ハルシネィション(14)

 次の日、起きると病室はなんともいえないどんよりとした空気でよどんでいた。
――――ように八戒には見えた。
 最悪だ。
 なんだか、全てが不吉だ。いやな感じだ。普段は気にならない地下病室の薄暗さがひどく不気味だ。おぞましい。
 何故なのだろう。三蔵が言葉少なげにこちらを見ている視線にも何か不穏なものを感じる。この金髪の医者は、もう既に白衣など着ている。それすらも、今朝は不吉に感じる。
「――――なんだか、今日はこの部屋、いやな感じですね」
 八戒が暗い調子の声で呟く。床に横たわったまま、起き上がれない。
「いやな感じってのは、どんな感じだ」
 三蔵は傍でマルボロを吸っている。病室内は禁煙の筈だが、八戒の病室は院内の常識外、治外法権の場所のようだ。
「三蔵は感じないんですか? なんだか空気がよどんでいるというか」
「よどんでいる? 」
「ええ、なんでしょう。落ち着かないです。なんだかこう」
 頭の中にドブでも流しこまれたような心地がするのだ。
 黒髪の美人が眉根を寄せ、不安そうな顔をする。濡れたような艶のある黒髪がはらりと額にかかって悩ましい。
 三蔵は、じっとそんな八戒を観察していたが、何か思い当たることがあるらしい。
「こいつを飲め」
 かたわらの白衣の懐をしばらくごそごそやった後、粉薬を差し出した。
「少し、マシになる。それからよく寝ろ」  
 抗ヒスタミン剤にバルビツール酢酸系睡眠薬。フェノバールの粉末。
 古典的な薬だが強烈だ。
「……多分、二昼夜くらい寝ないと完全に元に戻らねぇな」
 通常中毒者は、このイヤな気分のときに次の一発をやってずるずるとそのまま薬物依存の深みにはまってしまうのだ。
「さん……」
 三蔵が昨日、八戒に施した媚薬は強烈すぎた。強烈なだけに退薬症状も早くて強い。
「粉で飲みにくいなら、デカイ剤だが錠剤もある」
 武田製薬のベゲタミン――――毒々しい紅い丸薬のシートまで取り出した。
「とにかく寝ろ。寝逃げしろ。そのままじゃ苦しいからな」
 三蔵は少し後ろめたそうな表情を浮かべている。昨夜のは明らかにやりすぎだったのだ。
「これって」
そう。
 八戒は俗に言う軽い 「ヤク切れ」 の症状に陥っていた。あれほど脳内に溢れかえっていた脳内麻薬のドーパミンが今は欠片もない感じだ。
 鬱々として、よどんでいる。イヤな感じ。脳みそが鉛にでもなったような最低な気分だ。
 この感覚は、鬱そのものだ。
「錠剤がかったるいなら、また注射してやる。静脈で」
……周到にイソミタール液まで用意してあった。
「……いただきます」
 八戒は何が何やら分からなかったが、目の前の医者の言葉を素直に聞いた。最初に差し出されたバルビツールの粉剤を受けとった。紙袋を開けると、ほうじ茶の残りで飲みこむ。
 その様子をじっと見つめていた暗紫の瞳が、少し心配そうな色を浮かべる。
「悪い」
 三蔵の腕がそっと伸ばされた。そのまま抱きしめられる。
「悪い」
 愛しくて、ならないとでもいうように、八戒の肩を抱き寄せ、その耳へ囁く。悲痛で甘い、謝罪の言葉だった。
「でも、俺はお前を――――」
 八戒は、珍しいその言葉を、最後まで聞いていられなかった。強烈な睡眠薬の薬理作用で、脳の神経が突然ブレーカーでも落とすかのように、急激な睡魔に襲われ、気を失った。
「愛してる」
 それは、八戒の耳に届くことはなかった。



ハルシネィション14




 それから、数日経ったある日の午後。

「太陽があ太陽があ」
 八戒の2部屋隣の患者が怒鳴っている。
 壁に何かぶつけている振動が伝わる。白いタイルに血がにじみ、ひびが入った。白いタイルの下は厚い鉄筋コンクリート製だ。振動がするとはよほどの事だ。患者が力まかせに自分の頭を打ち付けているのだ。
 白タイルの壁は次々血で染まってゆく。普通の人間ならするはずの手加減をこの患者は一切していない。声の抑揚よくようもおかしかった。鉄の混じった血なまぐさい臭いが、空気の悪い地下病室にただよう。
「太陽に殺される!」
 彼は喚き続けている。
 しばらく経って廊下に若い男の足音が響き、病室のドアが開いた。白衣の医者が現れる。長い赤い髪を後ろでひとつにして生真面目な表情を浮かべた先生。ニィから閉鎖病棟主任を引き継いだ紅孩児だった。
「太陽が俺を笑うんです先生!」
 患者は血走った目で眼前の医師を見つめた。狂患の額からは血が流れ落ちている。
「……落ち着いて下さい」
 医師はフルニトラゼパムの入った注射器を手に近づこうとした。慎重な手つきだ。注射針が蛍光灯の明かりを反射して鋭く光る。
「あああ。分からないんですか先生! 太陽が俺に、今日の太陽が俺を殺すんです!!」
 ここは地下病棟だ。当然、太陽なんてものは拝みたくとも拝めない。
「先生! 見えるでしょう? 太陽が俺を嘲笑ってるんだ。あの光ですよ!せんせい」
 男はあらぬところを指した。金網で覆われた換気扇しか見えない。患者の指先はぶるぶると震えている。
 幻覚だった。
 幻覚。幻聴、せん妄。これほどまでに周囲の人間達を苦しめる症状があろうか。コンクリートとタイルに覆われた灰色の檻の中で紅孩児がやさしく微笑む。
「大丈夫ですよ。今、楽にしてあげます。腕を出して下さい。 さぁ落ち着いて……」
 紅先生は患者の腕を捕らえようとした。本来なら取りおさえ担当の看護師たちがいるはずなのだが、出払っていた。折り悪く誰もいなかったのだ。果敢にも紅医師は独りで狂患と向き合っていた。
「ああああ! 」
 抑揚の外れた声が地下に響く。紅毛の医者はものすごい力で腕をはたかれた。白衣ごしに、肉を打たれた熱い感触が走りぬける。プラスチック製の注射器は宙を飛び、そのまま、タイル敷きの床へ落ちた。
 人としての抑制を失った馬鹿力だった。そのままの勢いで、患者は紅につかみかかろうとした。相手の血とアドレナリンの臭いとすえた体臭が鼻先をかすめる。
 絶対絶命だ。

 その時。

「どーして、太陽がキミの事を殺そうとするか、分かる?」
 突然、背後から冷静な声がした。
――――ニィ健一だった。
「何で太陽がキミの事を殺そうとするか、ボクが教えてあげるよ?」
 まるで、5歳の子供に説明するかのような、ゆっくりとした口調だ。
「キミが悪いコだからだよねェ?」
 ニィが眼鏡ごしに相手をきっぱりと睨んだ。眼鏡のふちが白く光る。相手は身をすくめた。ニィが怖かった。
「キミが悪いコをやめれば、イイことだよねェ? 暴れたりしなきゃ――――太陽はキミを殺さないよ」
 諄々じゅんじゅんと諭すような真剣な口調だった。冗談で言っている様子はみじんもなかった。
「ひ……ひぃぃぃ」
 狂患は目に見えておとなしくなった。自分の血が飛び散っているコンクリートの壁を背にずるずるとしゃがみ込む。
「ん――――ようやくイイコにするぅ?」
 日も差さない地下病棟に、ニィの場違いな、のんびりした声が響いた。
職人芸であった。これくらいできなければ、この地下病棟を収めることなどできないのだ。
「さぁて王子サマ」
 ニィが片手をつき出した。
「フルニトラゼパムだっけ?」
 眼鏡ごしに人の悪い笑みを浮かべて舐めるように紅孩児を流し見た。床に落ちた注射器を早く拾って渡せと言っているのだ。
「――――ついでにセレネースも打っとく?」
 もっと強烈な抗精神病薬も打っておくかとニィは鬼畜に笑いながら提案した。
 その時、廊下にせわしない足音が行き来し、ようやく看護師達が2名入ってきた。若い男とベテランの年配者だ。
「も、もうしわけありません。先生方」
 すぐこれなかったことを詫びる。
 ニィが言った。
「遅いよぉ。赤毛の王子サマが襲われちゃうところだったじゃない」
「ほ、本当に申し訳ありません」
「悪いと思ってるんなら早くセレネース持ってこさせて」
「は、はいッ」
「それから――――」
 ニィは口元に皮肉な笑みを浮かべて、あごを片手で押さえている。ひげは忙しいのか、最近まめには剃れていないらしかった。
「スキサメトニウムも」
 筋弛緩剤の名称をさりげなく伝える。
「は、はいッ。それでは」
 長年、働いているので、これからニィが何をしようとしているのか、看護師たちには分かった。
「患者はECT室に運んどいて」
 おいでなすった、という顔をベテランの看護師はしたが、搬送用のベッドを手配するために大人しく部屋から去った。
 ちらり、と看護師たちが赤い髪の医師へ気遣わしげな視線をすれ違いざま送る。




 看護師たちがいなくなった後、ニィは注射器を手に鼻歌を歌いだした。慣れた手つきで器用に操り、虚脱している患者へ苦もなくフル二トラゼパムを注射した。紅孩児はバツの悪そうな表情をしている。何はともあれ、結局この男に救われたのだ。
「そうだ、王子サマ」
 王子と呼ばれて、紅孩児が嫌そうに口を歪める。それでも返事はすべきだろうと思ったらしい。
「……なんだ」
 紅孩児は、どうしてもこのニィの事が好きになれずにいた。
「ECT、かけるから助手してくれます? センセ」
 ECT、電気けいれん療法。100ボルトの電流を額に流す治療法だ。
――――悪名高き「電気ショック」療法、
「アレ、ヤると少しは大人しくなるよねェ」
 非道な措置のことを他人事みたいにニィは呟いた。患者はすっかり打たれた薬で人事不省だ。
「……どうして俺が」
「んー? 人手不足なんですよねェ。ココ。そんなことくらい身を持ってご承知でショ? 主任医師サマ」
 今の時間じゃ、麻酔医もいないし、なんて笑って振り返った。クックックッとニィの人の悪い笑い声が陽も射さない地下病棟に響いた。




 ちょうどその頃、廊下で、
 看護師たちは声をひそめて会話していた。空の搬送用ベッドを押す手に力が入る。戻るために急いでいた。戻って早く患者を運ばないといけない。
 ガラガラ。ガラガラ。搬送用ベッドの脚の車輪が鳴る。その音は暗い廊下に不吉に反響した。
「紅先生、ニィ先生にいじめられてないかな」
「そうだな」
 紅孩児のことが、看護師たちは嫌いではなかった。紅は頭を打ち付けている患者のことが心配で、看護師が来るのも待てずに駆けつけたのに違いない。そう、自傷する患者が心配で、危険なのに自分一人で病室へ行ったのだ。
「もう少し早く前の仕事が終わっていれば先生を助けられたのに」
「しょうがねぇよ」
 紅孩児。紅先生。正義感が強くてまっすぐな毛並みのいい若先生――――大病院の跡取り息子と噂されていた。そんな彼は最近災難にあっていた。ニィ健一が三蔵の逆鱗に触れ、閉鎖病棟主任を外されたのだ。それはいいとして、何と、後任となったのが紅孩児だったのである。
 看護師たちがベッドを押す力を強くした。早くしなければならない。あまりあの二人の医者を二人きりにしておきたくなかった。
 葬列を眺めて舌なめずりしている不吉なカラスと正義感に燃える紅の髪をした王子様。
住む世界がふたりは違いすぎる。早く、あの病室へ戻って、患者を乗せてECT室へ行かなければ。ベッドを押すたび、床との摩擦で車輪がガラガラと鳴る。
「紅先生。ウチの病院、向いてないんじゃないのかな」
 若い看護師がぼやく。
「しッ。滅多なこと言うな」
 年かさの看護師が叱りつけた。
 しかし、確かにそうだった。それはこの病院全ての人間が薄々感じていることだった。
 紅先生は立ち居振る舞いも颯爽として、礼儀正しくすごく優しい。曲がったこともできやしない。患者にも看護師にも誠実で真面目だった。弱いものなんかには事のほかやさしい。
 それが、どうして閉鎖病棟主任なんかになってしまったのだろう。気の毒だった。大病院の跡取り息子と繋がりを作っておけば、将来的に有利だという院長の打算は分かる。
 しかし、こんな薄ら暗いことにあの 「おぼっちゃま」 は――――向いていない。向いていなかった。優しすぎるのだ。
 現に、今だって、次にやることは麻酔で気絶している患者を電気ショックにかけることだ。
電気ショック。「療法」などといくら取り繕っても、第二次世界大戦時は拷問の一種である。
 ニィ健一の優れた能力や技術には一目も二目もおかねばならないが、看護師たちは下々や弱いものにも優しい若先生、
――――紅孩児のことをどうしても庇いたかった。
「このことを、一応、ナースセンターに伝えておこう」
 年配の看護師は呟いた。ECT室には内線電話もあるはずだった。



 院長室の内装は、高級な木材を柱に使い、床には燃えるような緋色の絨毯が敷かれている。ペルシア渡りの高級なものだ。
 マルボロの香りがただよう紫檀づくりの机の上で、内線コールが鳴り響く。
「院長だ。どうした」
 地下病棟の騒ぎを、ナースセンターがこっそりと電話で三蔵に知らせてきたのだ。
 三蔵なら、この状況がなんとかなるとでも思ったのかもしれない。
確かに、こんなことは精神病院の日常茶飯事ではあった。大病院の院長先生なら見聞き飽きたことだろう。
 けれど純粋な若先生、紅先生はまだ不慣れなのだ。そう、ナースセンターの看護師達が紅孩児のことが心配でこっそり御注進したのだった。あの赤い髪の男は看護師だとか、検査技師だとか、薬剤師だとかにやたらめったらに好かれていたのだ。
 ナースセンターの看護師が電話口で説明し続けている。聞いている三蔵の口調が微妙に変わった。
「地下病棟でか。それは」
 電話の内容を聞いているうちに院長の顔色が変わった。珍しいこともあるものである。白皙の美貌の見本のような顔立ちが、心なしかさらに白くなっているように見える。まだ話の途中なのに電話を叩き切った。つくづく短気だ。



 そして、


 机の上に決裁を待つ文書を放り出し、白衣をひるがえし、あっという間に三蔵は院長室を後にした。早足で緋色の絨毯の敷かれた廊下を歩く。並ぶ観葉植物の鉢を蹴飛ばしかねない勢いだ。
相当、気持ちが急いているのか、手にしていたタバコを消すことすら忘れている。
 しかし、すれ違う病院内の職員で 『廊下は禁煙ですよ』 などとこの院長先生相手に言えるものなどない。どう見ても、今日の三蔵は久々に機嫌が悪そうだった。眉をしかめた表情に緊張が走っている。美麗だが、屠る相手を探す死神に似ている。くわばらくわばら。触らぬ神に祟りなしというやつだ。皆、そっと道をあけた。
 三蔵はその、長い指で地下病棟へのエレベーターボタンを何度も押した。なかなか開かないので、ついでに悪態までついている。本当に短気だった。
 やっとエレベータのドアが開くと、三蔵は銀色の箱に即座に乗り込んだ。浮遊感とともにエレベータが沈む。その時になって、ようやくまだタバコを手にしていたことに気がついたらしい。いまだ紫煙が立ち上るそれをエレベータの床に投げ捨て、足で苛立ちとともに踏み消した。密閉された空間に硝煙にも似たタバコの匂いが強く香った。
 エレベータが地面に着く感覚の後、地下階を示す電光パネルがすかさず点燈する。ドアが開いたと同時に、三蔵は外へ出た。
 閉鎖地下重症棟。特殊な場所である。病棟と下界を隔てる鉄棒の嵌った巨大な檻のような戸を、三蔵が手にした鍵で開ける。硬く冷たい鉄の感触がする。次の鉄装のドア入り口につけられたデジタルのパネルにパスワードを打ち込んだ。
『入室、確認』
 デジタル錠の液晶画面に表示される文字とともにドアのロックが開く乾いた機械音が響く。

 重症棟に入った途端、よどんだ空気に包まれた。瘴気に満ちていて、不吉な冷たさがただよっている。そこかしこから患者達の唸り声と独り言が廊下まで漏れ聞こえてきて魔界のようだ。リノリウムの床に三蔵の革靴の音が響く、薄暗い地下病棟に金色の髪が揺れて光った。
 美しい。
 この男は、実は人間ではなくて地獄に舞い降りた麗しい大天使だと、うっかり錯覚してしまいそうだ。院長は所作も佇まいも何もかもが華麗だった。
 三蔵はちらりと手前の宿直室の方を振り返った。誰もいないようだった。各病室は監視カメラでも内部が確認できるようになっている。最新式の設備だ。
 しかし、三蔵はそちらへは向かわず、ドアの立ち並ぶ廊下へと足を向けた。
 この陰鬱な地下宮殿の回廊には厚い金属製のドアがずらりと続いていた。それなりに防音もしているはずだが、完全には防ぎきれてはいない。各ドアには、申し訳程度の小さな引き戸式の窓がついている。医者や看護人が患者の様子を覗けるようになっていた。
 ひとの気配のない廊下に再び院長の足音が響く。開放病棟はもちろん、階上の閉鎖病棟のどのフロアよりも、出入りする看護師なども厳しく制限していた。
 いくつかドアの前を通過して奥から3番目の病室前で立ち止まる。
 さっきまで、紅孩児とニィ相手に 「太陽に殺される」 と、おお立ちまわりをやっていた患者の病室だ。ドア上部の小さな窓から覗き込むが中には誰もいなかった。ニィが今頃、大人しくさせるために ECTでもかけているのだろう。電気ショックをかけるとボーッとして大人しく、扱いやすくなる。70年以上昔から、精神病院で重宝されている治療法だ。病室向かって左の壁に血のあとが点々と散っていかにも凄まじい。白いタイルなので、また血の赤がひどく目立つ。
 三蔵は節の立った指で小窓の引き戸を閉め、向かいを振り返った。
 そちらには重症の鬱病の患者が入っている。鬱病といってもあまり大人しくない。少しでも軽快してくると自殺を図るのだ。他の病院間をたらいまわしされていた患者だった。その男は開放病棟にいた頃、どこから手にいれたのか、サンポールと石灰硫黄合剤をこともあろうにその場でバケツで混ぜ合わせやがったのだった。全く猛者だ。勇者だ。またたく間に猛毒の硫化水素が発生する――――当然、大騒ぎになった。
 そればかりでない。ヤツは若い女性の看護師を暴行しようともした。
 この患者のカルテをめくり、かつて三蔵は舌打ちしながら言ったものだ。
「二度と勃たないようにドグマチールを山ほど盛ってやれ。本当に鬱病なんだろうな畜生」
 現在、処方されている薬はもちろんドグマチールだけでない。抗精神病薬はもとより麻酔剤に近いような薬まで投入して 『治療』 されている。三蔵が念のため小窓から様子を見ると果たして鬱病者は正体もなく床に転がって寝ていた。

 白皙の病院長は一番奥の部屋まで足早にたどりついた。ちらり、と隣にある左右の病室を紫暗の瞳で見渡す。病室に人のいる気配はない。
 それもそのはずだった。
 一番奥の部屋は八戒の病室だったが、周囲の病室は空室になっていた。わざとだった。常に周到に人払いをしておいたのだ。
 そう、八戒の周りの病室には患者は入っていなかった。
 理由は当然、八戒との秘めごとを露見したくないからだった。

 しかし、この病院のような重症棟は世の中そう多くはない。当然、患者の家族や他から 「重症棟は空いてませんか」 と常に照会が来る。
 そのたびに病棟医達はなるべく気の毒そうな表情をつくり
「申し訳ありませんが、既に 『満床』 でして」
 と相手に伝えるのだ。現状は3部屋、空いているのにだ。
 院長には絶対に逆らえない。それはこの大病院の血の掟、金の不文律であった。
 そう、八戒の病室のぐるり、向かい、はす向かい、それから隣――――と空けておいたが、さすがの三蔵もそれ以上はできなかった。
「畜生」
 三蔵が呟く。焦燥感を滲ませた表情だ。
 とうとう、三蔵は八戒の病室の前に来た。

 八戒の病室のドアに窓はない。最近、三蔵が業者に言いつけて小窓のないものと交換してしまったのだ。もちろん、監視カメラも取り払ってしまっている。
「チッ」
 密かに舌打ちをすると白衣の懐から鍵を取り出した。電子式の鍵だ。カード読み取り機にカードを入れる。カチッと音がして錠が外れた。ドアノブを回す、ちなみに、ドアノブは外にしかない、徹底した監禁部屋仕様だ。ちなみにドア下には食事のトレーを通す機械式な隙間だけは空いている。
「あれ、三蔵」
 ドアを開けると、とたんに優しげな声が聞こえた。
 黒髪の美人が顔をゆっくりと上げて振り返る。首もとで繋がれた細い鎖が涼しい音を立てた。長めの前髪が額でさらさらと揺れた。
 「彼」は三蔵が差し入れた本を読んでいた。文庫本の推理小説、それを長い指でそっと閉じ、床へ静かに置くと三蔵の方へと向きなおった。それは流れるような優雅な仕草だった。

 八戒の無事を認めて、院長のひそめられていた眉根の間がようやく開いた。こっそりため息すら吐いている。ビリビリと緊張していた表情は途端に柔らかくなった。



「ハルシネィション15へ続く」