ハルシネィション(2)

 朝の爽やかな気配の中、八戒はひさびさにぐっすりと薬の作用で眠り込んでいた。
「……さん……猪……さん」
 看護婦に名を呼ばれ、体を揺すられて目を覚ました。体がだるい。薬剤による眠りから覚めるときは、やはり脳のブレーカーを落とすような無理な眠りのためか、自然な眠りよりも疲れがとれないというか、寝起きの感覚は不自然だ。起きるのがつらい。
 気がついて唖然とした。自分はロビーのソファで寝ていたのだ。昨夜の月は跡形もなく、朝の光に取って代わっていた。当然あの白衣の男もいない。
「一体どうしたんです?こんなところで寝て。」
 看護婦の声には若干の驚きと呆れが にじんでいる。八戒は少々うろたえたが、素早く自分の体と周囲に目を走らせた。着衣に乱れもなく、性的な行為がここで行われたようなことを伺わせる気配は微塵もない。八戒は安堵のため息をつき、看護婦にここに来た経緯を説明した。
「……そうだったんですか。眠れなくてナースステーションまで……。ごめんなさいね。昨日は緊急の用が起きて、当番の看護婦も、当直の先生も出てしまっていたから」
 当直の先生も出てしまっていたから。
 当直の先生も?
 では、昨夜のあの男は当直医ではないのか? あの男は何者なのか。
 声に出せぬ疑問にとらわれている八戒に向かって看護婦が言った。
「でも、猪さん薬なしでも眠れたじゃないですか。待ちくたびれてしまったんですね」
 看護婦がそう言って微笑んだが、八戒はとてもその笑顔に応える元気が無かった。




 午後になって八戒は大部屋の病室で本を読みながら過ごしていた。八戒は同室のアル中の男にまた声をかけられた。
「よぉ、あんた昨日の夜、どこへ行ってたんだ? 」
「ちょっと眠れなくて、外に出てました」
「へぇ……」
 不躾な視線を躰に浴びせられて、八戒は軽い嫌悪を覚えた。
「……俺が教えたとおりヌキに行ったのか? 」
 卑猥な問いに八戒は沈黙した。
「大部屋でヤルのがいやか? 俺が手伝ってやったのによ」
 下卑た笑いを浮かべて男が言う。きっと男は自分の自慰行為を想像しているのだろう。
 実際、八戒がこの病室で声を殺し、寝具の下、自分で自分をまさぐっていれば、隣のベッドのこの男はたまらず八戒に手を伸ばすだろう。
 八戒は男を無視して本に再び目を落とした。男が「何、時間はたっぷりあるしな」と独りごちたことにも気がつかなかった。
 舐めるように八戒を眺める男は、昨日と微妙に違う八戒の雰囲気に気がついていた。相変わらず硬質な美貌だが、危うい色気とでも呼びたいものが漂っているのだ。何かあったに違いない。男はこの隣のベッドの美しい青年を其のうち たらしこんでしまおうと思っていた。そうすれば、退屈なこの入院生活も一変するに違いないのだ。
 アル中男の思惑はさておき、その後2、3日は何事も無く日々が過ぎた。八戒はあの月食の夜のことは夢だったのではないかと思い始めていた。妖しい淫夢のような幻に過ぎないのではないか。眠れぬ夜、凶暴な自分の欲望の生み出した恥ずかしい夢。



 そんなふうに思い始めていた暫く経ったある日。
 看護婦が午後の回診の時に患者を点呼しながら病室に来て言った。
「今日の回診の先生はいつもの担当の先生とは違います。ここの院長先生です。大体1ヶ月に一度は皆さんの様子をご覧になりに来ますので、よろしくお願いします」
「院長先生。こちらが201号室になります」

院長回診。

 看護婦は6人部屋の点呼を終わらせ、全員いることを確認すると、ドアを開けて白衣の医師達を通した。各病棟の主任、副主任。それらに囲まれるようにして目の前に現れた院長の顔を見て八戒は驚愕した。
 あの、月食の夜の。金糸の髪の。白衣の男。
 白皙の酷薄な美貌。金の糸のような髪。深い暗紫の紫水晶を思わせる瞳。
 自分を弄んだ節の立った長い指。淫靡な口淫を自分に施した端正な唇。自分の痴態を見て歪めて笑った口元。
 八戒は夢だとばかり思おうとしていた人物が現実に現れたことによって呆然とするしかなかった。しかも若い。院長と言えば、もっと年配者だとばかり思い込んでいた。
 ここの開放病棟の主任医師がへりくだった様子で、病室内の各患者の紹介と措置を告げる。それに対して傲岸不遜と言ってもいい態度で院長は聞いていた。順番に患者のベッドを回り、担当医の説明が続く。
 そのうち彼らは八戒のベッドで足を止めた。
「この患者は? 」
 冷たい調子の声で院長が主任に問う。八戒は心の中で呻いた。院長の声が、あの夜自分に淫らな行為を強いた声と同じ声であったからだ。
「猪八戒さん。不眠症で入院しています。外来で通院されていたのですが、段々不眠が酷くなるため、原因を解明し、睡眠のリズムを立て直すために一週間から二週間程度の短期の入院をお勧めしました。現在、多少好転しつつありまして、処方しているのはサイレースを1錠に……」
「ふうん」
 興味の無さを装った声で、院長は言った。
「この患者のカルテを後で俺の部屋に送ってくれ」
「は、何か……」
 自分の措置と処方薬に間違いでもあったかと、上目遣いに院長を見る主任に口答えさせないような声の調子で院長が言った。
「いいな。必ずだぞ」
 そして八戒の方に向き直ると、院長は職業的な声音で言った。
「はじめまして、この病院の院長、三蔵です。不眠症にお悩みとのことですが、たかが不眠と思っておりますと、思わぬ病気が隠されていたりしますから、きちんとこの機会に治したほうがいいですね」
 あの夜、散々八戒を淫らな口淫で喘がせた口で言う。
 そして、職業上の微笑みを浮かべ、八戒を見た。
「それではまた」
 それではまた。
 どう云う意味なのか。また次の回診の時にまたと云う意味なのか。踵を返した院長につられるようにして医師達が病室から出てゆく。慌しく看護婦達が次の病室へ案内し、点呼を取る声が響く・・。

 みつけた。

「は? 何か今おっしゃいましたか? 」
 病棟副主任が三蔵に言う。
「うるせぇ。何でもねぇよ」
 機嫌を損ねたらしい院長の返答に主任は恐縮のていで身を竦ませた。そして、そっと首を捻る。
 主任病棟医も副主任も皆、何だってこんなに急に院長回診をやる気になったのだろうと内心訝しく思っていた。
 何しろ先々日院長に打診したときは、面倒臭そうな様子を隠しもせず、「お前らで適当にやっとけよ。俺が把握するようなことか。」と吐き捨てるように言われたのだ。
 それがこの2、3日急に様子が変わり、最近回診をやってないからやるぞと言い出したのだ。どう云う風の吹き回しだろう。しかも、精神保健学会を控えている時期なのにだ。主任は院長に「金沢に学会出張なさるでしょう。その後では如何ですか。」と いさめたのだった。
 そのくせ、いざ回診が始まって、先ほどの201号室を出たら、その後院長は他の病室ではもう何も質問もせず、患者に話し掛けもせず、うわの空であった。何が何だかわからない。関係者でなくともそう思うのも無理からぬ最近の院長の態度だった。
 考えてみれば、院長の態度が変わったのは、夜、閉鎖病棟から脱走した患者が出たのと、自殺を試みた患者が同時に出た日からだった。
 病棟主任が警察へ確認に走り、夜勤当番の看護婦も巻き込んで人手が足らず、てんやわんやの騒ぎをしていた夜、珍しく院長が「どうせ夜寝れねぇし、今夜は月でも見るつもりだったから、開放病棟の番ぐらいしてやる。」と自分から言い出したのだ。
 あの時は非常事態で、渡りに船とばかり院長に頼んでしまったが、あの夜何があったのだろう。
 八戒の担当医でもある病棟副主任は、そんな事柄に思いを廻らせていたが、いやいや、今はそんなことより、あの不眠症の青年のカルテを院長に渡すのを忘れないようにしなくてはと、内心の疑問を抑え、これ以上考えるのを止めたのだった。



みつけた。
 月食の夜に会った美しい青年。綺麗な翡翠色の瞳につややかな髪の魅力的な彼を201号室の病室に認めたとき、三蔵は、ここ2、3日の追い立てられるような焦燥感からようやく開放されたのだった。
 あの夜、月光の下、しどけなく自慰を施している八戒を偶然認めたとき、焼け付くような欲望を覚えた。押し倒して突き上げたい。誑しこんで、あの繊細そうな肢体に快楽を叩き込み、自分を受け入れさせたい。強烈な欲望だった。
 その躰を味わって慰めれば、身も世もなく蕩けるような、聞く者の精神を淫らに狂わす、甘い甘い喘ぎが八戒の口からあがった。不眠症だという彼に眠剤を塗り込めて眠らせたが、やはり、最後まで抱いて、自分の埒を開けなかったのが心残りだった。
 それからは、寝ても覚めてもあの青年のことばかり考えている自分に気づく。
 最後まで逐情を迫らなかったのは、愛撫の手を加えているうちに、そうした行為にあまりにも不慣れな、汚れをしらない躰に憐憫の情が湧いたのと、どうせ自分の病院のため、見つけようとすれば容易に見つけられるだろうと高を括ったためだった。
 しかしその後寝ても覚めてもあの美しい月の化身のような姿と、達して落ちるときの淫らな表情が忘れられない。
 しかも、よく考えれば、院長回診は1ヶ月に一度しかやらないので、短期入院の彼のような病状の軽い者はすぐ退院してしまうかもしれないのだ。
 そうすれば彼は自分の手の届かぬところへ逃してしまう。何しろ、自分などに色々打診される症例はどうしても医局チームで当たらねばならない重症患者ばかりだ。そうすると訪れる病棟は当然彼のいる開放病棟とは違う施錠された閉鎖病棟ばかりになる。

 逃がしたくない。

 三蔵は院長室にいた。紫檀づくりの机の上で、足を投げ出しながら八戒のカルテを読んでいる。今回の入院は試験的なもので、退院予定はカルテによると、2週間後とある。
 三蔵は口元をつり上げるような人の悪い笑みを浮かべた。

 関東地方の中山間地。山奥に陰惨にそびえる白亜の大病院。
 H会系U病院。関東有数の精神病院である。そのベッド数は1000以上を数え、都立松沢病院とも並び称される。JR駅前近くに外来専門の診療所を設立し、郊外の山中に開放病棟2棟、閉鎖病棟3棟、重症病棟1棟を数える大病院である。常勤の看護師数は300名である。医師は心療内科、精神科、内科など各科で30名。検査技師、薬剤師は50名になる。食堂、事務、清掃、配達その他のスタッフをあわせれば、とてつもない大所帯であった。
 駅前の系列診療所は、「メンタルクリニック」「心療内科」とひびきの良い呼び方をしているが、結局はバリバリの精神科である。 何せ、U病院の成り立ちからいって、日本史の暗い側面そのままであった。
 もともとこの病院の前身は 心身傷痍しんしんしょうい軍人の専門病院であった。要するに国ぐるみの座敷牢のようなものだったのだ。実際、当時の戦局が厳しくなってくると配給しか与えられない患者達は栄養失調で死ぬものが多かった。健康なものは、闇市などで、食料を調達することができたが、入院患者達にはそれはできず、しかも取り分け精神に傷を負ったものは治し方も分からぬと見捨てられていたのだった。
 新薬クロルプロマジンの発見される前の話である。
 看護婦達はまことしやかに、地下病棟では実際いる患者以外の哄笑が聞こえると不気味がって噂した。そのほかにも、脳症患者が、栄養失調のあまり共食いをしたと言い伝えられる古い病棟跡など、不吉な伝説はいたるところにあった。
 三蔵はそんな古い歴史のある、権威ある大病院の院長である。先代の病院長が事故でなくなり、若輩の身ながら病院を引き継いだのだ。若いがゆえのスタッフとの衝突も多々あったが、元来優秀で才気煥発な彼は、見事にこの病院を掌握していた。
 八戒に逢ったのはそんなときであった。
 どうしてやろう。あの綺麗な蝶々さん。
 娑婆からこんなところへ迷いこんできたのが運の尽きだ。

「ハルシネィション(3)」に続く