁ」
「昔はほら 『あのひと』 保護室にいたじゃない? 」
「保護室? ここの? 」
 看護師のひとりが、ナースセンターの向こうを指差す。ナースセンターの近くには急性期の患者専用の保護室があるのだ。最新式の衛生的な仕様だ。
「ちがうちがう。4階の」
「4階? 4階に保護室なんてあったっけ」
 4階はほとんど人の気配のない階だった。病室も前時代的な鉄格子の嵌った檻のような昭和の頃の保護室しかない。検査室や倉庫扱いの部屋が多かった。昔の病院にはよくあることだ。「4」の字が死に通じるとして病室にするのを避けられたのだ。
「昔の、大昔の保護室よ」
「そう、403号室だっけ。有名だよね」
「綺麗な男のひとがいるの。私見ちゃった。ホント異様でさ」
 応急の薬を届けに行ったことのあるものが声をひそめて言う。
「真っ黒な髪で、緑色の瞳で、ぞっとするくらい整った顔してて」
「人間じゃないみたいに綺麗なひとだっていうよね」
「出入りの布団業者さんも言ってたよね」
「その男のひとなんでしょ? いま地下の奥にいるの」
「脱走騒ぎを起こしたんだよね? 違ったっけ」
「エビデンスは? 根拠もないこと言わないでよ」
「いや師長、ホントらしいですよ。でも、先生たちもあんまり言いたがらないんだよね。そのこと」
 たちまち大騒ぎになる周囲の声を聞きながら、紅孩児はポケットのカードキーを白衣の表から触れた。薄くて硬質な感触が、どこか冷たい印象だった。



 もう、午後も遅かった。


 紅孩児は院長室へ行く途中で、運よく院長に会えた。
「院長」
 夕方の光が、1階の窓ガラス越に降り注ぐ。金の帯のような光だ。
 院長先生は、階下へと続く、エレベータの扉の前に立っていた。その白衣は夕日の色に染まり、神々しい金の髪は照らされて、より豪奢にきらめいている。
「なんだ」
 紅孩児に呼び止められ、白皙の美貌が振り返った。苛立ったような仕草で紫暗の瞳を向ける。機嫌が悪い、というのともそれは違った。密かな愉しみにしている何かを邪魔されそうになって苛立っている、そんな表情だ。
「これを、渡ししそびれてました」
 カードキー。
 黒い、プラスチック製のカードキー。斜めに金色の線が走り、そこに警備会社や電磁鍵の製作会社名が記載されている。
「……なに」
 院長は紅孩児の手にしているカードキーを認めて、その紫色の目を見開いた。
「なんだこれは」
 警戒している。声が硬くとがっている。
「先日、電磁鍵の会社から渡されました。地下病棟の鍵が調子悪くなってきたので更新したんだそうです。 これは一番、奥の鍵だそうです」
「俺はそんな話は聞いていねぇ」
 三蔵はもう一度、目を細めて紅孩児を睨んだ。その目つきには先ほど、院長室で問い詰められたのとは違う迫力があった。
「俺に伺いも立てないで勝手な真似を――――」
 三蔵は何かを脳裏から思い出そうとするような目つきをした。そう。先日、忙しく目を通していた伺い文書のひとつに、『地下病棟の鍵の定期的なメンテナンスについて』 と表された書類があったのを思い出したのだ。
「チッ」
 舌打ちをひとつした。彼にしてはうかつだった。しかし、あの書類は実に地味な書類だった。さりげなかった。伺いを起案した者の名前すらついていなかった。
「この鍵、スペアだのは無いんだろうな。ああ? 」
 三蔵は低い声で言った。脅迫じみた響きが声に潜んでいる。いや、脅迫じみた、ではなかった。院長は明らかにこの青年医師のことを睨みつけて脅迫していた。
 紅孩児は驚いて目を見開いた。院長の表情には怒りというより不安がひそんでいた。密林の奥、朽ちた壮麗な神殿の奥で、大切な大切な宝物を守る、聖なる金色の豹のようだ。こんな院長を見たのははじめてのことだった。
「――――カードキーのスペアがあるとは聞いてません」
 紅孩児は持ち前の生真面目な口調で答えた。誠実な表情だった。落ち着こうと心がけている口調だ。実際、紅孩児はここまで、三蔵がムキになる理由がさっぱりわからなかった。
「フン」
 三蔵は紅孩児の手から、カードキーを奪うように受け取った。この赤毛の王子様に限って、嘘などつくわけもなかった。誠実な男だった。何しろ同僚の看護師をかばうような人柄だ。
 その時、エレベータの扉が静かに開いた。
「この鍵が、もう1枚ほかにあったら、てめぇ殺すぞ」
 エレベータに乗り込むとき、すれ違い様に三蔵は紅孩児へ囁いた。低いが苛烈で、凄みのある声だった。
「!」
 紅孩児が振り向こうとしたとき、エレベータのドアは閉まった。美しい死の天使によく似た、白皙の病院長を乗せて。

 紅孩児は呆然とした。院長のいつもと違う表情、立ち居振る舞い。
先ほど院長室でもすごまれ、睨まれたが、あれはあくまでも 『院長』 としての業務の範囲内の怒りだった。
 しかし、今のこれは。どういうことなのか。
 どうしてカードキーの更新ごときで。あの冷血な院長がここまで激昂に近い反応をするのか。あれは三蔵の 『院長』 としての分を超えている。あれは三蔵個人の、私人としての感情に違いない。

 紅孩児は圧倒されたまま、ぼんやりとエレベータの前でとどまり、顔をあげてその停止階表示を眺めていた。
B1階の表示で明かりが点燈している。院長は地下へ行ったのだ。
 紅孩児はすかさず 『上』 の矢印ボタンを押した。どうしたって今日は階上へ行かなくてはいけない。仕事がたくさん詰まっている。周囲だって皆、いそがしいのだ。
 優先順位を考えるのだ。優先順位、優先順位だ。
 病棟は慢性的な人手不足だった。看護主任がシフト表を埋められなくて悩んでいるくらいだ。師長は急性期出身だから、効率を考えるタイプで無駄は少ないはずだった。それでも時間がないのだ。看護記録を書くために皆、残業している。

 赤毛の若先生は一生懸命考えていた。

 先ほど、休憩室で聞いたとおり、もっと自分は閉鎖の他の病棟に関わらないとだめなのだ。午後のカンファレンスにも、もっと立ち会わなくては。それから今夜は病棟会議があるはずだ。同僚たちの仕事の状況をしらなくて、連携ある医療や看護などできようか。

 理性がそう叫んでいる。

 でも、

 紅孩児は、階上へ向かうエレベータに乗らなかった。
 いや、乗れなかった。

 手が自然に動いていた。『下』 を意味する矢印のボタンを押していた。
――――エレベータは、地下の重症棟へ向かう乗り物になった。今までの明るい理性が支配する科学的な 「エレベータ」 と呼ばれるものから、何か陰惨な気配すらただよう金属の箱にそれはたちまち豹変し姿を変えたのだった。

(好奇心、猫を殺すってコトバ、知ってる? センセ)
 ニィの言葉が、耳に重くよみがえってくる。
 そんな考え事をしているうちに地下についたらしい。かすかな衝撃の後、エレベータの扉がゆっくりと開いた。
『地下1階です』
 無機質な機械音が響く。
 エレベータを出ると、まっすぐに目の前にある重症棟の扉に向かった。鉄格子のドアをあけ、二重仕掛けの鍵をあけて、その奥にある重い鉄製の扉を開く。冷たい金属の感触が伝わってくるが、紅孩児はどこか気もそぞろだった。鈍い金属のきしむ音がした。
 リノリウムの白い床に革靴の音が反響する。白い、無愛想な宿直室のドアが見える。どこかそっけなく寒々とした佇まいだった。黙って紅孩児はドアを開けた。
「ニィ」
 同僚の医師の名を呼んだ。
 しかし、ニィ健一は今日に限っていなかった。部屋にはコーヒーと、タバコの匂いが濃くただよっている。パイプ椅子も主がいなくて寂しそうだ。軽量スチールでできた机の上には、うさぎ柄のマグカップが空になって置かれている。あのカラスに似た男が席を立ってから、そんなに時間はたっていないに違いない。
 紅孩児は後ろをそっと振り返った。白い寒々とした廊下が続いている。
 そこに院長の姿はなかった。

 彼は確かに階下へ、この重症棟へ行ったはずだ。それなのに院長はいない。

 考えられることはひとつだった。

(触らぬ神に祟りなし……ね。お利口になった方がいいよ。下手するとあのサディストに殺されちゃうよ? )
 ニィの言葉がまた脳裏をよぎる。

 いままでだって、こうしたことは幾らでもあった。しかし、なんで今日に限ってこんなにも気になるのだろう。
 紅孩児は歩を進めた。天井の蛍光灯まで金網で覆われた殺風景な病棟だ。ここは人手が少ない、いやむしろ人手を厳選しているという方が正しい。ここは特殊なところだ。
 幾つもの病室の前を、幾つもの無機質なドアの前を通り過ぎた。記号のように、ドア横に名前が並ぶ。ほかの病棟と違って顔ぶれに入れ替わりがないので暗記できてしまいそうだ。奥へ奥へと歩くと、空き病室の前まできた。ほとんど都市伝説のようだ。なんのために、空けているのか、わけがわからない病室が並ぶ。3部屋もある。正気とも思えない。
 紅孩児はほとんど、ここまで来たことはない。ニィからきつく 「関わらなくていい」 と言われていたからだ。それに奥まで行こうとすると、ベテランの男性看護師の顔つきが曇った。というか、いつも口が堅く無口な掃夫までもが、紅孩児へ咎める視線を送るのだ。何も、先生のようなお方が関わらなくったって、こんなところ近づいちゃいけませんや。ここには悪魔がおりやすよ。

 貴方は、愛されているんですから、明るい日の当たるところだけ歩いていればいいんですよ。

 紅孩児は気がついてもいなかったが、周囲からそう言われ続けていたのだった。

 それでも今日、とうとうこの一番奥の病室まで来た。やっと独りになれたのだ。ようやくたどりついた。
 無機質な鉄製のドアが立ちはだかる、ひとを阻むような鋼鉄製で、分厚くできている。病室の内部を確認するための小窓もない。微妙に他の病室のドアとは違っている。確かに、ここだけ鍵が違う。利便性を考慮して、他のドアの鍵は共通だった。しかし、ここだけはどこかものものしい。
 白いリノリウムの消毒された床の上で、紅孩児は立ち尽くしていた。どうして、こんなことをしているのか、自分でも分からなかった。
 それでも、心のどこかで、院長はこの病室にいると確信していた。根拠がないのにだ。エビデンスは? 師長の口癖を思い出し、紅孩児は少し微笑みを浮かべた。

 その時だった。

「あ……ッ」
 微かに、鉄のドアの向こうから妖しい声が聞こえた――――気がした。
 人が病室の中で苦しんでる。紅孩児はそう思った。
「だ……」
 大丈夫ですか。そう叫んで、ドアを叩きそうになった、その瞬間。
「八戒……」
 聞き覚えのありすぎる声がした。語尾はかすれて、上手くドア越しでは聞こえない。
「……の……か」
 甘い声音だった。あの男のこんな甘い声色は紅孩児は聞いたこともなかった。本当にあの男なのか、確信すら持てなかった。
「ああ……ッ」
 甘い喘ぎ声……が聞こえてきた。
 はじめて聞く声だった。いままでに聞いたことのない蕩けるような淫らな声が漏れ聞こえてきた。
「あッ……あッ……」
 ひとが、性的なことで感じている、甘い吐息と喘ぎ声。たて続けに気をやっているのだろう。狂おしいような蜜声がドアまで滴るように漏れ聞こえてきた。
 紅孩児はドアを叩こうと振り上げた手を下ろした。愕然とした。中で起きているのは異常な事態だと、ようやく分かってきたのだ。
「ダメ……ぇ」
 声はくぐもり、反響してはっきりとしない。思わず、紅孩児はドアに耳をつけた。
(好奇心、猫を殺すってコトバ、知ってる? センセ)
 ニィの言葉が再度、胸をよぎった。しかし、どうしても自分の行動を抑えられなかった。
 雑音と、くぐもった音が鉄のドア越しに伝わる。冷たい金属の感触ももう気にならない。紅孩児はドアへと耳を寄せた。
 今度ははっきりと聞こえた。
「……さんぞ」
 甘い声の主は蕩ける口調で男の名を呟いている。
 さんぞ。
 誰のことを指して言っているのかは、明々白々だった。が、それでも信じられなかった。
(綺麗な男のひとがいるの。私見ちゃった。ホント異様でさ)
 昼間聞いた言葉が頭の中をめぐる。脳が思考を停止しそうになっていた。
「ああ……さんぞ」
(真っ黒な髪で、緑色の瞳で、ぞっとするくらい整った顔してて)
「あ……ダメ……も……」
 甘い、蜜のような蕩ける声が耳に届く。
「ダメじゃねぇだろ」
 紅孩児は頭を殴られた気がした。それは確かに院長の声だった。今度という今度は、はっきりと分かった。
「ああッああああッ」
 本気でひとが遂情する声が甘く甘く響いた。聞くものの耳朶を蕩かすひどく淫らな声だ。
(人間じゃないみたいに綺麗なひとだっていうよね)
 しばらくの間、ドアの向こうからは吐精した後の荒い呼吸音が聞こえてきていた。院長のいたわるような珍しく優しい、しかしくぐもった声と、何かをなめすする音が聞こえてくる。
「最近、病室に俺以外の誰かが来たか? 」
「え……そんな……ことな……ああッ」
 ぴちゃ、ぴちゃと淫猥な水音が立つ。その音にあわせるような、悲痛で甘い悲鳴がひどくなってゆく。
「くぅッ……いやぁッ……ああ」
 ほとんど泣き声だ。それにしても艶かしい啼き声だった。男の情欲を直撃するような声だ。
「あっああっ」
「いやらしいヤツだ。また勃ってきてるぞ」
 白皙の院長先生。あの美しい男がこんな性的な言葉を口にするとは想像もできなかった。性欲などないとまで思わせるような麗しい男がこんな嗜虐的で性的な言葉を口にしている。
「ダメ……で」
 くちゅ、くちゅという淫音が立つ。おそらく、硬くなってしまった性器を再び口で慰められているのだろう。
「ダメじゃねぇだろ、なんて言うんだ? こんなときは。教えただろ」
「さん……ぞ」
「ここ、俺の指くわえて放さないぞ。このドスケベが」
 サディスティックな声だった。金糸の髪をした男の声だ。いつもの院長先生は居丈高だが、美しすぎて性的なことは微塵も感じさせない。ものすごい落差だった。
「ひッ……! 」
「指、曲げられるとどうだ」
「さんッ……ぞ」
 わなないているのか、声が震えている。
「腹側のココをこすられると……たまんねぇんだろうが」
 肌に口づけているのか、口吸いの音が微かに鳴った。狂ったような喘ぎ声が響く。
 紅孩児はドアに耳をつけたまま、ずるずるとそのままの格好で座りこんだ。衝撃が強すぎて立っていられなかった。
「……抱いて……さんぞ……お願い」
 涼しげで知的で優しい声が、この上もなく淫らでいやらしいことをすがるようにお願いしている。これは空耳だろうか、もはや現実とも思われなかった。院長が笑う声がした気がした。衣擦れの音がそれに被さるように伝い聞こえ、そして、
 ぬぷ、ぷ、くちゅ
「ああッああああッ」
 淫らな悲鳴が上がった。院長と繋がっているだろう場所から立つ、淫らな粘着質の音が聞こえる。院長と交わり、相手の男は肉筒をくねらして悦んでいるのだろう。凄艶な中の様子が音だけで想像できた。極めて性的な音だった。聞いていると脳内が真っ白になりそうだった。
「はぁッはぁはぁッ」
「そんなに締めつけるな。そんなに欲しかったのか、コレが」
 いやらしい声で嬲っている。くぐもった声は笑いを含んでいた。
「はぁッ」
 もう、返事もできなくなったらしい。院長の情事の相手は言葉にならない喘ぎ声を漏らし続けていた。
「また、イッ……たのか。ったく」
 三蔵が扉の向こうで囁く声が、切れ切れにうっすらと聞こえる。相手の 「黒髪の男」 を喰うように抱いているのだろう。
 紅孩児は以前、カルテに書かれていた患者の名前を思い出そうとした。ダメだった。耳から聞こえる物音が、言葉が異常すぎて、もう何も考えられなかった。耳から入ってくる淫蕩な音に耐えるのが精一杯だった。
「ああ、さん……ぞ」
 肉が肉を穿つ淫らな音が響く。
「は……っか……」
 切れ切れに院長の声が漏れる。尻肉を腿が打つ音が規則的に響きだした。絶頂が近い。
「あ…………! 」
 『真っ黒な髪で、緑色の瞳で、ぞっとするくらい整った顔』 をしているという男の甘い悲鳴がドアを通じて紅孩児の耳に届いた。ひどく官能的な声だった。その声だけで自慰ができるような。
「くぅッくぅ……ぅ」
 荒いふたり分の吐息が聞こえる。院長の体液を、ねばねばした白濁液をその白い尻に注がれているのだろう。鼻から抜けるようなくぐもった声が漏れる。布か何かを咥えて、悲鳴を抑えようとしているような声だ。
「あ……ッ」
 感じきって情を遂げ、力の抜けた身体を抱きしめられたらしい。声が甘く震えている。艶かしい声だ。おそらく声と同じようにその白い肌も腰も尻も腿も震えているのだろう。

 紅孩児は気がつくと、ドアの前にすっかり座りこんでいた。冷たかったはずの鋼鉄のドアは、もう紅孩児の熱で、表面が曇りそうなほどになっている。
 呼吸が荒くなっている。息が苦しかった。でも息を吐いたりしたら、病室の中の院長に自分の存在を知られてしまうかもしれない。
 赤毛の医者は、痺れたようになっていた身体をそっとドアから引き剥がすようにして立とうとした。
立とうとして、立てない原因がようやく分かった。
「…………」
 すっかり、紅孩児のそれは硬く勃ちあがっていた。思わず、かがむしかなかった。こんな不品行なことは今まで生きてきて初めてだった。恥ずかしさに顔を赤らめた。うなってしまいそうなのを、奥歯を噛んでこらえ、そっと足音を忍ばせ、這いずるようにして 『一番奥の病室』 の前からなんとか辛くも立ち去った。



 

 

 それから、
 この日以降、

 『一番奥の部屋』 の前でぼんやりとたたずむ紅先生の姿がときおりみられるようになった。
しかし、それに気がついたのは、地下病棟の看護師たちくらいだった。彼らは心配そうに眉をひそめてお互いに目配せをし、首を横に振った。そんなときの紅先生の表情は何かにとり憑かれたようで、いつもと違っていたからだった。

 一方、ニィといえばそんなことがあったとは全く気がついていなかった。




「ハルシネィション22へ続く」