歪んだ薔薇 第1部(6)

 図書館において、司書とは文字通り祭司のようなものだ。ヨーロッパなどの本格的な図書館では、司書は蔵書のすべてを把握しているといわれる。
 この大学図書館において、祭司といえば紛れもなく三蔵だろう。
 その容貌はこの上もなく整い、その華麗な様子は他の追随を許さない。美しいという点で競えば、学生たちから憧れを一身に集めているような八戒だとて敵わないかもしれなかった。
 太陽の光を集めたような金色の髪が美々しく光り、星が輝きはじめた夕暮れの空にも似た紫色の瞳は見とれてしまうほどに美しい。
 鼻筋は細く整い、やや細めの顎の線とつりあいがとれ、よく調和している。大きめの口元が破調といえば破調だったが、それは三蔵により男性的な魅力を付与しており、決して欠点などではなかった。
 その完璧な姿は学生たちの間でも崇拝と畏怖の対象だった。このバロック様式の、過剰なまでに重々しくも華麗な図書館に三蔵ほど似合う人物もまたいなかった。
 まるで名匠が精魂込めて彫り上げた大理石の美麗な青年像に命が吹き込まれて動いているかのような姿だった。
 しかし、うっかりすれば柔弱にもなりそうな華やかな容姿なのに、内面の激しい気質によって麗しいというよりも苛烈とでも表現した方がふさわしい印象を人に与えた。





 優雅な図書館に、午後の陽光が穏やかに差し込む。朝の作業も一段落つくこの時間帯は、時が止まるかのように全てがゆっくりと過ぎてゆく。
 三蔵も例外ではない。新しく入った本の登録をすませ、一階にある閲覧室へと歩いているところだった。受付を抜けて本棚の林を過ぎると奥の方にはテーブル席が広がっている。
 この図書館を設計した建築家は、華やかな中に毒をひそませたバロック様式の虜にでもなったに違いない。館内の全てが本格的だった。
 壁に掛かっている案内板は華々しくも羊皮紙を象った漆喰細工で、その板の端はまるで本物の羊皮紙のようにめくれ巻きあがっているという凝りようだ。
 三蔵がそんな書物の林の中で蔵書点検をしていると、奥のテーブルから学生たちの声が聞こえてきた。
 いつもは他人に関心のない、基本的に面倒臭がりの三蔵がその会話に耳を挟もうと思ったのは、なんといっても内容に 『八戒』 という名が含まれていたからだった。
「昨日、八戒さんが寮に来たのには驚いたよな」
 学部生らしき男子学生が数人でひそひそと話し合っている。三蔵は思わず本棚の陰に身を隠しつつ、耳を澄ませた。
「ああ、本当にな。びっくりした」
 一応、前期のテストを控えて勉強中らしい。テーブルの上にはノートが開かれたまま散らばり、鉛筆やマーカーペンが転がっている。
 講義中のノートをお互いに写し合っているようだったが、身が入っているとはとてもいえない様子だった。三蔵が背後で聞き耳を立てていることにも気がつかずに話し込んでいる。
「でも、あれだろ。がっかりだよな」
「言うな」
「まさか八戒さんが、よりによってあんなスケこましの――――」
 話の内容が聞き捨てならぬ様相を帯びてきて、三蔵は思わず身を乗り出した。手元に触れた本を落としそうになった。
「――――悟浄さんとデキてるなんてな」
 ため息をつきながらぼやく学生にその隣の奴が反論する。
「決まったわけじゃない」
「いやぁ見た? 八戒さんが 『悟浄』 って名前いうときの、うれしそうな表情。絶対そうだって。あのふたり」
 別の、ちょっと神経質そうな顔立ちの男が頭を抱えて悲嘆にくれる。
「そうそう。わざわざ寮なんかに自分から訪ねてくるんだぜ。もう決まったような――――」
 昨日起こった出来事を繰り返し繰り返し検討して落ち込んでいるといった様子だった。
 その時。
「その話は本当なんだろうな」
 学生たちの後ろから、血の凍るような低い声がした。
 三蔵だった。
「ひ……! 」
「うわ! 」
 驚いた学生たちが腰を浮かせたので、椅子が何脚か転がって倒れた。
「図書館は静かにしろ。うるせぇ」
 三蔵はことさら低い声で言った。腹の底に響く迫力のある声だ。殺気がこもっている。
「す、すいません」
「あ、ああ申し訳……」
 口の中でもごもごと謝罪の言葉を呟きながら、学生たちはめいめい机の上を片づけはじめた。まるでこの図書館の獄吏に見つかったからには、もうここにはいられないとでもいうような素早い行動だった。
「おい」
 三蔵は逃げようとする学生たちを呼び止めた。
「今の話、――――もう一度説明しろ。俺に分かりやすいようにな」
 その口元には、酷薄と表現するほかのない笑みが浮かび、紫暗の瞳は鋭く学生たちを睨みつけている。
「いいから、そこに座れ。洗いざらい知ってることを喋ってもらうからな」
 聞き捨てならない話の内容を、一から説明するまでは逃がさない。剣呑けんのんで威圧的な空気を漂わせながら白皙の美貌が人の悪い笑いを浮かべる。
 学生たちはお互いの顔を見合わせ、そして目の前の華麗な人物を恐る恐る見上げると、項垂うなだれて観念した。三蔵に逆らえるような者など、この大学にはいなかったのだ。





 その日、八戒といえば一日中、足が地についていないような気分だった。
 ほのかな薔薇色の霧に自分の周りがふわふわと包まれている気がする。万事そんな調子だった。
 実際、最後の肉親である姉が死んでからというもの、八戒の毎日は書物に逃避している人生だった。生活の大半を本に埋もれさせ、図書館に身を隠して、なるべく人と深く関わらずに生きてきた。
 意識しようとしまいと、それが今までの八戒の処世術とでも呼ぶべきものだったのだ。
 しかし、悟浄の登場によってそれは変わった。八戒の中で世界は輝き、煌めき、姿を変えた。真夏に咲くひまわりのような悟浄のまっすぐさは、八戒の心を溶かしつつあった。
 実際のところ、考えすぎるきらいのある八戒は 『人生はそんなに捨てたものじゃない』 と明るく言ってくれるような悟浄のような存在に弱かった。
 はじめて自分のことをおそれずに出せるような、包容力のある優しいひと。男らしい振る舞いに滲む思いやり。
 八戒はそんな悟浄のことが実際、好きだった。何もかも頼ってしまって、言いなりになってしまいたくなる。

 今日、仕事が終わったら、薔薇の花壇のところで待っていると悟浄は言った。

 もう何度目になるか分からないような甘い陶酔感のある感情が胸いっぱいに拡がって、八戒はそれに溺れかけた。
 受付でおとなしく座っていても、もう気もそぞろだった。頭の中を占めているのは、薔薇の花を背景に笑っている悟浄の姿ばかりだった。
 これじゃ仕事にならないと、ひと気のない時を見計らって八戒は席を立った。カウンターに不在の標を立てる。三角錐の形をした昔風で役所的なおもむきのあるそれを置いて洗面所へと向かった。
 顔でも洗って落ち着こうと思ったのだ。
 人の途絶えた図書館の玄関ホールに八戒の足音のみが響いた。ホールから遠くないところにある洗面所のドアを手で押して中に入った。
 古い洗面所だが、修繕は行き届いていて当時としては珍しく採光が考えられている。おまけにトイレの中までもが大理石張りという恐れ入るつくりだった。つくづく採算を度外視している建物だった。
 今の世の中でこの図書館をもう一度建てようとしたら、どれほどの金が要るのか見当もつかなかった。
 大理石の渦巻き模様のある洗面台に眼鏡を置いて、顔を洗った。水のひやりとした感触が気持ちよかった。頬を水で濡らして雫を滴らせながら、八戒はポケットのハンカチを探った。
 少しさっぱりした気分で顔を拭っていると、眼前の鏡に自分の顔が映っている。実際、八戒には自分の容姿が優れているなどという自覚はさほどない。周りの反応からして悪くはないらしいが騒ぐほどのものかと思っている。
 こんな顔のどこがいいんでしょうと思いつつ鏡を眺めていると、とんでもないことに気がついた。
「う」
 思わず小さく悲鳴を上げかけた。
 反射的に手を首へと持っていって隠す。
 そう、
 鏡の中、ちらりと見えた白い首筋にはかすかな口づけの跡が残っていた。昨夜悟浄が残した置きみやげだった。
 八戒の顔はそれを認めたとたんに、上気して真っ赤になった。あわてて、服のエリを立てる。白いポロシャツのエリはなんとかやっと艶めかしい跡を隠してくれた。
「や……もう」
 朝からちっとも気がつかなかった。色事や性に不慣れな八戒は初心でうかつだった。耳まで赤く染めながら、八戒は洗面所からでられなくなった。
 こんな跡がついたまま午前中、受付で人を相手にしていたと思うと羞恥で押しつぶされそうだった。
「……も」
 深くため息を吐いて蛇口の栓をひねり勢いよく水を出すと、もう一度激しく顔を洗い出した。本当は頭ごと突っ込んで冷やしたいほどだった。
 八戒が洗面所から出てくるのは、それから相当時間が過ぎた後だった。





「歪んだ薔薇(7)」に続く