ハルシネィション(20)

 間一髪のところで患者は死なないで済んだ。
「本当にあぶないところだった」
 ICUから戻ってきた紅孩児が憔悴しきった様子で椅子に座った。着ている白衣にも皺がよっている。天井では蛍光灯が昼なのに灯っていて、コンクリートの白壁は冷たく、どこかよそよそしい。

 地下の重症棟。宿直控え室だ。

「もう少しで本当の手遅れだった。なんとか脳死自体も免れたようだ」
 赤毛の男は淡々と喋っている。身じろぎをしたので、合革の背もたれが体重を受けてかすかに鳴った。
「あの患者が死なないで済むとはね」
 ニィがインスタントコーヒーの瓶を手にしたまま振り返る。
「ああ、患者の家族にも説明してきたところだ」
 心なし、やつれた顔つきで紅孩児は言った。
「……ボクが説明するようにって院長センセに命令されてた気がするんだけど」
 ニィは片手でマグカップを差し出した。芳しいコーヒーの香りが鼻をつく。
「ブラック飲めたっけ? 砂糖入れる? 」
 珍しいこともあるものだった。この冷血な男が他人の為にコーヒーなどいれているのだ。
「ああ、そのままで大丈夫だ。すまん」
 紅孩児は礼を言うとニィの手からマグカップを受け取った。
「いや、患者のご両親には俺が説明してきた」
 紅い、どこか猫に似た瞳をニィから逸らす。ささやくような小声だった。
「この件は貴様でなく俺のせいだ。責任感じている」
 王子様はニィに黙って患者の家族に事の顛末を説明してきたことを詫びた。彼らしかった。
「それで? 」
 ニィは紅孩児に背を向けたまま訊ねた。メガネが天井の蛍光灯の明かりを反射して白く光る。
 沈黙が地下に流れた。壁にかかった時計の秒針が時を刻む音のみが耳に届く。
「患者の親御さん告訴するって言ってた? 」
「告訴はしないそうだ」
 紅孩児が手でマグカップを包むようにした。一拍おいて、コーヒーにゆっくりと口をつけた。
「そう」
 ふたりの医師の間に安堵の気配が流れた。穏便に済みそうだった。

 微妙な問題なので、警察は介入してこない。最初に立ち会っただけだ。処方量も適切なので何も言われなかった。

 後は、法廷で決めて下さい。親告罪ですね。官憲はこの領域へ足を踏み入れられません。罪なのか、罪でないのか微妙な問題ですから。どうしてもと仰るなら手続きをして裁判官に裁いていただいて下さい。

 そういう事態だった。

「ご両親は患者が退院させられてしまうことを、ひどく恐れていた」
 紅孩児がニィから視線を外したまま説明する。
「フーン」
 よくあることだった。ニィは自分のマグカップを手に、紅孩児へ向き合うようにして椅子に静かに腰掛けた。
「ずっと今までどおり入院させてくれるなら、告訴はしないと言っている」
「そう……」
 よくある、精神病院での親族との会話だ。
「悪かったね。イヤな役、やらしちゃってサ」
 ニィ先生が自嘲する形に口を歪めて下を向いた。カラスの濡れた羽のような髪が、宿直室の殺風景な蛍光灯の明かりを受けて艶を放った。
「いや、俺も今回は考えさせられた」
 紅孩児は患者の両親に会いに家へ行き、状況を説明した。ハロペリドールを処方していたこと、麻酔から醒めたものの、ハロペリドールも相当効いていて、ベッド柵に首をはさんだままになってしまったことを。
 しかし、両親から返ってきた言葉は 「それではあの子はもうそちらで面倒を見ていただけないのですか」 だった。
 狂患の家の居間は穴だらけだった。患者が思春期の頃、宇宙人が攻めてくると言って、家中の壁に穴をあけたのだという。

 悲惨だった。

 紅孩児は黙ってコーヒーをもう一度口にした。芳しくて苦味があるが、コクがありほのかな酸味が舌を痺れさせる。
「ご両親は、正確に理解している。俺たちが薬を投与しすぎたことも、病院に息子が殺されかかったこともな」
 紅孩児がその意外に長いまつ毛をやや伏せながら言った。
「それでも、ご両親は俺を非難もしなかった」
 紅孩児は苦笑に口元を歪めた。
「それどころか――――」
 自嘲とないまぜになった辛そうな笑みを浮かべた。
「ご両親から俺は最後に言われてしまった」
 手にしたコーヒーの湯気をじっと見つめながら呟く。
「先生、今まで、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします――――と」
 紅孩児は静かに言った。
『あなたの息子さんに病院で薬を盛りすぎて殺しかけました』
 そう紅孩児は言ったはずだった。いや言ったのだ。この王子様は正直に言ったのだ。それなのに、
 いつの間にか家族から逆に礼を言われてしまったのだった。
 息子が殺されかけても、相手を憎むことすらできないのだ。それほどの苦悩が患者の家族にはあった。そう、あれほどひどい患者の狂気はとても一般家庭などで看きれないのだ。
 重症の狂患の看護は地獄だ。血しぶきの飛んだ壁、割れる窓ガラス、近所からの苦情、警察への通報、謝って謝って謝って謝り倒して一日が終わるのだ。毎日だ。

 そのうち、警察官通報(精神保健福祉法23条)により措置入院になる。

 もう悲惨すぎて、病院側を非難する気にすらならない。むしろそんな地獄から救ってくれた病院に対しては感謝しかないのだ。本当に感謝するしかない。
 まして、昨今は精神医療福祉法の改正(2014年4月施行)や、医療点数の関係で長期入院など拒否する病院が多いのだ。
 
(患者が死んだって問題なんか起きねぇ。起きようがない)

 紅孩児の言葉を聞いて、一瞬ニィの耳に院長の声がよみがえった。
(てめぇらはキチガイ病院の医者として、自覚が足りなさすぎなんじゃねぇのか。俺らが 「何」 を相手にしてるか、分かってねぇな)
 あの金糸の髪の男は、正確に理解していたのだ。正確に理解して薬を増量するように言っているのだ。
 ニィは頭を殴られた気がした。あの白皙の院長のことが、いよいよ死神とか魔物の眷属としか思えなくなった。見透かしている。彼は何もかもを見透かしているのだ。死を告げる天使のようだ。賢すぎて薄気味悪い。

 ハロペリドール、クロルプロマジン、リスパダール、ベゲタミン、クロザリル。普通の人間は飲むことすらない抗精神病薬。王道のメジャートランキライザー。
――――飲む拘束服と悪名高きこれらの薬も、周囲にとっては救いの 「魔法の杖」 なのだ。
 薬を飲めば、暴れて家の壁に穴をあけガラスを割っていた家族が大人しくなる。
 それは患者の身内にとっては本当に画期的なことなのだ。
 たとえ、それが凶暴な薬理作用で神経を麻痺させ、動けなくなっているだけにしても、これらの薬が効いている間だけ、患者の家族はようやく息がつけるのだ。
 厚生省見解が 「これらの薬を飲み続けても後遺症はない」 と嘘八百を並べるのは、患者本人のためではないだろう。それはひたすら周囲の人間達へのためなのだ。

 ニィのかけた眼鏡のつるが蛍光灯の明かりを反射して光る。
 紅孩児の話を聞いて、どうしょうもない苛立ちに彼は襲われていた。虚無と怒りがない交ぜになった極めて複雑な感情だった。
 しかし、少なくともそれは――――怒りについては間違いなく、三蔵へ向けられていた。

 いまや、目の前に座った紅孩児も黙っている。宿直室には薄暗く白茶けた暗い雰囲気が漂っていた。壁を隔てた廊下の向こうからは、狂患のうめき声や哄笑がかすかに漏れ聞こえてくる。

 マグカップの中のコーヒーは、すっかり冷め切っていた。






 どのくらいの時間が過ぎたのか、
「俺は院長へ説明に行ってくる」
 紅孩児はそう言って、宿直室から去った。

 この病院は古い。

 2重の鉄格子と鋼鉄製のドアを抜け、エレベータで地下から1階へ上がる。古い病院の1階だから1階といえど採光はあまりよくない。現代風の窓を大きくとった明るいデザインは建築技術が発展した現代だからこそなしえる技術なのだ。

 しかし薄暗いとはいえ、暗さが地下と地上では全く違った。地獄と現世ほどの差があった。紅孩児がエレベータを出て白いリノリウム張りの床を歩く。途中から地獄の業火に似た色の絨毯が敷かれている。等間隔に置かれた観葉植物の背の高い緑が潤いを添えるが、なんだかどこかがひどく禍々しい。

 廊下のつきあたりに院長室はあった。磨きぬかれた樫材でできたドアに「院長室」と表札がかかっている。重厚で威圧感のあるドアだ。真鍮製のドアノブが光っている。前時代的なつくりだ。
 紅孩児は一瞬ためらったが、深呼吸すると勢いよくノックした。質のよい木材をつかっているのか、小気味のいい音が鳴って白い廊下まで反響する。
「入れ」
 仮にも長と呼ばれる立場ならば、このような場合は 「どうぞ」 などと言って人を招き入れるものだ。それが、中からの応えは 「入れ」 命令形だった。えらそうだ。傲岸不遜だった。これでは昔の軍隊だ。Come in! 院長室というよりこれでは司令室のようだ。
 赤毛の医者は仕方なく真鍮製のドアノブを回してドアを開けた。果たしてそこには不機嫌そうな院長が鎮座していた。天井近くまである大きな窓を背景に、豪奢な金の髪は光を受け高貴な輝きを放っている。
 紫檀の大きな机の上には書類がいくつも山をつくり、ついでに雪花石膏アラバスター製の灰皿も吸殻で山になっていた。紅孩児は部屋の手前に置かれた応接セットの横を通って院長の前まで進みでた。
「なんだ」
 黄金で作ったのかと見紛うほどみごとな金の髪がその頭を飾り、その額には聖別されたもののような痕が印されている。白衣を着、マルボロを吸いながらひたすら書類へと目を落としていた。紅孩児のことは見もしない。
「報告があります」
 紅孩児は淡々と告げた。院長は構わず、書類へ判を押している。ひどく彼は仕事を急いでいるようだった。
「昨夜の患者のことですが」
 院長ははじめて顔をあげた。その濃い紫色の瞳で射るように紅孩児を見つめてくる。
「なんだ。死んだのか」
「いえ」
 紅孩児はいいよどんだ。死神に首根っこを押さえつけられる。そんな錯覚が院長に見つめられた瞬間走った。
「それじゃなんだ。まだ生きてんのか」
 院長は目を細めた。金色のまつ毛がその瞳の周囲に不吉で華麗な装飾品のごとくきらめいている。この死告天使のように美麗な男がくたばりぞこないめと小声で吐き捨てたのを紅孩児の耳は確かに聞きとった。
「脳死したか」
「いえ、せいぜい麻痺が残るくらいでしょう」
「フン、キチガイめ体だけ頑丈にできてやがるな。親泣かせなヤツだ。くたばっちまえば親もほっとするだろうにな。それで、あのクルクルパーは扱いやすくなったのか。それとも看護の手ェ増やすようなのか」
 このひとは確かに華麗な死神そのものだ。紅孩児はそう思った。
「それはまだ、なんとも言えないようです」
「クソ、面倒くせぇ」
 院長は舌打ちした。確かにこうした事故すらもが精神病院の日常茶飯事のひとつと言えば言えなくもない。昔なら、昭和の頃なら簡単にもみ消せた。人権団体だのなんだのがうるさくない時代の頃は認知症の患者を集めた 「不潔部屋」 まである悲惨さだったのだ。電パチだって生電パチだったので状況次第では死者が出た。それらも全てきれいにもみ消してきたのだった。
 患者が死んだって、こっそり感謝されこそすれ、非難などされるはずもなかった。どの道、この病院にいる患者たちにこの世での居場所などないのだ。

 死者と生者の間のような存在。それが精神病院重症棟の患者だ。

「それで、家族は告訴すんのか」
 それが一番の問題だった。状況次第では、顧問弁護士に相談する必要がある。
「あの馬鹿は説明に行ったんだろうな」
 畳み込むように三蔵は訊くと、短くなってきたタバコを灰皿でもみ消した。とはいえ、吸殻が山になっているので、灰皿の縁で消して、吸殻を中に捨てるという有様だった。
「いえ、ニィ先生ではなく俺が行きました」
 紅孩児はきっぱりと答えた。
「てめぇ」
 院長はうなった。高貴な肉食獣が出すような声音だった。
「患者は死にませんでしたし、それになによりこれは病棟主任の俺の責任です」
 その、優等生すぎる返事を聞いて、院長は鼻白んだ。
「青二才の癖しやがって。てめぇの責任なのか、けっ……笑わせやがる」
 三蔵は紅孩児を片目を眇めて睨みつけた。
「それにしても、役立たずが。俺の質問に答えてねぇな。告訴すんのかしないのか言え」
「俺などが言わなくとも院長先生なら、もうお分かりでしょう」
 赤毛の医者は苦笑を浮かべ淡々と言った。その自嘲の表情を見て、三蔵はより一層目を細めた。紅孩児の心の動きを量ろうとしているような視線だった。よく知性の優るものが他人に対してやる密かに相手を観察する仕草だ。
「ともあれ顧問弁護士は手配されなくともよろしいようですよ。院長先生」
「フン。告訴しねぇのか。まぁそんな面倒、したくねぇんだろうな。アイツらも」
 三蔵は鼻を鳴らし、眉根をひそめてあらためて紅孩児を睨みつけた。意外と目の前のお坊ちゃまは男らしく骨があった。三蔵の鋭い視線にもひるまない。先日、震えていた若い事務員などとはえらい違いだ。この病院の叩き上げのベテラン医師達だって三蔵に怒鳴られれば恐慌をきたして右や左をあたふたするというのに、いやいや、この若先生はなかなか肝が据わっていた。
「報告が終わりましたので失礼いたします」
 紅い豪奢な絨毯を踏んで、紅孩児が下がり礼儀正しく深々と一礼する。その背でひとつに結んだ紅い長い髪がかすかになびいた。赤毛の王子様はきびすを返すと院長室から出て行った。清廉な立ち居振る舞いだった。ドアがゆっくりと閉まる音が部屋に響く。  
 しかし、そんな真面目な王子様の後ろ姿を三蔵はもう、見てもいなかった。それより中断された仕事をすることしか関心がない。忙しすぎる彼にとっては何もかもすごいスピードで処理するのが習い性になっている。目の前の決済を待つ書類の山から一枚紙をとり、それに素早く目を通しはじめた。
 
 ひとの尊厳とは何だろう。人権とはなんだろう。ひととは、ひとの定義とはなんだろう。差別とは何から生まれるのか。ひとはなんのために生まれてきたのだろう。ひとは、ひととは本当に平等な存在なのだろうか。

 





「ハルシネィション21へ続く」