歪んだ薔薇 第1部(7)

 夕刻になって、太陽の光に翳りが見え始める頃、図書館には閉館を知らせる音楽がかかりはじめる。J.S.バッハの「G線上のアリア」だ。
 それはもう何年も前からの習慣だった。美しいこのピアノ曲が流れると、図書館は一切の業務を停止することになっている。
「閉館の時間になりました。速やかに退出して下さい」
 自動テープの音声が学生たちに呼びかける。
 八戒は最後の仕事とばかりに、回収棚の上に乗っている、借出から戻ってきた本を幾つか持つと 『本日の業務は終了しました』 の札を下げ、受付を後にした。
 まだ残っていたらしい学生の何人かとすれ違う。その内の何人かは、昨日世話になった寮生たちだったので、八戒は思わず口元を弛めた。
「大丈夫ですか? 借りたい本とかまだありましたか?」
 受付を終了した時間だというのに、親切にも振り返って優しく尋ねた。
「あ! ……い、いや大丈夫です」
「昨日はありがとうございます。悟浄の名刺を貸して下さったのは……あなたでしたっけ? 」
「そ、そうですけど」
「お返しします」
 八戒は相手の手にそっと白いカードを渡した。悟浄のバイト先が記載された名刺だった。
「あ、……」
 相手はその名刺と八戒の顔を何度も見比べるようにした。緊張しているらしく何度も上唇を舐める仕草をする。
「どうしたんです? 」
何か伝えたいことでもあるような相手の気配を読みとって、八戒がのほほんと首を傾げた。
「は、八戒さん」
 思い切ったように、寮生のひとりが顔を上げた。
「はい? 」
 閉館を知らせる美しくも切ないメロディが、会話の間を縫うように響く。
「気をつけて下さい」
「え? 」
 八戒が問い直す間もなく、寮生たちはそそくさと立ち去った。
 謎めいた言葉を残されて、目を見開いて八戒はその場で佇んだ。その耳に、自動音声の館内放送が届く。
「閉館のお時間になりました」
「残っている方は速やかに退出して下さい」
 首を傾げながらも、八戒は戻す本を手に書棚の立ち並ぶ一角へと歩きだした。何かがに落ちなかったが、今はそれどころではなかった。何しろ外には悟浄が待っているのだ。早く仕事を片づけて彼に会いたかった。





 恋人と逢い引きの約束があるものの大半がそうであるように、八戒もどこか気がせいていた。大理石の床に八戒の足音だけが響く。
 手の中の本は五冊ほどあった。その内の一つをギリシア文学の棚に戻した。次は近代日本文学の本だ。八戒は慣れた仕草で次々と仕事を済ませていった。
 その時だった。
 大理石の床の上に、ガラスの小さな破片が光っているのを見つけた。
 不審に思ってよく見ると、すぐ近いところで透明なガラスが粉微塵に割れているのを見つけた。小さな水溜りができて、ガラスの破片が濡れて光っている。
 驚いてその場に座り込み、小さな破片のひとつを注意深く手にとった。
 カウンターの上にあった透明なガラスの花器だった。豪奢ごうしゃな薔薇を楚々とした表情で受け入れていた器だ。それが、こんなところで粉々になっている。
 水が入ったまま床にでも叩きつけられたらしい。無残だった。
 八戒は破片を床へそっと置いた。
 何故カウンターの上にあったはずのガラスの花入れがこんな受付から離れたところで割れているのか。しかも、飾られていた薔薇の花は姿も形もなかった。ただ花器だけが割られている。

 不気味だった。

 誰が、誰がいったいなんのために、こんなことをするのか。
 八戒は、一瞬受付の方までとってかえし、玄関の外で待っている悟浄に理由を説明して、このガラスの破片を片付けようかと思った。
 しかし、そのときかすかな物音を聞いて一切の動作を中断した。確かに、書棚に囲まれた通路の奥で人の気配がしたのだ。
「誰ですか」
 八戒が呼びかけたとき。館内に流れていた閉館を知らせる音楽がぴたりと止まった。


 ひと気の失せた図書館は真の静寂に包まれた。


 八戒がのぞきこんだのは、宗教学と哲学書が納められている一角だった。左右に高い本の棚がそびえ立ち、通路は狭くほの暗い。大人ふたりがすれ違うのもゆずりあわないと通れない。
 膨大な蔵書を抱えて、図書館は満杯だった。随分この一角も閉架あつかいにして書庫送りにした本が多いのだが、まだまだ整理が不十分という状態だった。
 狭いながらも厳粛な知の回廊と呼ぶべきそんな場所に、煙草の匂いがした。
 ベネディクト派のキリスト理解についての解釈書や旧約聖書の各言語による原書が立ち並び、異端とされるユダ福音書やトマス福音書までもが同列に並んでいる。
 そんな妖しくも神聖なる空間に不謹慎な香りが漂っていたのだ。
「三蔵! 」
 八戒は通路の奥にいる人物を見て、思わず声を上げた。
 それは確かに三蔵だった。
 紫色の瞳と金色の髪が映える黒いシャツを着ている。棚整理用の低い脚立を椅子がわりにして、ちょうど腰をかけるようにしていた。片足は脚立の段にかけ、もう片方の足は伸ばして煙草を一服している。
  仕事の合間に羽を伸ばしているというには、傲岸不遜な態度だった。ふてくされているというのではないが、その姿からは危険な何かがにじみ出ている。
 三蔵は八戒を認めると、無言でその目を細めるようにした。紫暗の美しい瞳がするどくきらめく。
 黒い服を着ているせいか死神めいて見えた。それにしても美しい死神だ。羽が生えているならば、その翼の色は黒いに違いない。
 虚無へと捧げる供物のように、紅い薔薇を手にして、三蔵は八戒に言った。
「……ずいぶん、今日は機嫌がいいみてぇじゃねぇか」
 天井の照明が本棚の隙間から金の髪を照らした。光りの環をまとう髪、その顔は高貴この上なく整っていて怖いほどだ。図書館を守る守護天使のようなこの男はしかし、不機嫌極まりない様子だった。
「三蔵! ここのガラスの花瓶……」
 割れているガラスの花器と、三蔵の手にしている薔薇の花を見比べながら八戒が言った。何かがおかしかった。何かが奇異だった。
「俺が割った」
 三蔵の口から出たのは思いもよらない言葉だった。
「三蔵? 」
 館内は禁煙のはずなのに、そしてそういう規則にはやかましいはずなのに、三蔵は自らそれを破り、こんなところで喫煙している。まるで何かを待ってでもいたかのようだった。
「お前は何も気がつかないみたいだからな」
 その華やかな美貌を苦い笑いに歪めた。視線を八戒から反らして横を向く。苦しげなその表情を八戒はびっくりして見つめていた。言葉が出てこない。
 本当に三蔵はおかしかった。冷たい何かがその横顔から漂っている。
「アイツは――――」
 誰もいない図書館に三蔵の呟きが虚ろに響く。
「優しく抱いてくれたのか」
 三蔵の背後には、万巻の書が並べられている。そんな本たちを背景に知の司祭のようなこの男はわけのわからぬことを呟いていた。
「三蔵……? どうしたんです? 」
 熱でもあるのかと、八戒は三蔵に近づいた。三蔵がいるのは奥の方だった。ゆっくりとした速度で、八戒は狭い本の棚の間を歩いた。
 闇の祭司の結界にも似た領域に足を踏み入れてしまったことにも気がつかず、八戒は相手の傍へ寄ると、その手を伸ばした。
 額にでも触れて、熱でもあるのかと確認しなければと思ったのだ。伸ばされた手を三蔵が素早くつかんだ。思い切り自分の方へと引っ張った。
「あ! 」
 バランスを崩した相手が、倒れ込んでくるのを受け止めて、金の髪をした男は苦しげな口調で言った。
「ずっと俺が大切に守ってきたっていうのに、てめぇは」
 八戒を抱き寄せたはずみに、薔薇の花がその手から落ちた。
「メチャクチャにしてやる」
 八戒の耳元に囁きながら、床に落ちた薔薇の花を靴で捻るようにして潰した。
「あんなヤツに渡すくらいならな」
 そのまま、三蔵は八戒の服を引き裂くようにした。ボタンを外すなどという悠長なことはしなかった。
 条件反射的に八戒が暴れる。その背が書棚にぶつかり、何冊かの本が床へと落ちた。豪華な装丁の本は最後の頁を開いて床に転がった。
「三蔵ッ? なんで―――何が、どうし……」
「分からねぇか」
 三蔵は右の棚へ八戒を正面から押さえつけてその唇を奪った。八戒が逃れようと手を振り回したので、また数冊本が棚から落ちる。
 執拗な八戒の抵抗に三蔵が舌打ちをすると、みぞおちのあたりに拳を打ち込んだ。激しい肉を打つ音とともに八戒がずるずると床に座り込む。
 硬い大理石の床の上で、三蔵は八戒を組み敷いた。あたり中に本が散らばって落ちひどい有様だった。
「分からないお前が悪い」
 そのまま、三蔵は八戒の躰を開かせ、その躰を貪りはじめた。
「三蔵ッ」
 必死で八戒が三蔵の躰の下から這い出そうとする。首を横に振って暴れた。それを押さえつけて、シャツを無理やりに肌蹴はだけさせた。
 途端に、首筋にある悟浄のつけた昨夜の口づけの跡が三蔵の目の前に現れた。紅い鬱血のその跡を見つけて、三蔵の顔から一瞬血の気が引いた。思わず天を呪うような唸り声が唇から漏れる。
 それはあたかも悟浄から三蔵への嫌がらせか何かのようだった。
「……クソ」
 舌打ちすると、三蔵は挑むように顔を埋めた。河童のつけたのと同じ場所に噛み付くように口づける。
 自分のくちづけを重ねるようにつけて、悟浄の跡を消そうとした。音を立てて激しい口づけが落ちる。
「……! いや……です! 」
 昨夜の悟浄との官能的な記憶が甦ってきて、八戒は思わず叫んだ。大事な悟浄との思い出を汚されるような気がした。きっぱりと自分を拒絶するつれない相手を三蔵は腕づくで殴りつけた。
「悟浄ッ……! 悟浄ッ悟浄」
 それでも、つれない唇が憎い男の名を切なげに呼び続けるのを聞いて、とうとう三蔵は激昂げっこうした。
 黒髪をわしづかみにすると、その頭を自分の下肢へと押し付ける。ジッパーが金属音を立てて下ろされた。
「咥えろ」
 その言葉に反応するように、八戒の憎しみのこもった瞳が三蔵を見上げた。
「咥えろ。潤滑剤なんていう便利なモンは持ち合わせてねぇ。つばつけねぇと痛ぇぞ」
 「食いちぎりますよ、いいんですか? 」
 強い光を放って翡翠色の瞳が三蔵を捉える。八戒は本気だった。
「やるなら、やってみろ」
「! 」
 三蔵の手には先ほど割ったガラスの破片が握られていた。いつ持っていたのか、分からなかった。
「そんなことしやがったら、てめぇの喉をかっき切ってやる。大人しく咥えるんだな。淫売が」
 視線で人を殺せそうな目つきで八戒は三蔵を睨んだ。そのまましばらにらみあった。八戒の深い湖のような碧色の瞳と、夕闇迫る空のような紫色の瞳が正面からぶつかった。
 三蔵は目を逸らさず八戒を正面からにらみつけ、その首へガラスの切っ先を軽く当てた。三蔵が横にでも手を引けば、たちまち血があふれ出るに違いない。
 場は緊迫していた。一種の極限状態だった。三蔵は本気だった。悟浄に八戒をとられてしまうくらいなら、いっそ殺してしまおうとでも思い詰めているに違いない。
(どうして――――どうして三蔵。僕はあなたをずっと尊敬していたのに――――)
 目に見えぬ命がけの駆け引きの末、観念したように八戒がその口を小さく開けた。
「うぐッ……」
 途端に、三蔵の太い怒張が乱暴に入り込んできて、八戒はむせた。異端審問の拷問室に似た様相に図書館内は変わりつつあった。ドミニコ派にその遺体を渡すまいと、弟子に煮込まれシチューとなったトマス・アクイナスもかくや――――陰惨な空気に知の殿堂は包まれた。


O Rose, thou art sick!
(おお ばらよ おまえは病む)


 三蔵は黒髪をわしづかみにして、乱暴に八戒の口を犯した。えづくほどに奥まで突っ込まれて八戒は吐きそうになりながら耐えた。
 先走りの塩気のある体液が、ぬめぬめと滲み舌を伝わってゆく。八戒の目の縁に涙が光った。苦痛だった。
(悟浄……悟浄)
 八戒は三蔵に揺さぶられながら、悟浄のことを思った。なかなか待ち合わせ場所に現れない自分のことを、あの紅い髪の男は心配しているのに違いない。
 無理やりの行為に快楽などあろうはずもなく、八戒はただただ三蔵の加える暴力に耐えた。まるで、自分が埋まる墓穴を掘らされているような行為だった。
「っ……」
 三蔵はねっとりとした動作で八戒の口腔内を犯しながら、下肢から湧いて走る官能に眉を寄せ、唇を噛み締めた。
 管理不可能な夜の淫夢の中で、こうやって八戒を犯したことがないと言ったら嘘になった。常に影になり日向になって八戒を周囲の雑音から守ってやりながらも、この黒髪の後輩に激しい情欲を感じていたのだ。
 それを必死になって抑えこんでいた。誰よりも大切で、汚したくなかった。大切すぎたから、自分の傍で微笑んでいるのを見ているだけで満足で幸福だった。
 そう。
 悟浄が現れるまでは。
 夢や想像よりも、男の怒張をしゃぶる八戒はいやらしくて淫らで刺激的だった。三蔵は腰を回すようにして自分から動いた。
 苦しいのだろう、八戒の頬を涙が伝った。銀の滴のようにそれは顎を伝って床へと落ちた。
「……げほッ……げぇ」
 八戒の髪を引っ張り、強引に頭を退けて口から張り詰めたペニスを引き抜いた。
「もう、いいな」
 ひどい蹂躙じゅうりんと衝撃でよろける八戒を支えて抱き寄せた。その腰を抱えて、床に座る。そのまま熱い切っ先の上へ、八戒の腰を引き下ろそうとした。
「……い……やだ! 」
 激しい抵抗にあって、三蔵はその涙でぐしょぐしょになった顔を叩いた。床へ突き飛ばすと、そのしなやかな躰を組み敷く。硬い床の上だというのに、なんの労わりもなく思い切り体重をかけて押さえつけた。
「…………! 」
 八戒が夢中で首を横へ振るのにも構わず、三蔵は八戒の抵抗を封じ、自分の怒張を押し付けてきた。
「力抜け。いいな」
 八戒の唾液と、自らの先走りの淫液で塗れたそれの先端を宛がう。
「あぐッ…………ぐ! 」
 悲痛な声が八戒から漏れた。大きく見開かれた瞳から、涙が流れる。
 三蔵の太い亀頭を強引に後ろの蕾にねじいれられた。ぐちゃぐちゃと接合部で音が立った。三蔵が腰を振って掻き混ぜるようにしながら更に奥まで繋がろうと腰を突き出す。
「ひぃ……ッ……! 」
 歯を食いしばって八戒はその苦痛に耐えた。恐怖で汗をかいていた。残酷な陵辱を受けて躰中が悲鳴を上げる。
「きついな。力抜けってんのが分からねぇのか」
 三蔵が汗を滲ませている八戒の額に優しく口づける。
「まだ、俺は半分しか入ってねぇぞ」
「っあっ」
 ゆっくりと埋められて、八戒の躰が引き攣る。初心で硬質な反応だった。
 とまどう躰は初めての行為にどうしたらよいのかも分からず恐慌し、固まっている。骨と骨の間が歪んで開いて、崩れてしまいそうだった。
「なんだ、お前」
 八戒を貫いていた、三蔵の口元にようやく笑みが浮かんだ。
「……初めてか」
 深い安堵あんどにじんだ声だった。金糸の髪を持つ男の動きは明らかに今までとは様子が変わった。優しくゆっくりとした仕草でその頬にくちづける。
「悟浄のヤツとはまだヤッてなかったのか」
 ほっとしたような表情がその顔に浮かんだ。
「そうかそれなら……俺がたっぷり抱いてやる」
 大きく開かせた脚を抱え上げ、三蔵は腰を軽く引いた。
「い、いやッ……で……」
 ずるりと三蔵の長大なものが体内から抜ける粟立つような感覚に八戒は呻いた。未知の感覚に必死で耐える。背骨を軋ませるような苦痛と、圧迫感で息もできなかった。
「……一回、イッといてやる。そうすれば、てめぇも少しは楽だろうが」
 三蔵が再び打ち込んできて、八戒がうわごとのように呟いた。
「動かない……で……」
 がくがくと抱き人形のように蹂躙され貪られる。三蔵は八戒の肩先を軽く噛んだ。獣の愛咬にも似た愛撫に敏感な肌が反応して震える。
「あ、あっ」
「……出す。受け止めろ」
「ひっ……」
 動きを止めて、八戒の奥へ自分を埋めると、ぶるぶると躰を震わせて三蔵が逐情した。
「……っふ」
 三蔵は溢れる精液を何度も腰を振り奥へ塗り込めるようにして擦り付けた。
「あ……」
 八戒は躰から力が抜けたようになった。白い首筋を晒して三蔵に貫かれたまま涙をこぼした。仰け反った首筋には、三蔵と悟浄のつけた内出血の跡が点々とついている。
 汚されてしまった。悟浄じゃなくて他の男の精液で躰の奥の奥まで汚されてしまった。
(悟浄……助けて悟浄)
 八戒は心の中で密かに悲鳴を上げていた。


 The invisible worm
  flies in the night,
(夜に飛ぶ目に見えぬ虫が)


 In the howling storm,
(吼える嵐のなか)


 Has found out thy bed
 Of crimson joy,
(深紅のよろこびのおまえの寝床を見つけてしまった)



「歪んだ薔薇(8)」に続く