ハルシネィション(16)

 しかし、もっと不器用なこの男は、もっとこの感情をなんと名づけていいか分からないだろう。
三蔵は頭を片手で掻いた。金糸のような見事な髪が蛍光灯の明かりを反射する。どうも最近調子が狂っていた。
 
 八戒の病室を出るとすっと紫暗の瞳をすがめた。特に他の患者に異変があるとは聞いてはいなかったが、念のためにチェックする必要があると思ったのだ。
「フン」
 自分でも心配しすぎだと思いながら、三蔵は歩いた。
 どこの病室もこうした重症棟に相応しく分裂病の患者が多く入っている。当然全員病状が重い。セレネース、レボトミン、コントミンといった「メジャー」、メジャートランキライザーと呼ばれるバリバリの抗精神病薬が最大限量処方されている。
 三蔵はセレネースの効きにくくなっている患者の病室前で足を止めた。ドアの小窓を覗き込む。ふらふらと頭を振り、もごもごと口を動かしている患者が見えた。副作用のジスキネジアを発症している。
 しかし、彼の場合、薬を減らすなど恐ろしくてできない。
 ここの患者のせん妄は非情に凶暴だ。内容は「宇宙人が来て、自分の家族を殺してしまう。救うには腹を割いて冷蔵庫のソーセージや肉を入れないといけない」という気合の入ったものだった。実際、警察騒ぎになったこともある。彼の肉親は涙に暮れながら、この鉄格子の向こうに彼を送ったのだ。
 どうにもならない。
 いつもはニィが処方するセレネースあたりが効いてうつらうつらしているが、切れる昼頃になると演説をしだす。「宇宙人から地球を守るには……!」うるさいったらない。
 夢とうつつをさ迷ってブツブツ独り言を呟いている患者の姿を認め、閉鎖病棟の主任にカルテをもう一度検討するよう伝えようと三蔵は密かに考えた。
 後の病室も似たりよったりだ。その隣の病室を小窓から覗くと、部屋の隅で大声で誰かと話している。電話をかけているのだ。いや、本当の電話など病室にあるはずはない。幻覚上の電話器を手に、延々と自分の好きなアイドルに電話をかけ続けているのだ。
 関係妄想やら幻覚やらが複雑に入り混じっている。あの野郎、ちっとも薬が効いてやがらねぇ。三蔵は舌打ちした。
 閉鎖主任病棟医はいまや紅孩児とはいえ、ここは閉鎖病棟勤めの長い二ィに小言を言ってやろうと三蔵は決めた。

 そのまま歩いて、

 気がつけば病棟の入り口近くまで来ていた。
「確かここは……」
 入り口から近い端の部屋を覗き込むと、三蔵は口を歪めて横を向いた。少し不愉快だった。
 そこには、八戒に最初ちょっかいを出したアル中の男が閉じ込められていた。正体不明によだれをたらして寝ている。
 この男にはアルコール依存症、アルコール性幻覚障害、双極性障害、反社会性人格障害、自己愛性人格障害、統合失調症……これでもかというくらい病名をつけて、最大限の精神薬の処方をしていたのだ。馬だってこんな量の薬を盛られたら立ってられまいという量を飲ませ続けていた。  
 実際、過剰な薬の使いすぎで、筋がはって動きがおかしい。立てないのだ。パーキンソンとジストニアが生じている。首が回らない。
 しかし、それでも、生きているのだった。動けないのでオムツをしている。垂れ流しだ。
 それでも、三蔵がこいつが八戒にしたことを忘れない限り、お天道様の下には二度と出れないはずだ。
「フン」
 三蔵は舌打ちした。死ね。その剣呑な暗紫の瞳で一瞥を送ると小窓を閉じた。
ぞっとするような酷薄な表情を浮かべている。邪悪ですらあった。先ほど八戒に向かって囁いたような甘い気配など今の彼には微塵もない。いつもの鬼畜な病院長様だ。通常運転である。
 三蔵は苦虫を噛み潰したような顔でアル中のドア前から、きびすを返した。そのまま、地下病棟の出口に向かって足早に歩く。時間が無いのに、つい気になって時間を取ってしまった。

 八戒のいる病棟だから。

 そのまま、出口の方へ足を向けた。三蔵の靴音のみがリノリウムの白い廊下に反響する。
突然、耳に先ほどの甘い囁きがよみがえった。
(好き……さんぞ)
 確かにあの黒髪の男はそう言った。聞き間違いではなかった。確かにそう言った。甘い吐息まで克明に思い出せる。眩暈がするほど甘美で、胸が熱くなった。ときめきがうなりをあげて弾けるような。
「クソ……」
 三蔵は思いもかけぬ激情に襲われて、思い切り奥歯を噛み締めた。本当に最近、自分はおかしい。そう思った。
 時間さえあれば、時間さえあれば。
――――もう一度、あの声を聞きたい。
 三蔵は独り心のうちで呟きながら、唇を噛み締め、自分の足を引き剥がすようにして歩を進めた。スラックスを履いた脚が重い。革靴の質量が増したようだった。立ち去るのにもの凄い精神力が必要だった。ついつい、振り返りそうになる。
 書類の山が待ってる。早く戻って決裁をしないといけない。
 しかし、思考だけは、八戒との情事について考えてしまう。
(恋人になりたい)
 八戒は確かにそうも言った。――――気がする。こちらは少し自信がない。
甘い喘ぎに混じっていたからだった。
――――忘我のきわの無自覚な言葉だ。というかアイツは薬漬けじゃねぇか。そんな言葉を信じるな。
 そんなことを考えながら、出入り口近くのドアまで来ると、看護師ふたりが患者を搬送してくるのに出くわした。『太陽に殺される』 とわめいていた狂患だ。ECTが終わったのだ。
 院長先生じきじきの御回診に、看護師達が足を止めて頭を下げる。
 医師というよりも死の大天使めいた姿だった。真っ白な白衣に金の髪が映えてまぶしい。神々しいくせに邪悪で不吉だ。見るものに畏怖を引き起こさせる恐ろしい滅びの天使だ。
「フン」
 三蔵は搬送している患者をちらりと眺めた。頭に包帯を巻き口にマウスピースをくわえている。電気ショックをかけたとき、口内を噛まないように処置されているのだ。たっぷり、抗精神病薬や麻酔薬、筋肉弛緩剤も注射されたに違いない。
 ベッドの傍には点滴がつってある。それにもセレネースあたりが入っているのだろう。患者は口端からよだれを垂らしながら、気絶するように寝ている。病室の壁に血が派手についていたが、傷は浅かったとみえ、外科に搬送することにならずにすみそうだ。
 三蔵が検証するように考え事をしていた、その時、
「あっれェ。院長先生」
 ニィがわざとらしい声を後ろからかけた。白衣のポケットに両手を入れ、高い背をかがめて歩いている。紅孩児も一緒だった。
「いったい、どうされたんですゥ」
 軽薄そうな立ち居振る舞いをしながらもニィは油断していなかった。かけた眼鏡の縁が光る。相手の意図や表情を読もうと眼を細めた。
「不始末、してるみてぇじゃねぇか。みっともねぇ」
 果たして、叩きつけるように三蔵が言った。冷たい表情、冷たい口調。冷気が全身から漂ってくるようだ。
「……申し訳ありません俺が」
 横から紅孩児がかばうように口を挟んだ。ニィの代わりに弁解しようとしている。生真面目な表情だった。
 赤毛の新任の病棟主任は、ニィをかばって立ちはだかった。
 しかし、
 院長は紅医師の言葉を怒鳴るようにさえぎった。
「てめぇになんざ言ってねぇ。俺が言ってるのは、お前にだ。ニィ」
 ニィは沈黙した。その漆黒の視線と三蔵の暗紫の視線がぶつかりあう。
「何年キチガイ病院の医者やってんだ。てめぇ」
「…………」
「このヤブが」
 鬼畜な院長は吐き捨てるように言った。
「…………」
「なんだこりゃ。こんな患者が自傷するような薬の処方しやがって」
 鼻の頭に皺を寄せ、癇症な表情で睨みつけてきた。
「医者なんざ辞めちまえ」
 怒鳴られた。苛立った表情が白皙の美貌の上を稲妻のように走り抜ける。
 ニィとしては沈黙を続けるしかない。
「てめぇ、自分であの病室の血をいとけ。反省しろ」
 凶暴な気配を発散している。剣呑な肉食獣のようだ。かたわらで看護師達があまりの剣幕に固まっている。三蔵が恐ろしくて動くに動けない。
「他の病室のヤツも薬が効いてねぇのがいるな。今日、徹夜で新しい処方を検討しろ。カルテ書き直せ。今日中にだ」
「……そんなに心配なんですか」
 ふいに、ニィが口を開いた。含むところがありそうな低い声音だった。
(そんなに心配なんだ、あの黒髪の天使ちゃんのことが。)
 視線でそう三蔵に語りかける。全てを見透かしたような目つきだ。ニィにしてみれば、今まで三蔵がナニをしていたかなんて、お見通しだった。
「…………この」
 今度は三蔵が黙る番だった。
「ご熱心ですねェ。院長先生。いやこういうのは、……ご執心って言うんでしたっけ」
 三蔵の職業的熱心さをも含めて、斜め上あたりからニィはからかった。傍の紅孩児には何のことやら分からないらしく、先ほどから硬直している。ふたりを止めることも忘れている。
「てめぇ」
 金の髪の院長は、元主任病棟医の襟首を勢いよくつかんだ。白衣の下に着た黒いタートルネックをわしづかみにする。紫水晶に似た瞳が苛烈に光った。視線で人が殺せるものならニィなどとっくに死んでいるだろう。
 しかし、ニィは臆せず三蔵の視線を真っ向から受け止めた。眼鏡が白く光る。
「あっれェ、違いましたァ?」
とぼけた声で返した。
「言いてぇことはそれだけか」
 院長の声はさらに低くなった。怒りが滲んだ声だ。ニィの襟首をつかむ力を強くする。殴られる。その場にいた誰もがそう思ったその時。
 救いの鐘のように、賑やかな電子音が鳴った。こんな地獄の底の病棟に似合わぬ軽やかな音。地下の闇を引き裂く明るい響きだった。
 ポケベルの音。
 居合わせた3人の医者が、それぞれ自分の白衣をまさぐる。自分のポケベルかと思ったのだ。
「チッ」
 果たして金の髪をした医師が舌打ちした。
 経理や事務方が三蔵の書類の決裁を待っている。院長室へのお帰りを呼びかける必死の連絡だった。
 張り詰めた、その場の空気が瞬間、弛緩した。
「カルテは書き直しておけ。いいな」
 三蔵は重症棟の扉をくぐりながら、居丈高に言った。
「仰せのままに院長先生」
 ニィがうやうやしい仕草で右手を胸の前に掲げ、腰を軽く屈める。
「フン」
 三蔵はもう一度睨み返すと、そのまま地下病棟から出ていった。三蔵の白衣が闇に溶けるように消えた。


 その、苛烈な死の天使のような姿が見えなくなると、どこからともなく、一斉にため息のような吐息が漏れた。たまたま、居合わせてしまった看護師ふたりなど大きな溜め息を更にもう一度吐いた。彼らにとっては本当に災難だった。
 ようやく、病室のドアを開けて、搬送ベッドごと患者を運び込む。
紅先生が処置を手伝おうと看護師達に続いて病室に入ろうとしていたが、突然、ニィの方へ振り向いた。
「俺のせいですまない」
 丁寧に頭を下げている。ひとつに結んだ赤い緋色の髪がその背で揺れる。
 紳士的というのか、生真面目というのか。
 思わずニィが一瞬、毒気を抜かれて頭を掻いた。指の間でカラス色の髪が乾いた音を立てる。
「いえ、いえ、そんなァ」
 白衣を着たぬえのような男はおどけてみせた。
「どうか、お気になさらず――――王子サマ」
 紅孩児のせいではない。そう、ニィは良くわかっていた。自分はあの鬼畜な院長に、単に目の敵にされているのだ。
 『黒髪の天使ちゃん』 に手を出そうとして、この仕打ちだ。それなら、アノトキ 『天使ちゃん』 を最後まで犯してしまっていたら、今頃どうなっているのやら。
 背筋に冷たいものが走る。
 ちらっと病棟の方へ視線を走らせた。この廊下の手前には八戒を襲ったアル中がいる。ニィのご同類だ。自分のことも、同じように飼い殺しにして嬲り殺しにしたいのかもしれない。もちろん、八戒を病院から連れ出した赤い髪の看護師もご同様だろう。つかまれば、あの男もただでは済むまい。 
 三蔵は結構、いやかなり嫉妬深い。あの甘い肌に少しでも触れた男は許さない。そういうことなのだろう。いまどき時代錯誤もいいところだった。
 ニィは、もの思いを振り切るように言った。
「ボクも処置を手伝うよ。まかせて王子サマ」
 おどけてみせた。おどけなくては、ニィのおかれているこの現状は恐ろしすぎた。



 そして、その夜。
 陽も射さない地下の重症棟の宿直室で、院長の言いつけ通り紅孩児はカルテの山と格闘していた。
 モニター画面前の椅子に座り、ずっとカルテの確認をしている。机の上に積まれたカルテを1枚1枚めくっている。生真面目にも印刷したのだ。
「イソミタール、バルビツール、ハロペリドール、トリプタノール、テグレトール、リーマス」
 紅先生は、精神薬の名前を片端から呟いている。時折考え込みながら、カルテを直していた。
 これでは、この患者は眠ってばかりいることになるのではないか。本当にこの処方は正しいのか。
紅孩児はカルテを直しながら悩んでいた。
 しかし、規定の最大限量を処方するしかないケースもある。紅先生は密かに心を痛めていた。
中途半端な処方だと、昼のように、頭を壁にぶつけたりするのだ。
 そう、ここは、心を鬼にしないといけない。
「血液内科に連絡してクロザリルだな」
 カルテに新薬の名前を書き込んでいく。それは重い統合失調症の最後の希望ともいえる薬だった。副作用も重いので、血液内科との連携が必要だ。
 三蔵がぜんぜん薬が効いていないと言った患者には、リスパダールのような抗精神病薬を増量してゆく。
 そんな作業を重症棟全ての患者に行っているとなかなか時間がかかって終わらない。
「まだ、帰らないの?」
 からかうような、心配しているような声が背後からかかった。確かに、もう夜も更けていた。病棟の外では、糸のように細い月が中空にかかっている。
 不吉な夜のような、その癖、酒場で騒ぐ軽薄な悪魔によく似た男が顔を出した。
 この病棟のメフィストフェレス。ニィ健一だった。
「俺のせいだしな」
 紅孩児はそちらへ顔も向けずに端的で短い返答をした。
「気の済むまで、やらせてくれ。気にせず帰ってくれ」
 返ってきたのは、やはり真面目な返答だった。
「…………」
 そうはいかないよね、とニィの顔に書いてある。黙って赤毛の医師の背後に立った。
 そんな、ニィには構わず、紅先生は次々とカルテを検討している。
「しかし、俺も困っている患者がいるんだ」
「え?」
「ああ、この患者は一体、なんなんだ?」
「?」
 つられて、ニィが紅先生の手元を覗き込む。
「メジャートランキライザーを使用されているが、量が多くない。その上、種類を頻繁に変更している」
 液晶モニターの青い光に照らされた、紅先生の顔は確かに困惑している。
「うまく言えないが 『薬が軽い』。とてもこんな重症棟の処方だと思えない」
 紅の座る鉄製パイプの椅子が、身じろぎに合わせて音を立てる。白衣の裾に皺が寄る。
「そのくせ」
 時折、これ以上ないくらいの凶悪な薬が処方に混じってくる。アンフェタミン? メチルフェニデート? これらは何のために使用されているのか。
 阿片やコカイン、麻薬、覚せい剤やその親戚縁者であるギリギリの薬剤名がカルテに書き込まれている。そして、それらの薬はすぐに処方から消えたと思うと、また思い出したように復活するのだ。

「ケタミン」 強姦魔が好んで使用すると悪名の高い麻酔薬。後退性健忘症を引き起こす薬だ。ヤられたことも何もかも忘れてしまう。
「メチルフェニデート」 化学構造式が覚せい剤と酷似する。製剤名は 「リタリン」 白い錠剤CG-202は処方薬ジャンキーの憧れだ。かつて処方薬中毒者を多く生みだした精神依存性の高い薬物だ。
「ラボナール」 チオペンタール、アメリカでは死刑執行で使用される薬剤だ。自白剤としても一定の効果があるのではないかとされている。バルビツール酢酸系の強い睡眠薬だ。
「スコポラミン」 朝鮮アサガオ、ヒヨスなどベラドンナ類から抽出される。コロンビア原産のボラチェロという植物に含まれる。この麻薬は特に人の自由意思を奪い完全な奴隷にすることを可能にするといわれ、コロンビアマフィアに悪用されている。
 そしてとどめに 「D-アンフェタミン」 大日本製薬の 「ヒロポン」 だ。医療用覚せい剤。そのまんま、覚醒剤だ。こいつには別名がある。この世で最強の媚薬だ。

 極めて奇怪な処方だった。
 何がしたいのか、カルテ作成者の意図が分からない。
 重症棟なので、ハロペリドールやバルビツールなどの沈静させる薬剤が多量に処方されているのは分かる。分かるがふと思い出したようにカルテに混じるこの異質な処方。いや異常な処方。
 まるで、眠らさないよう、起こさないように気をつかっているような処方だ。抑制剤を入れすぎると即座に賦活性の興奮剤を投入してくる。
 はたして、その異質な奇妙なカルテの主は
 ニィは眼鏡の奥で漆黒の眼を細め、紅の褐色の人差し指が示している患者名を確認した。
 それは、
 紛れも無く八戒のカルテだった。
「…………」
 黒髪美人の名前が記された異様なカルテを前に、ニィの口が歪む。
「いったい、これは何だ?」
 降参する口調で、紅孩児が真顔でニィに訊いた。前任だったニィがこれらの薬を処方しているのだと思い込んでいるのだ。
「俺にはあんたが何がしたいのか、さっぱり分からん」
「これ作成したの、ボクじゃないよ」
 ニィは唇の端をつりあげた。その周囲の闇がひときわ濃くなる。
「……カルテ、誰の名前がサインしてあるの? そのアブナイお薬、誰の処方だって?」
 ニィの言葉に紅孩児がその猫に似た瞳を細めた。
「貴様の処方じゃないのか」
 慌ててカルテを再び覗き込んだ。
 果たして、そこに記載されていた、カルテ作成の医師名は
 紅孩児の紅い瞳が見開かれる。
「……院長」
 紅い髪の医者は思わず呻いた。
 確かに、そこにはあの白い死の天使の名前が記されていたのだった。

 異様だった。異様と呼ぶのも愚かなほど異様だった。
 紅孩児が思い起こせば、この八戒という患者の病室、周囲の部屋は無理やり常に空室になっている。
 何故なのか。
 そして、八戒の病室には監視カメラがない。覗くための小窓もない。ドアがわざわざ変更されているのだ。
 毎朝、看護人がポットでお湯を運び込む。高級そうな茶葉も持ち込んでいる。こんな重症棟なのに、電気スタンドもあるらしい。中で本を読んでいるのだという。
 こんな重症棟の患者が本を? 本など読んで理解できる人間が重症棟の患者? 全てが異常だった。

「好奇心、猫を殺すってコトバ、知ってる? センセ」
 考え込む紅先生の思考を見透かすようにニィが言った。
「だからこれは、もう、しまっとこーね」
「!」
 ニィは紅孩児の手から八戒のカルテをするりと取った。元のファイルにしまう。
「触らぬ神に祟りなし……ね。お利口になった方がいいよ。下手するとあのサディストに殺されちゃうよ?」
「ニィ、貴様」
「気にしない、気にしない。この患者のコトは」
 呪文のように、黒髪の男は呟いた。奇矯なふるまいだが、その眼鏡の奥の眼は真剣だ。
「気にしなくていーよ。王子サマ。……ていうか、もう、二度と気にしちゃ、ダメ」
「この患者は院長の担当だから、アンタは気にしなくていいの」
 畳み掛けるようにニィは告げた。
「しかし」
「しつこいなァ。長生きしないよ。アンタ」
 不吉な大鳥が白衣をひるがえす。守るかのように紅孩児の後ろにいた男は、とりあえず忠告をすると宿直室から出ていった。





「ハルシネィション17へ続く」