ハルシネィション(19)

 それから、数日後、

 不吉なことが起こった。

 夜の精神病院に、悲鳴が響く。
「先生! 先生! 」
 看護師の必死な声が廊下に反響する。
 閉鎖病棟の2階。ECT室だ。いつものように、重症棟の患者にECTをかけた後だった。
「患者が! 患者が!」
 すぐ連絡を受けたのだろう。白衣をひるがえして紅孩児が駆け込んできた。
「どうした」
 紅先生の顔色は紙のように白い。場慣れたベテランの看護師がここまで慌てるとはただごとではない。不吉な予感がしていた。
「ベッド柵に首をはさんでいたんです……! いつの間に」
 言われるまでもなく、紅孩児はベッドの傍に駆け寄った。簡易な搬送用のベッドだった。
患者の顔色は紫色だ。傍に点滴のチューブ、中にたっぷりと抗精神薬が入った生食パックが上から釣り下げられている。患者の首は不自然に歪んでいた。ベッドの細く白い金属性のパイプ柵のひとつに、首をひっかけるようにして、患者は首をねじっていた。
 しかし、妙だった。普通の人間ならそんなところへ首をひっかけようがないし、かけても苦しくて普通、起きるだろう。
「ECTの後、様子を見て地下の病室へ運ぶところでした」
 目を離したのは、ほんの20分くらいの間だった。
 魔でも通ったかのような空白の時間だ。手も足りず、いや手が足りなくとも法律が「それでいい」と保障してくれている精神病院特有の慢性的な人手不足が招いたような事故だ。
 紅孩児が心臓に耳を押し当て――――聴診器の類は首にかけていなかった。患者の瞳孔を覗き込み、
「……心停止している」
 呆然と呟いた。そんな紅孩児の背後から突然冷静な声がかかった。
「救急に連絡して」
 閉鎖の看護師長がするどい口調で命じていた。ナースステーションへ緊急の呼び出しが入っていたので、かけつけたのだ。
「院長へ報告した? 」
 師長が小声で質問するのと同時だった。同じくらいに連絡を受けたのだろう。
「早く近くのICUに連絡取れ」
「院長!」
 金の髪をした死の大天使。三蔵が現れた。真夜中に現れるのがふさわしい不吉な美しさだ。
「ICU、いずれも満床と言われました」
 看護師が首を振り、悲痛な口調で告げた。
「バカが! すぐ空けさせろ! 何のための提携病院だ! 」
「警察は……」
 師長の顔が強張っている。この状態から回復しても心停止から何分も経っているのだ。脳死はまぬがれないだろう。
 最悪だった。
「それより患者の家族に連絡とれ。全てはそれからだ」
 医療事故の一文が全ての関係者の脳裏をよぎる。
 不祥事である。不祥事中の不祥事である。
 明らかになれば、当然、管理責任をとらされる。
「院長」
「これは……医療、医療事……」
 担当の看護師が唇をわななかせる。働き者の彼女から、いつもの快活さは全く消えていた。
「バカが」
 院長から冷たい冷気のような気配が漂った。
「お前らはハロペリドール、何mg投与していた」
「は……」
「……おそらく、30mgほどです」
「間違ってねぇな。何の間違いもねぇ」
「院長!」
「ハロペリドール、最大投与量……か」
 ハロペリドール30mg/日。
 限界まで投与していた。
「そんなに薬盛られりゃ麻酔から醒めたって起きてられねぇだろうなそりゃ」
 三蔵が呆れた口ぶりで、うそぶく。
「だが、法になんざ触れてやしねぇ。ウチの医療行為に過誤なんざねぇな」
「……」
 夜だった。墨を流したような漆黒の夜だった。
――――紅孩児と看護師、師長はお互いの顔をそれぞれ見合わせた。
「しかし……」
 死んだ患者の家族は納得するだろうか?
 怪しむのではないか? 病院に殺されたと思うのではないか?
 そして、この病院は訴えられるのではないか?
「俺のせいで、患者さんが亡くなったんです。麻酔が醒めても、昏睡するような薬の処方を俺が」
 紅医師の肩が震えている。院長から看護師を守るように背にした。
「ち、違います、先生のせいじゃ! 私のミスです! 」
 看護師はあわてて口を挟んだ。紅孩児は看護師をかばおうとしている。
「俺のせいで、か」
 瞬間。
 三蔵は紅孩児の頬を張った。
「バカが」
「八つ当たりですかぁ? 院長」
 飄々ひょうひょうとした声がした。
「?」
 いつの間にかニィ医師が来ていた。知的で端正な顔立ち。眼鏡をかけているのに、襟足の長い黒い髪がどこか不真面目な印象だ。葬儀の行列を面白がって眺めているカラスによく似ている。
 油断ならない不吉な姿でこの修羅場へ現れた。
「このバカに、ちゃんと説明してやれ」
 院長が凍れる炎に似た口調でニィへ命令する。
「……」
 ニィは黙っている。
「それから、患者の家族にもよーく説明してこい。……てめぇがな」
 口もとに薄い笑いさえ浮かべながら、三蔵は言った。
「ハロペリドール30mg」
 三蔵はカルテを読み上げた。それによると錠に換算して約20錠のハロペリドールを毎日処方していた。
「レボメプロマジン300mg、リーマス、コントミン、レボトミン、ベゲタミン、イソアミタール、ジプレキサ、テグレトール」
 典型的な多剤大量処方だった。こんなに盛られては、動けなくなるのも当然だ。治そうと思っていない。動けなくするための処方だった。
 そりゃ、麻酔が醒めたって、ベッドの柵の間に首を挟んだってピクリともしないに決まっている。
「エグイ処方しやがって。ああ? 反省しろ、てめぇ」
「…………」
 エグイ処方。確かにエグイがなにしろここは重症棟なのだ。飲む拘束服。向精神薬など所詮そういうもののはずである。期待する方が間違っている。しょせん対処療法に過ぎないのだ。頭痛薬のようなものだ。頭痛は治まるが頭痛の原因は治せない。絶対に治せない。
 要するに精神科とは患者を治せない科のことをいうのである。自殺しようとする行動化を薬で時間かせぎして、自然治癒力に期待する――――それが精神科である。
 いや、期待などそもそもしていないのかもしれない。治りたいのは本人だけで、世間様は
――――治安上、迷惑でなければいいだけなのだ。極論すれば 「他人の人生などどうでもいい」  そうやって歴史的に発展してきたのが 「精神医学」 の正体だ。
 エグイといえば 「表」 の駅前クリニックの方がニィ以上だろう。「心の風邪」 の患者相手にもっとえげつない処方をしている。適切な薬を弱く処方すれば、患者が仕事を辞めなくともすむのに、もうけのため限界まで向精神薬漬けにするなんて普通のことだ。薬価を稼ぎたいのだ。
 そして、精神保健福祉法第32条があるじゃないですかと、悪魔のようにささやくのだ。とても人のすることではない。
 薬とはころばぬ先の杖ですよ。一生のみ続けましょう。大丈夫大丈夫……。精神科医の甘言や嘘を鵜呑みにしてはいけない。
――――それは一生治せないと告白しているも同然ではないか。
 それはともかく、ハロペリドール(セレネース)など、どんなに大量に飲んでも滅多に死ねるものでもない。
 100錠くらい飲んでも大丈夫と言われている。
 OD(オーバードーズ:過剰摂取による自殺)がたいてい失敗するのは、このためだ。精神薬なんて、もともと死ぬには帯に短しタスキに流しなクスリしかないのだ。
 しかし、三蔵は許さなかった。
「……最終的に薬剤処方指示したのは、てめぇだろうが。ニィ、てめぇで落とし前つけてこい」
 三蔵は、カルテの作成をした医師名を指ではじいた。確かにそこにはニィ健一と記されていた。
 紅孩児も必死でカルテを直していたが、特に難しい患者のは、ベテランのニィが作成したのだ。
 ニィは暗い目で三蔵を見た。誰だって、こんな役回りは嫌だ。
 これから、患者が死んだことをその家族に伝え、これこれこういう理由で死んだと伝える。当然、葬式にも出席することになるだろう。……献花だって、遺族に叩き返されるかもしれない。病棟主任の名を奪われたというのに、責任だけは以前どおりだった。
 いや、以前より悪くなっていた。
 三蔵からの嫌がらせも多分に入っている、そんな処遇にニィは沈黙した。
 そんなニィと紅孩児を院長は怒鳴った。
「てめぇらはキチガイ病院の医者として、自覚が足りなさすぎなんじゃねぇのか。俺らが 「何」 を相手にしてるか、分かってねぇな」
 金糸の髪を揺らしてふたりを眇めた目つきで見る。
「……そう。患者が死んだって問題なんか起きねぇ。起きようがない」
 謎めいた言葉を呟く。
「問題なんか起きない? 」
 その言葉に紅孩児が目を見開き、質問しようとしたその時、
 ETC室の内線電話が鳴り響いた。
 看護師があわてて受け取る。耳を受話器に当てるやいなや叫んだ、
「先生、救急車が来てくれるそうです! ICU、受け入れ可能だそうです」
「早く玄関へ搬送して! 急いで! 」
 看護師長の指示が飛んだ。
 不幸中の幸いというべきか、搬送用のベッドだったのでそのまま運べる。師長と看護師は並んでベッドを押した。ドアが開く、細い軋むような音を挨拶代わりにして、ETC室を後にした。静かな廊下の壁に搬送ベッドの車輪の音が悲鳴のように鳴り響く。
「オレもついていく。搬送先に直に説明してくる」
 紅孩児は院長やニィへそう告げると、師長たちと一緒に患者を救急病院へ運ぶために、ETC室から走って出て行った。

 患者も、師長も、看護師も、紅孩児も出て行った。
 ETC室はやたらと静かになった。
 後に残されたのは、不吉なカラスに似た悪魔と死の大天使――――漆黒のニィの瞳と、紫暗の瞳が正面から睨みあった。重く苦しい不吉な前奏曲のように、部屋にかけられた時計の秒針が神経質な音を立てる。真夜中の2時を短針は示していた。
 口を開いたのは、三蔵の方だった。
「それよりお前、このままで済むと思ってんのか」
 ニィを見つめたまま、その周囲を院長がゆっくりと歩く。詰問している。
「人ひとり殺しておいて罪悪感なさすぎなんじゃねぇのか。てめぇ」
 院長はふと足を止め、嗜虐的な表情を浮かべて舐めるようにしてニィを見つめる。
「落ち込んで鬱病くらいなってみりゃいいんだ。可愛げがねぇな、このヤブが」
 金の髪を揺らし、吐き捨てるように言う。
「仕事もうまくいかず、医療事故を起こして最近悩んでいたところ、不眠がちになり……とかな」
 クックックッと三蔵の不吉な笑い声が部屋に響く。
「俺がお前のカルテ、書いてやろうか」
 それはぞっとする提案だった。ニィは目の前の男の正気を疑った。
「遠慮するな。俺が特別な 『部屋』 用意してやるぞ、お前のためにな」
 金の髪をした死告天使。美しい紫暗の瞳に嗜虐的な光が閃く。
「…………」
 ニィは沈黙した。背中に汗をかいていた。
 異常だった。
 しかし、この男は本気なのかもしれない。いやな緊張感で口の中が渇いてゆく。
 コイツならやりかねない。ニィは密かに思った。
「自殺の可能性のある鬱病」 とカルテに書かれて、保護室にぶちこまれる。
 実に院長のやりそうなことであった。
 そして、その次は。その次は?
 重症棟にいる、アル中の患者のことが、ニィの脳裏に浮かんだ。恐らく、生殺与奪の全てをこの鬼畜な院長先生に握られるのだろう。
 目の前で、院長は愉しげに笑いだした。おかしくてならないというようにそのまま笑い続ける。
ニィは思わず唾を飲んだ。烏に似た漆黒の髪をしたこの医者は、今まさにこの瞬間、正しい解にたどりついた気がした。

 一番、狂っているのは誰だ。このキチガイ病院で、この中で一番、狂っているのは――――。
 それは最初から分かりきっていた。

 それはこの男、白皙の病院長様、
 三蔵に違いない。

 おそらくそれが正しい解なのだ。いつからかは知らないが、この院長先生はおかしい。普通の人間じゃない。ひとのふりをした鬼畜だ。
 そう。
 まともだったら、ただの不眠患者の八戒を陥れて監禁したあげく犯したりもしないだろう。
 恐れと、怒りがないまぜになった感情にニィは襲われていた。共食いをしようとする蛇が一瞬相手に対して恐怖を抱くとしたら、今のニィのようだろう。
 三蔵はまだ笑っている。本気でニィを閉鎖の重症棟にいれる気なのだ。
 ふざけるな。
 ふざけるなよ。この変態が。
 そこまで考えて思考が凍った。そして、
 次の瞬間、
 ニィの心に湧きあがったのは、強烈な怒りだった。確かにそれは純粋な憤怒だった。

 どうして、ここまで自分が憎まれなくてはいけないのか。
 どうして、ここまで自分が理不尽な目にあわなくてはいけないのか。
 こんなに長い間、何年も何年も真面目に勤務していたではないか。

 それを無かったことにされた。いやむしろ踏みにじられたのだ。

 憎かった、三蔵が憎かった。権威を、立場を、権力をかさに着てニィや病棟医をひとをひととも思っていない。あげくの果てには、自分を文字通り社会的に抹殺し、拷問し、飼い殺しにしてやるという。いままで、こんなにちゃんと勤務し続けてきたのにだ。
 それに、薬剤処方のカルテを書き直させたのは、三蔵のはずだ。ひょっとしたら、三蔵が書き直させなかったら、自分も紅孩児もこんな目にあってなかったのではないか。

 ニィは確かに追い詰められていた。
 漆黒の瞳で、ニィは三蔵を睨みつけた。それは人を殺せそうな目つきだった。確かに、ニィは報復を誓っていた。自分自身に、自分の尊厳に、自分の誇りに。

 辞めてやる。

 辞めてやるこんな狂ったところ。

 でもその前に

 この鬼畜な院長様が一番悲しむことをしてやりたかった。






「ハルシネィション20へ続く」