ハルシネィション(1)

 院長室への廊下は地獄の業火にも似た、緋色の絨毯が敷かれていた。その上を行き来するのは牛頭馬頭どもか獄卒か。
 看護士達が囁き合う。
「院長先生は? 」
「こちらにはいらっしゃらない」
「どうせあそこだろう。この時間じゃ」
「『回診』のお時間だ。」
「403号室か」
 階下の病棟からは意味をなさない哄笑と呻き声が聞こえてくる。陰鬱な夜は始まったばかりだった。

「あ……あ……ッ」
「もっと腰を回して締めてみろ」
「や……っああっはぁっ……! 」
「こんなに蕩けちまって。いやらしい躰だ」
「やッ……やッ……やめ」
 ぐちゅぐちゅと淫らな音が、抜き挿しされるお互いの性器から漏れ、部屋を満たしている。狭い4畳半ほどの一人用の病室には美しい黒髪の青年が閉じ込められ、白衣の医師らしい男に好き放題にされていた。
「いやじゃねぇだろ、こんな涎垂らして。もっと×××して下さいって正直に言ってみろ」
「ふ……あぅっ……く……」
 正常位で貫かれる躰。八戒は止めてくれるよう懇願するが、淫らな調教を受け尽くした淫蕩な躰は正直に三蔵との性交に感じて快楽の涙を流してしまう。夜毎繰り返される性的な虐待のようなセックス。逃げ場のない鉄格子の嵌った閉鎖病棟の、しかも一番監視の厳しい保護室に監禁され、助けを求めるものもなく、八戒はひどい時には薬さえ使われて容赦なく三蔵に抱かれ、犯され続けていた。
「許し……て。もう……ゆ……るし……」
 もう、忘我の時が近い。
 快楽のために白く発光する脳髄の隅で、どうしてこんなことになってしまったのだろうと八戒は絶望的に思った。






 あれは月食の夜だった。
 その頃はまだ開放病棟という、大部屋で施錠もされず、出入り自由という、わりと自由な環境の中で、入院したばかりの八戒は不眠症に苦しんでいた。
 そう。
 眠れないのだ。

 暫くの間、病室の自分のベッドの上で、もぞもぞと眠れず寝返りを打ったりして足掻いていたが、やはりどうしても眠れない。夜は深々と更けて、同じ部屋の患者達の寝息が聞こえてくる。
 八戒はため息をついた。看護婦さんに言って、眠れる薬でももらおうか……。そう思い、足音を忍ばして病室を抜け出した。
 リノリウムの白い床の廊下を、安物のスリッパを履いて少し離れたナースステーションまで歩いていった。やや広くなった、テレビが置かれているロビーにナースステーションはある。いつもなら夜でも誰かしら看護婦が詰めているのだが、今夜は人のいる気配がなかった。
 八戒はため息を吐いた。何か変事があったに違いない。今日はついてない日だ。そう思いながら、ぼんやりとロビーに置かれたビニル製のソファのひとつに腰掛けた。ロビーの窓に接するように設置されたそのソファに座り、体を後ろに捻れば、自分の肩越しに綺麗な月が見える。どうせ、部屋に戻っても眠れないし、どうしよう。ロビーに置かれた雑誌の一つを手に取り、暫く頁を捲っていたが、ふと、日中同室のアル中患者に言われたことを思い出した。
『あんた、不眠症だってな。寝れねぇときは、そう……アレすれば結構寝れるぜ。やってみな』
 怪訝けげんな表情を浮かべる八戒に、相手はどこか卑猥な笑みを浮かべて言った。
『おいおい、あんたほんとに男かよ。オナニーに決まってるだろ。一回抜いちまえば、スッキリするし、結構消耗して寝れるよ。俺も最近は酒がないからもっぱらコレよ』
 そういうと彼は右手を股間に当てて扱く卑猥な動きをさせた。
『こんな病院に日がな一日いるとさ、運動不足になるわ、刺激はないわで寝つけなくなんのは普通の奴だって同じよ』
 先日入院したばかりの八戒と違って、男は何度もアルコール依存症で入退院を繰り返していた。シアマイドなどの抗酒剤も役には立たない。放っておけば、ヘアトニックなども微量なアルコールを含むため、飲んでしまう彼の症状の凄まじさは、実際に見たものでないと分かるまい。おとなしい鬱病患者や、基本的に悪意の無い軽い統合失調症の患者と違い、酒の為なら悪知恵の働くその男には、看護婦もつくづく手を焼いていた。
 彼は口の端を釣り上げるようにして八戒の繊細そうな肢体を舐めまわすように眺めた。八戒は病衣を着込んではいるが、それすらも男の頭の中では想像力で最後の一枚までぎ取られているのに違いない。
『何だったら、あんただったら、手伝ってやってもいいぜ。あんた美人だしな』
 下卑た笑いがその口から洩れ、揉め事を起こしたくない八戒はなるべく不快な表情を出さないように注意しながら彼の前を足早に立ち去ったのだった。

 なんでこんなことを今思い出すのだろう。とはいうものの、八戒は精神的に追いつめられていた。眠れないものの苦痛は、容易く眠ることのできるものには到底分かるまい。嘘でももう構わない。八戒は溺れるものがわらすらつかむような気持ちで自分の寝間着の下履きに手を滑り込ませた。
 窓際のビニル製の安っぽいソファの上にスリッパを脱いで躰を横たえる。上体は起こし、膝も立てた姿勢で、月明かりに照らされながら、自分を慰める淫らな行為にとりかかった。
 情欲に追い立てられての行為でもない、その動きは躊躇ためらいに満ち、当初快楽からはほど遠かった。それでも、指を動かしている内に、微細な快楽の糸が躰の奥から立ち上ってきた。ロビーの窓からは月が見える。八戒は月明かりに照らされながら、その白い肢体を艶かしく、くねらせた。
「は……ッ」
 長く細い指を自分の性器に絡めて、下から上へと扱く。そのうち、自分の感じるポイントに上手く触れることができるようになった。甘い疼きが背筋から腰へと集まりだし、手の動きがせわしないものとなる。上り始めた息を抑え、白い月光の下で自分自身を貶めるような行為に溺れる。右手の親指と人差し指で緩い輪をつくり、自らの性器をそれで扱き始めた。
「あ……ッ……ッ」
 快美感が腰に這い上がり、自分の理性を奪ってゆく。獣に還る瞬間が近い。震えるもう一方の手で寝間着の中をまさぐり、腰から上に這わせて行く。ボタンは所々とれ、月の光を浴びて一層扇情的な姿になった。空いた左手を躰の上体へと這わせ、胸の乳首を捏ねまわすようにすると、快感で躰が電気仕掛けのように跳ねた。
 たまらない。
 自分を慰める手の蠢きはますます激しくなり、快楽の慄きが皮膚の上を走る。
 気がつけば、目を閉じて自分の躰の奥底から湧き上がる深い淫らな快楽を味わっていた。額からつたい落ちる汗がなまめかしい。さらさらとした黒髪を少し汗ばませ、躰を淫靡にわななかせる。

 そのときだった。

「これはいい見世物に出くわしたな」
突然。
低い男の声がした。
 目を閉じて行為に集中していた八戒は、人が来たことに気がつかなかった。驚きの余り、今まで熱に炙られていた躰が冷えてゆく。
 羞恥の為、まともに目を合わせられないが、突然自分に声をかけた相手が白衣を着ているのが気配で分かった。医者だろうか。
「あの……あの……寝れなくて……その」
 弁解する必要も考えてみればないのだが、いつの間にか恥ずかしさのあまり、自己弁護に走っていた。
 しかし、白衣の男はそんな八戒の心情を知ってかしらずか、取り合わなかった。
「今日は月食の日なんだが、角度のせいか宿直室からは月が見えなくてな。こっちの病棟なら見えると思ってきたんだが、こんなものまで見物できるとは思わなかった。」
 白衣の人物は楽しげに言った。金色の髪、紫暗の瞳、白皙の美貌、節の立った指で煙草をつかみ口に咥えると、八戒を見つめる。どこか猫科の美しい獣を思わせる男だった。
 しどけない肢体のまま、八戒は羞恥の余り硬直している。
「眠れないんですか? 」
 まるで八戒の羞恥と不安を取り除くように、唐突に白衣の男が優しく医者めいた口調で話し掛けてきた。その紳士的な口調は、長年診察経験を積んだものでなければ出せないような声色で、八戒は少し安心した。やはりこの男は医者なのだ。看護婦が今夜は居なくて、眠り薬がもらえず往生したが、医者に頼めば、出してもらえるかもしれない。
「ええ、ずっと今夜は眠れなくて」
 警戒を幾分解いた口調で、それでも自慰を見られた羞恥から俯き加減で口を開いた。
「いけませんねぇ。どうして眠れないんです? もしかすると……」
 金糸のような髪を揺らして、白衣の男が口元に急に酷薄な歪んだ笑みを浮かべた。
「男が欲しくて?」
 言われた言葉の意味を瞬間分かりかねて、八戒はうろたえた。
「なっ……」
「こんな明るい月夜の窓際で、てめぇのを扱きながら、男が抱いてくれるのを待ってたんだろうが。鏡でてめぇのツラ見てみろよ。マス掻きながら喘いでいるときのいやらしい顔ったらなかったぜ。すげぇスケベそうなカッコしてたな。全部見たぞ。この淫乱が。」
 吐き捨てるようにそう言って、豹変したサディスティックな笑いに顔を歪ませると、八戒の腕をつかんだ。
「離して下さい! 何を……! 」
「遠慮するな」
「止めて下さい」
 自慰を見咎められて、一度は引き上げた、下履きを下着ごと無理やり剥ぐように引き摺り落とされる。
 とんでもないことになったと本能的に察知した八戒が男の腕の中で抗う。くちゅりと先走りに濡れた八戒の性器は、今は怯えて竦んでいる。それを節の立った長い指で掴み出し、白衣の男は舌を這わせ始めた。八戒の下肢で、金の髪が揺れる。押しのけようと、八戒が腕でその頭を引き剥がそうとすると、口淫を咥えたまま、上目遣いに見上げられ、抗う手を力強い腕で押さえ込まれた。
「あっ……」
 下肢に何も身に付けてない状態で、ソファに躰を押さえつけられ、性器を舐められる。月光の下で、男に無理やり組み敷かれ、情欲を掻き立てられて仰け反り、背を反らす様はひどく幻想的で淫らだった。噛み締めた唇からはいつしか熱い息が漏れる。
「ここにこうして欲しかったんだろ? 」
「うっ……あ……っ違っ……」
「何が違う? こんなに直ぐに反応して。サカってんだろうが」
 わざとぴちゃぴちゃと音を立てて八戒の性器を溶かすように舐め啜った。耳朶を打つ淫らな音に聴覚さえも犯されてゆくようで、八戒は厭々をするように首を振った。
 男の口腔で吸い上げられ、締めつけるようにされながら、先端を舌でなぞられる。ぞくぞくするような快楽が背を走り抜け、眉を寄せて甘い苦悶の表情を八戒は浮かべた。
 こうした行為を受けるのは、八戒は初めてなのだろう。刺激が強すぎるのか、八戒の目の縁に涙が滲む。自分の下肢で淫らな行為を強いる男の金糸のような髪が視界に滲んだ。
「あ、あああッ……もう出、出ちゃ……ッ」
 悲鳴のような声で八戒が腰を揺らして制止を求めるのを無視して、男は八戒の吐精を促すように吸い上げを激しくした。その淫靡な蠢きは、八戒を逃すまいとするかのようであった。八戒は唇を強く噛み締めた。男が八戒を口で捉えたまま、八戒の感じやすさを笑うように口を歪めたような気がして、羞恥で赤く目元が染まる。気が緩むと自分がどのような声を漏らしてしまうのか、分からない。自分が自分でなくなるような忘我の域に追いつめられ、八戒は惑乱していた。
 そんな初心な八戒を白衣の男は容赦なく、追いつめた。逃げることを許されず、一際呻くような高い声を上げて、八戒は他愛もなく、男の口の中で達してしまった。余りの恥ずかしさに身も世もない風情で泣く八戒の精液を飲み込み、残っている残滓を搾り取るように吸う。
 戸惑いと、恥ずかしさで、しゃくりあげている八戒は、男の情欲を否応なく煽り立てるが本人は無自覚だ。肉食の獣でさえ、今のなまめかしい八戒に遭ったら喰らう前に犯すだろう。
「抜いてやったぞ。眠れそうか? 」
 どこか卑猥な響きのある声音で甘くそっと囁く。ひくりと躰を震わせて八戒は身を起こした。白衣の男が丁寧に舐め清めたため、周囲は汚れてもいない。
 しかし、目に見えぬ性の残滓がそこかしこに残っているようで、八戒は消え入りたいような気分に襲われた。男への返答の代わりに首を振る。確かに身のうちの熱を吐き出したため、躰がだるい。弄ばれ、きつい快楽の縛めを解かれた後の虚脱感に襲われてはいるが、他人を交えた初めての行為のため、淫らな行為に慣れない神経は驚きや戸惑いが勝ち、とても眠ることはできそうになかった。
「そうか、それじゃ……」
 白衣の男は自分の指を淫らな舌使いで舐めて濡らした。そしてその指をそのまま八戒の後ろに挿入する。後孔に濡れた指の圧迫感がして八戒は抵抗しようと足掻いた。自分に加えられる淫虐がエスカレートするのではないかという恐怖に身が竦む。自分でも触れたことのない箇所に男の節だった中指を埋められ、嫌悪と羞恥で逃げようと躰を捻る。
「おや、月食が始まったようだな」
 自分を犯している男が、ふいに窓の外を見て言った。今までの淫らな行為を音もなく外から見つめていた月は、その一部が欠けようとしていた。月光で照らされたロビーもそのため少し暗くなったように感じられた。
 白衣の男は注意深く八戒の躰に乗り上げて逃がさないように押さえ込み、一旦引き抜いた自らの指に白い粉のようなものを塗しだした。
「ううっう……? 」
 そのまま、もう一度八戒の後孔に粉に塗れた指を埋め蠢かすと、八戒の唇から呻くような声が漏れる。未経験な躰にこれから押される性の刻印の前触れを知らせるように淫靡な動きで弄ばれた。
 指の抜き差しがより淫らで甘いものになり、八戒は浅く息を吐く。だいぶ圧迫感に慣れたと見え、正直な若い躰は苦痛より快楽を追いつつあった。
 しかし、その時だった。突然くらり。と目の前が霞むような感覚がして八戒は一瞬倒れそうになった。
「う……? 」
 意識を保っていられない。強烈な快感を味わわせられながらも脳が強制終了するときのような神経の途切れる感覚がする。
「イソミタールだ。やっと効いてきたか」
 白衣の男が呟くように言った。八戒は先ほど男が指に塗り込めていた白い粉を思い出した。
 イソミタールの粉末。強烈な睡眠薬、麻酔薬の粉剤だったのだ。
「粘膜から吸収させてやると良く効くだろう。可愛い啼き声をセンセイに聞かせてくれたごほうびだ。」
 敏感な粘膜を指で擦られる感覚と快感に責め立てられながら、薬剤による睡魔の為、意識が暗く急激に遮断されてゆく。八戒はようやくあれほど望んでいた眠りにやっと落ちていった。

「ハルシネィション(2)」に続く