糖度38度(3)

 その次の日。

 乱れた髪を直すようにして、八戒が寝台から身を起こした。
「…………」
 既に高くなっている太陽を、恨めしそうに緑の瞳で見上げている。頭をひと振りすると、その澄んだ瞳を俺の方へ責めるように向けた。
「なんだ。その目は」
 俺は先に起きて新聞を読んでいた。窓際の椅子に腰掛けてマルボロ片手にくつろいでいた。
 この宿は華美ではないが清潔で、調度品も趣味がいい。今の今まで、視線の先には、精も根も果てたようにしどけなく眠る八戒の姿があって、悪くない気分だった。
「……今日は、買い出しをしようと思っていたんですよ」
 せっかく直した筈の髪をぐしゃぐしゃと片手で掻き回して、八戒は呟いた。
「これからすればいいじゃねぇか」
 何をこだわっているのか、コイツのことは本当にわからねぇ。
「……すっかり、寝過ごしましたよ。誰かさんのせいでね」
 やや嫌みを含んだ言葉に俺は自分の眉がつりあがるのが分かった。
「なんだ。その言い方は」
「あんなに……あんなにしなくたって」
 昨夜の行為を思い出したらしい。その顔を染めて八戒が語尾を震わせて口ごもる。
 確かに昨日はヤリ過ぎた気もする。
 だけど、
「……なんだ。てめぇこそ最後の方は 『もっといっぱいにして』 とか言ってすがりついてきたじゃねぇか。忘れたなんざ言わせねぇぞ」
「…………! 」
 八戒は真っ赤になると顔を伏せた。頭から湯気が出そうな様子だった。
「さ、三蔵」
「可愛かったな。お前」
 俺は冷静に思い出して呟いた。抱けば抱くほどとろけてしまった八戒は、とうとう終いには俺を求めて悶え狂ったのだ。
 八戒も思い出したらしい。すっかり黙って、羞恥で茹だったようになっている。言葉も出ないような八戒の傍へ寄ろうと、俺は椅子から立ち上がった。
 その途端、背に走る爪跡が微かに沁みるように痛んだ。そのひきつれるような感覚に少し眉を顰める。
「痛ぇ……さんざん引っかきやがって」
「…………! 」
 もう行為が終わった後はそんなこと言わないで欲しいとばかりに責めるような視線を送ってくる。
「見るか? お前がつけた跡。ったく」
「僕……僕だって、あなたがこんなに……」
「ああ? 」
 しどろもどろになっている八戒を叱りつけていると、耳障りなノックの音がした。 扉が軽快に叩かれる。
「さんぞー? はっかい? 」
 悟空の声だ。
「うるせぇぞ。サル。今、取り込み中だ」
「な、なんです。悟空? 食事ですか? すいません! すぐ行きますから」
 助かったとばかりに声を張り上げる八戒が恨めしい。そんなにこの俺とふたりきりになっていたくねぇのか。
「もー! 食事なんて! もうお昼近いよ? いつ買い出し行くんだよ」
 悟空の声に、八戒が手元の目覚まし時計を手にとる。そして、そのままの格好で硬直した。時計の針は朝の十時半を指していた。
「…………」
 予想よりも時刻がかなり過ぎていたのだろう。八戒の表情が蒼白になる。さっきから赤くなったり青くなったり忙しいやつだ。
 ふたりで寝入ったのは、夜が白みはじめたときだから、当然そんくらいの時間にはなってるくらい予測がつくだろうに。
 ときどき、俺はコイツが賢いのかそうじゃねぇのか分からなくなる瞬間がある。
「今日は絶対 『うまい棒』 たくさん買ってもらうんだから! 約束したもんね! 」
 サルが。
 本当に 『うまい棒』 『うまい棒』 うるせぇヤツだ。
「ねー! 八戒も食べるでしょ? 」
 悟空の能天気な声がひときわ大きく響く。宿中に聞こえそうな大声だ。本人は大声を出してるつもりはないだろう。地声がやたら大きいのだ。元気がありあまってるってヤツだ。
 それにしても、アイツの頭の中には食い物のことしかねぇのか。思わず俺は怒鳴っていた。
「うるせぇぞ! サル! 『うまい棒』 なんざ散々、八戒は昨日の夜食ったからもういらねぇぞ、きっと」
 一瞬、扉の向こうは静まり返った。
 一拍の間の後。
「……なんだよ! それ! 八戒、俺に隠れて食ったのかよ! ひっでぇえ!! なんだよそれ! 」
 ぎゃぁぎゃあとサルの悲鳴じみた声がわき起こる。収拾がつかなくなった。
「……お願いします。もうなんでもしますから……」
 八戒が地の底を這うような声で、ベッドに突っ伏して呟いた。青ざめつつも赤いという複雑な顔色だ。
「もうこれ以上、恥ずかしいことを言わないで下さい。なんでもしますから」
 縋りつくような視線を向けてくる。俺はそれを横目で受け止めた。最初っから、そうやって素直にしてりゃいいんだ。
「お風呂……に、行かせて下さい。着替えてきます」
 俺は、よろめく八戒が浴室へ行くのを手伝い、バスルームの扉を閉めた。悟空のヤツはまだ懲りずに扉の向こうの廊下でうるさく叫んでいる。
「はっかいー! 八戒ッてば」
 俺は舌打ちすると、我慢できずに扉を開けた。急に開けられてバランスを崩し、部屋へ倒れ込んできたサルを一発ハリセンでこづくと、そのままの勢いで階下へと追い立てた。
「ちっくしょー! さんぞ! 下で待ってるかんな! 」
「先に昼飯食ってろ! この胃拡張ザルが! 」
 怒鳴りつけるとようやくおとなしくなった。俺は深々とため息を吐いた。
 騒がしい日々だが、まぁ――――。
 天を仰いでいると、背後から甘く涼しい声がした。
「お待たせしました。三蔵」
 浴室の扉が開き、身支度を済ませた八戒が顔を覗かせた。
 清潔感の漂う笑顔に、きちんと着込んだ中華風の襟の立った上着。こざっぱりとしたその服は、八戒の清廉さをより引き立てているようだ。
「行きましょう」
 自然な様子で俺の隣へ静かに近寄ってきた。
――――騒がしい日々だが、悪くはない。
 いや全く悪くはなかった。黒髪の美人が傍らでにっこりと微笑む。その様子に俺の口元は緩んだ。
 一階にある食堂へ行こうと、八戒が部屋のドアを開ける。ドアの向こうは廊下だ。廊下は突き当たりで階下へ降りる階段へと繋がっている。
 俺は八戒の後ろについて歩いた。木造の羽目板が足元で軋んで鳴る。目の前を歩く、その後ろ姿を見ながら、俺は思わず口元を押さえた。
――――あ。
 八戒は気がついていないのだろう。
 襟ぎりぎりの所に昨日の情事の跡が見え隠れしていた。肌と服の合わせ目だし、後ろについているから、本人は分かっていないに違いない。
 紅い花びらのような内出血の痣が艶めかしく覗いている。これを指摘するのはさすがの俺でもできなかった。
―――まぁ、俺が常にコイツの後ろを歩いて、他のヤツに見せなければいいだけの事だ。
 俺はひとりで納得した。



 宿の一階にある食堂は円楼になっていて、庶民的なつくりだった。料理のうまい店特有の活気と猥雑さに満ちている。
「はー! 食った食った! 」
 皿の上は綺麗さっぱりなにもない。ソースの類まで舐めるようにしてたいらげやがった。悟空は実に満足気だ。
 八戒は最後の小龍包を象牙の箸でつかむと、丁寧に口へと運んでいた。こちらは悟空とは対照的だった。見とれるくらい優雅な仕草だ。
 料理を食べる様子すら絵になるってのもどうかと思うが、自然にやってのけるから文句のつけようがない。俺の視線の先で、八戒は香りを愉しむように茶杯を傾けている。
 俺と八戒は朝昼飯兼用。悟空のヤツは……もとよりいつだってコイツは腹を空かせているんだ。朝飯も昼飯もあったモンじゃねぇ。メシがある限り食べ続ける。そういうヤツだ。
 俺は食後のマルボロを吸いながら悟空に訊いた。
「それはそうと、河童のヤツはどうした」
 まぁどうせ察しはついていた。
 案の上、悟空から不満げな声が上がった。
「あー! 悟浄のヤツったら、昨日の夜『俺はちょいと用があって』とかなんとか言っちゃって部屋を抜け出してったよ」
「ったくしょうがねぇ野郎だ」
 どうせ、博打か女だろう。
「ずっりーよな。買い出し手伝わないなんて」
「その分てめぇが荷物持て、悟空」
「んだよ、さんぞー! ずりーよ! くっそ悟浄のヤツー! 」
「ま、まぁまぁ。ふたりとも」
 八戒が横から仲裁に入ってくる。コイツはどうもサルに甘い。
「悟浄の分は三蔵も持ってくれるらしいですよ。悟空」
 とんでもないセリフが八戒から飛び出した。
「え、ホントかよ、ラッキー」
「な……なんでこの俺がそんなこと。下僕のてめぇらで行って来い」
 ちらっと八戒が俺の方を流し見る。鋭い目つきだった。
「何か、文句でも」
 背後に黒いオーラを背負って八戒がにっこりと笑った。怖ええ。
「悟空もそれでいいですよね」
「う……、うんッ」
 俺は思わず片手で顔を覆った。なんてことだ。
「さんぞー、なんか八戒にしたの? 今日の八戒こわい」
 声をひそめて悟空のヤツが囁く。しかし、昨日の夜、俺がナニをしたのかなんて、そんなことはサルになど言えるわけがなかった。
「…………」
 昨夜の敵をこんな形でとろうってのか。ったくどっか根性の歪んだヤツだ。
 正直、買い物のような面倒事は苦手だった。思わず舌打ちすると八戒がこちらへ顔を向けた。俺はここぞとばかりに恨みがましい視線を送った。
 しかし、八戒の反応は意表を突いていた。
 にっこりと笑いやがったのだ。天から降る白い花のように艶やかな笑顔だった。思わず見とれそうになる。
 くそ。
 そんな風に笑いかけられると……何も言えなくなるじゃねぇか。卑怯ものめが。



 まぁ、そんな訳で最高僧である俺までが、この日くだらん買い出しにつきあうことになった。出かけた市場は、人混みがすごかった。賑やかな通り一面に人がひしめきあっている。
 俺は注意して八戒の後ろをついて歩いた。眼前の八戒の襟首からは、俺のつけた鬱血の跡が見え隠れしている。
 他の野郎に見せたくはない。
「えーっと、缶詰。サバ缶にイワシに」
「肉! 肉買ってよ八戒ッ肉! 」
「はいはい。後で」
「……まだ買うのか。買いすぎじゃねぇのか」
 俺はうんざりした声を食欲魔人と薄倖美人へかけた。買い物なんか嫌いだ。
 こうやって人混みの中を歩くのもイヤだが、細々としたモノを揃えにこれまた細々とした店に入ってぐちゃぐちゃやるのがぞっとする。
 ひとことで言って面倒くせぇ。
 それなのに、八戒の野郎は喜々として、メモを片手に俺とサルに指示を出している。
 こういうとき、俺と八戒の根本的な違いを見せつけられるような気がする。いや、別に羨ましくなどないが。
 げっそりしている俺の前を、ふたりは楽しげに歩いている。信じられねぇ。
「これっぽっちじゃ、一日も旅を続けられませんよ。何しろみなさんたくさん食べますからね。特に悟空が」
「おい、サル。この缶詰はお前が持て」
 俺は前を飛び跳ねて歩くサルに命令した。
「え、えええ? もう俺、調味料とか水の入ったボトルとか持ってて……」
「うるせぇ。ガタガタ言うな。ぶっとばすぞ」
 賑やかな売り手の声と、買い手の笑い声。雑踏の人いきれ。華やかな原色で彩られた店の看板、積まれた食べ物の匂い。ひしめき合う乾物。
 つり下がって売られる干し肉、それを縫うように花を売る子供の高い声が響く。路上に広げられる色とりどりの花、悟空の声すらもがかき消されるような騒がしさだ。
「あれ? 」
 八戒は突然、背後にいる俺へと振り向いた。
「どうして、あなた僕の後ろばかり歩いているんです? 」
「気のせいだろう」
 俺がつけた跡が気になるなんて言えやしねぇ。
「いいえ、あなたったらさっきから僕の後ばかり……」
 八戒の言葉が途中で途切れた。驚いたようにその目を見開いた。緑色の瞳は俺の姿を通り越して、背後の人ごみへと向けられていた。何か見つけたらしい。
「三蔵……! 」
 八戒の血相が変わった。
 次の瞬間。
「三蔵一行覚悟! 」
 俺の背後からけたたましい叫び声がした。

 敵の妖怪達の奇襲だった。
 突然のことだった。反応が今ひとつ、というところで遅れた。振り向きざまに銃を取り出そうとしたが間に合わない。
「さんぞ……! 三蔵ッ危ないッ」
 八戒が手にしていた荷物を投げるようにしてその場にぶちまけ、俺の方へと駆け寄ってきた。
「……ッ?! 」
 俺を襲ってきた妖怪の間へ揉みあうようにして八戒が割り込む。長い鉄の棒で打ち込んできた相手を、八戒がその躰を張って止めた。鈍い、いやな音が響いた。
「がッ……」
 八戒がその場に崩れる。片手で、打ち込まれた腕を押さえて座り込んだ。左腕の上腕部に当たったらしい。
「八戒ッ……! 八戒をよくも! 」
 俺の眼前で悟空が激昂する。如意棒を片手で振り回し、八戒を打ちのめした妖怪に一撃を加えた。
 怒りのこもった悟空必殺の技の前に、相手はひとたまりもなかった。
「……この! 」
 俺も完全に頭に血が上っていた。なんてことだ。敵の気配が分からなかった。どうかしている。懲りずに打ちかかってくるそいつらを睨みつけた。まとめて始末しようと、両手を組んで印を結んだ。
 悟空がすかさず、唱えている俺へ打ちかかってきたヤツを止めた。
 如意棒から火花が散った。悟空は素早い動作で相手の攻撃を遮り、間髪いれずに打ち倒す。相手は崩れるように地面に伏した。
 なんとか俺は唱え終わった。残りの敵の数は二十人というところだった。
「魔戒天浄! 」
 魔天経文の威力の前では、下っ端の妖怪どもなど何の意味もなかった。周囲一帯が凄まじい光の渦で光り輝く。
 あっという間に、そいつらを消し炭のようにして消し去った。
「おい! 八戒ッ」
 俺は脇目もふらずに八戒へ駆け寄った。
「……三蔵、……あなた……無事で……」
 痛そうに眉を顰めながら、八戒が呟く。
「いやぁ、とっさのことで、気功じゃなくて……思わず手がでちゃいました。僕としたことが……失敗です」
 八戒が無理に笑う。その唇には色が無い。顔色が悪かった。ぐらりと八戒の躰が傾いだ。前のめりになって地面へと倒れ込む。
「……八戒! 」
「おい! 八戒! 」
 痛みで気を失った八戒を腕に抱えた。
「サル! 宿に戻るぞ……医者呼んでこい! 」
 確実に、どこかの骨でも折れているようだった。そう思った。



「糖度38(4)」に続く