歪んだ薔薇 第1部(5)

 大学の門をくぐって外の大通りへ出ると、八戒はひそかに考えた。
(いえ、こんなに大切なものを人任せにするなんて、よくありませんよね。僕が直に渡すべきですよね。困ってるでしょうし)
 八戒は自分の行動をそうやって、こっそりと正当化した。本当はひとめ悟浄に逢いたいだけだというのに、ごてごてと理由をつけて自己弁護した。まったく素直じゃなかった。
 街の夜の車通りは結構激しかった。寮生のひとりから渡された名刺によると、悟浄のバイトしているBARは繁華街の真中あたりにあった。
 飲み屋街で昼は死んだようになっている癖に、夜になると生気を取り戻しネオンの花が咲くような界隈だ。健全な学生がバイトする場所としては相当いかがわしかった。





 ちょうど、夕暮れどきで水商売の人々の出勤時間だった。往来のけばけばしい看板にも電飾が点りはじめる。ピンクや黄色のネオンが鮮やかに闇に浮かんだ。
「お客さん、もしよろしければ……」
 まだ少々早い時間だが、商売は先手必勝とばかりにピンサロの客引きが八戒にまで声をかけてくる。
 年ごろの男とみれば片端から声をかけていたが、八戒の容貌を間近で見て、はっとした様子で引き下がった。店にいる女の子の誰よりも美しい男に、斡旋できるホステスなど思いつかないらしい。
 そんな通りを縫うようにして歩いて、八戒はとある一角で足を止めた。
「ここですね」
 通りにはシンプルな白い電気仕掛けの看板が出ている。すっきりしたその白い電飾には、「Bar グレングラント」と黒い文字で書かれていた。
 飾りも何もなく、わりとそっけない。大人向けのバーらしかった。看板には地下に下りるような案内がされており、階段を示す下向きの表示が記入されている。
 八戒がBarの入り口を覗くと、確かに地下へ伸びる階段があった。酒蔵への入り口を思わせる、雰囲気のある階段を下りると、突き当たりに木製のドアがあった。秘密の隠れ家みたいなつくりだ。   
 少し、緊張した表情を浮かべて八戒はドアを押した。
 途端に心地よいジャズのサウンドが耳に届く。店内には夜の闇に似合う洒落た音が響いていた。
「いらっしゃいませ」
 声をかけられた。
 ドアを開けても普通の店のようにレジというものは存在しなかった。
 店自体が酒蔵のような落ち着いた土色をしている。壁には漆喰が塗られているようだ。床は濃いこげ茶の板が張られ、どっしりしたカウンタ―とスツールが置かれていた。
 カウンターの向こうには無数の酒瓶が並んでいる。数えられないほどたくさんのリキュール類や酒が壁を埋め尽くすように並んでいた。圧倒的な数だった。
 そんなカウンターに紅い髪の長身の男が立っている。
「悟浄さん? 」
 名刺にバーテンダーと書かれていたから、当然そうだろうとは思ってはいたが、バーでの悟浄の様子は大学とはだいぶ違った。
 ノーカラーの白いYシャツに黒い蝶ネクタイを締めている。躰にぴったりした黒いベストも着けて如何にもバーテンダーといった華やかな姿だった。
 紅く燃えるような髪が、明度を落としたバーの照明の下で輝く。肩先までの長めの髪は、客商売らしく後ろでひとつに結んでいたが、前の方の髪は無理に結わえず後ろに流していた。それがいかにも遊び人な風情を悟浄に与えていて人を惹き付ける。
 傷のある精悍な顔立ちが艶っぽい。やや切れ長の目がこの上もなく魅力的だ。
 黒い蝶ネクタイなんて、よほどの美形じゃないと似合わない代物だったが、悟浄はなんなく着こなしていて憎らしいほどだ。背筋を伸ばしてシェーカーを手にしている姿は本当に格好がよかった。
「なににしましょう……って」
 すましかえっていたら、さぞや色気があるだろう容貌を驚きに歪めて悟浄は叫んだ。
「八戒? うわマジ? どーして? どーしてここしってんの? 」
 驚きと嬉しさが混ぜ合わさった声が悟浄から上がる。
「ひょっとして俺に逢いにきてくれたとかー? 」
 無邪気な声に、八戒が横を向く。
「いいえ。忘れ物を届けに来たんです」
 八戒は服のポケットを探った。磨かれて顔の映りそうなカウンターの上に薄いプラスチックのカードを二枚置いた。免許証と学生証だ。
「はい。困ってると思って」
 そっと八戒は目元を染めて横を向いた。まだ7時そこそこという時間帯のせいか、店に客はあまりいない。
 カウンターとは別の壁際に置かれたテーブルに、常連客らしき中年男性が二、三人座って話し込んでいるだけだ。
「うは! ありがとう。俺、すっかり忘れてたわ。気がつかなかった」
 その悟浄の言葉を聞いて、八戒は肩透かしを食らい思わずバランスを崩しそうになった。
「わー。俺ってばこの店まで原チャで通ってんだけど、今日は無免許運転しちまったわ。やべー」
 屈託なく笑いながら、悟浄は愉快そうに舌を出した。粋なバーテンダーの風情に愛嬌という香味料が加わる。
 八戒の前に手品のようにコースターが置かれた。丸い厚紙でできたそれには店の名前が印刷されていた。
「ありがと。座ってよ……サンキューな」
 手際よくグラスに氷と水を入れてコースターの上に置き八戒にすすめる。
「あきれた」
 スツールの上に腰掛けながら、ぼそりと八戒は呟いた。
「よくそれで……あなた、能天気すぎますよ」
 やや辛口のその口調は、実は八戒の地だ。意表を突かれた悟浄の反応に思わずぽろりと本音を言ってしまった。
「ん? でもいいっしょ? 別に困んないじゃん」
 にやりと悟浄は悪びれもせずに不敵に口元を歪めた。先ほどの無邪気な笑顔と違って、どこかに毒を滲ませた色気のある笑いだった。
 女の子なんてこの笑顔を向けられたらひとたまりもないだろう。
「こーやって、八戒は俺に逢いにきてくれるし。万事オーライよ」
 悟浄は片目を悪戯っぽくつむり、ウインクをひとつ飛ばした。悟浄の明るさは相手を無条件で爽快にさせる。人生で悩みわずらうことなど何もない、そう力強く肯定してくれる強さがこの男にはあった。
 思わず、そんな悟浄に八戒はうっかり見とれてしまった。
 紅い髪のバーテンダーは自分のグラスにも水と氷を注ぐと、それをひとくち飲んだ。カウンターの照明は明るくはない。上からピンポイントで降り注ぐ形式のライトが取り付けられている。
 それは客を照らすというよりも、もっぱら出す酒のグラスを美しく演出することに長けている照明だった。店内にはジャズがさりげなく流れ続けている。会話を邪魔しない音量だ。
「こーやって届けてくれたお礼しねぇとな」
 悟浄は紅い目で流し見るようにして八戒を見つめると落ちてきた前髪をかきあげた。そうやって黒いベストに蝶ネクタイ姿で立っていると悟浄は粋なバーテンそのものだった。
 水商売で生業を立てる男が持っていないと失敗する要素、色気だの華やかさだのといった種類のものをこの男は山ほど独り占めしていた。それは誰もが持てるものではない。生来のものだ。才能といってもいい。
「なんでも好きなモン作るよ。何がいい? 」
 緋色の髪が、八戒の目の前で揺れる。カウンターの止まり木に腰掛けて、八戒はその綺麗な紅い色に見とれかけた。
「じゃあお言葉に甘えて……悟浄のお勧めでももらおうかな」
 八戒の言葉に、悟浄の口元がにやっと大きな弧を描いた。
「OK」
 次々と背後に並べられたリキュールを物色するようにして幾つか選び出すと、注意深くつくりだした。
 氷とリキュール入れて、左手を添えるとそのまま両手でシェイカーを振りだした。
 リズミカルに悟浄がシェイカーを振る音がバー全体に響く。悟浄の動作はぴたりとサマになっていた。もう何年もやっているのかもしれない。
 軽快な音楽のように氷が音を立て続ける。悟浄の振り方は二段振りと呼ばれるやり方で結構派手だ。
 的確なシェイクを証明するかのように素早く全体が冷え、シェイカーの表面が霜でも降りたように曇った。
 流れるような動作だった。華麗としか呼びようがない。
 見とれている八戒に構わず、悟浄はもうひとつコースターを長い指先でカウンターの上に置くと、その上に冷えたカクテルグラスを慣れた動作で置いた。
 悟浄が差し出したのは長い脚の先に逆三角形のグラスがついているカクテルグラスだった。グラスの縁は粉砂糖で飾りが施されていて、照明の下でキラキラと光る。
 悟浄はシェーカーの上蓋を外し、碧色のカクテルを注いだ。一連の仕草がこの上なく洗練されていた。
 カクテルは照明を受けて美しくしく輝いた。緑色の宝石を溶かしたような色だ。
 八戒の瞳とそっくりそのまま、同じ色のカクテルだった。
「……? 綺麗な色ですね。何ていうカクテルなんですか」
 賞賛のにじんだ声で、八戒は悟浄に尋ねた。目の前の男前は、カウンターにひじをついてはにかんでいる。
「……実はソレ、俺のオリジナルなんだけどさ、まだ名前がないんだよね。……八戒につけてもらえたりしたら、嬉しいんだけど」
 はにかむ悟浄の表情の端から、やんちゃな男の子みたいな雰囲気が漂った。責任重大な悟浄の申し出に八戒は思わず耳まで赤くなった。うれしかった。
「え、僕が? 」
「ん。……ずっと、俺八戒のこと考えながら……このカクテルつくったから」
 カウンター越しに耳元で甘く囁かれる。陶然とするような空気に八戒は酔った。ほとんど耳元に触れるくらい近寄った悟浄の唇の感触が蕩けるようで、八戒の脳を痺れさせる。
「ええと……Verde Rosso (ヴェルデロッソ) なんて名前はどうでしょう」
 八戒は綺麗な碧色のカクテルを眺めながら呟いた。
「何なに? ソレってどういう意味よ? 」
 悟浄はカウンターの向こうからいっそう身を乗り出した。
「さぁ? 何でしょうね? 現役大学院生なんですから、調べてみて下さいよ」
 イタリア語で「緑と赤」という意味だったが、なんとなく素直に言えなかった。
「えー? ごじょたん、おベンキョーは苦手なのよねー」
 権威のある大学の大学院生らしからぬ愛嬌たっぷりの表情に八戒は思わず吹き出した。
「何、笑っちゃって。教えてよ」
「ヒントだけですよ。イタリア語なんです」
「ヒントだけかよ――! 」
 落ち着いたバーのカウンターで悟浄と八戒は肩の凝らない会話をして楽しそうに笑いあっていた。
 しかし、
 夜の八時を過ぎると、店は段々と混みだした。ふたり連れの客が一組ドアを開くのを見て、悟浄が頭を軽く下げて挨拶する。彼らはカウンターの片隅に腰掛けた。
「悪り。ちょっとソレ飲んで待ってて」
 悟浄は甘い口調はそのままに囁くと、新しい客のところへ水を出しに行った。常連客なのだろう。悟浄と軽い冗談を交わし、あれこれと注文している。
 悟浄が離れると、まるで魔法が解けたようになり、八戒は深呼吸した。
 そして、人々がバーを訪れる稼ぎ時といってもいい時間が近くなっていることをようやく察した。
 悟浄がつくってくれた綺麗な翡翠色のカクテルは、外見どおり甘美で爽やかな味がした。少々癖のある薬草っぽいアクセントも中々洒落ている。
 メニューに名を連ねるギムレットやマティーニといった名立たるカクテルと並んでも見劣りしない深い味わいだった。
(いけない。このままじゃ邪魔になりますね)
 爽やかな甘いカクテルを飲み干すと八戒はため息をついた。帰るのは少々切なかった。
 それでも、注文を取って戻ってきた悟浄にさりげない調子を装って声をかけた。
「ごちそうさまです。僕はもう今日はこれで。お借りした服は洗濯してお返ししますから」
「! え、ちょっと待った八戒」
 慌てる悟浄に構わず椅子から降りた。いつもどおりの笑顔を浮かべて悟浄に別れの挨拶をする。
「お代は幾らですか? 」
「んなの、いらねぇってば。俺のオゴリ。それよりもう帰るのかよ」
 残念そうな口ぶりの悟浄に素気無く八戒は言った。
「また来ます」
「絶対だな」
 八戒と言葉を交わしながら、悟浄はカウンターから出てきた。そして、そのまま隅に立っていた店のマスターらしき中年男性にそっと耳打ちをしている。
 マスターがうなづくのを合図のように、悟浄は店を出る八戒の後を追いかけた。傍へ来ると弾んだ足どりで一緒に歩きだした。
「悟、悟浄」
「いーのいーの。店の外までお客さんはお見送りすることになってんの。ウチの店は」
 本当だろうかと首を傾げる八戒の先に立って、悟浄はうやうやしく店のドアを開けた。
「どうぞお客さま。……だから、さっきオーナーに伝えたのは、次の客の注文。今、オーナーが俺の代わりにシェーカー振ってる。そーゆーふうにやってんの。問題ねぇんだって」
 そういう形式の店も確かに多い。そういうものかと、そんな場所に通い慣れていない八戒はなおさらすぐに納得してしまった。
 ドアから出ると上り階段がひかえている。下りるときよりも、段数が少なくなったように八戒には感じられた。
 ふたりで階段を上っていると悟浄が八戒の名を突然呼んだ。
「八戒」
「え? 」
「……この身長差ってちゅーするのに、ちょうどいいと思わねぇ? 」
「……! 」
 返事をする間もなかった。狭い階段で抱き寄せられる。そのまま唇を重ね合わせられた。今日、借りた服から漂っていたのと同じベルガモットの香りをかすかに嗅いだ。
「うっ……くぅ」
 深く、深く口の中を蹂躙され、貪られる。
「っ……はぁッ」
 一瞬、唇が外れ息を継いだ。目尻に、涙が浮かぶ。
「俺のバイト先になんかに来てくれて……すっげぇうれしかった」
 緋色の瞳が真剣な色を帯びて八戒を見つめる。
「もう、期待しちまって……なのに、すぐ帰るなんていうんだモンな」
「あ……」
 悟浄が八戒の体側をなぞりあげるように手を這わし、細い腰を抱く腕の力を強くした。
「でも……八戒も、ちょっとは……こーゆーの、期待したりしてくれた? 」
「なに……! 」
 再び角度を変えて、悟浄の唇が重ねられる。腰の崩れそうな官能的なくちづけに、八戒は眩暈がしそうだった。こんなことははじめてだった。
 たっぷり、舌と舌をからめあわせられる。お互いの体液を交換するかのような濃密なキスだった。
「八戒、明日仕事終わったら、図書館の薔薇の花壇んとこで……待ってる」
「悟浄さ……」
「悟浄でいいって」
 悟浄はもういちど、なごり惜しそうに震える八戒の唇を舌先でぺろりと舐めた。
「待ってるから……俺とデートして」
「あっ……」
 そのまま、悟浄は顔を八戒の首筋に埋めた。白い滑らかな肌に誘われるように強く吸った。たちまち、桜の花びらでもついたかのようなくちづけの跡が残る。
「八戒と楽しいこと、いっぱいいっぱいしたい。食事して、映画みて、遊園地行ったり、水族館行ったり」
 そのまま、悟浄の手は八戒の躰を這った。
「あ、ああ」
「八戒……」
 耐性のない八戒の躰は、色事に慣れた悟浄にとっては御しやすかった。訊かずともこうしたことに免疫がないのが丸わかりな反応に、悟浄は思わず有頂天になった。
「返事、してくれねぇなら、ずっとこうやって……」
 壁に痩躯を押し付け、細い手首も縫い付けるかのように押さえつけて、再びキスを顔といわず、首といわず、腕といわずに降らした。
 このまま、なし崩しに抱かれてしまいそうになって、八戒が首を横に振る。情熱的なくちづけだった。
「わ、わかりました! 」
 とうとう八戒は叫んだ。
「本当だな」
 緋色の絹糸のような長い髪がさらさらと目の前で揺れ、紅の艶やかな瞳が真っ直ぐ八戒へ向けられた。
「……待ってる」
 耳元で、ぞくりとするような艶のある悟浄の声が響く。その声にも感じるのか、八戒が躰をびくんと震わせた。悟浄は囁きながら八戒の手に、先ほどカクテルの下に敷いたコースターを握らせた。
「これ、俺のケータイの番号書いてあるから。何かあったら電話して」
「え」
 コースターを裏に返すと確かに電話番号らしき数字が並んでいる。
「……カクテル、飲み終わったら渡そうと思ったのに、つれないんだもんな。八戒ってば」
 種明かしをすることになって、悟浄が苦笑する。それは、バーテン仲間が好みの客を口説くときの常套手段だった。
「ごじょ……」
「明日、食事しながら教えて? 俺のカクテルにつけてくれた名前の意味」
 悟浄の男らしい顔立ちに、真摯な色が浮かぶ。
「約束だかんな。待ってる」
 再び八戒と悟浄は唇を重ね合わせた。蕩けるような行為の連続に、八戒は地に足がつかず躰が宙に浮いたような気分をずっと味わっていた。
 その後、ずいぶん経ってから悟浄はようやく八戒を解放した。





 星が瞬く美しい夜道を八戒はふらふらと帰った。
 抱かれる寸前までの、随分ときわどい行為を悟浄にされてしまっていた。自分のアパートまで、どこをどう歩いて戻ったのかも分からなかった。
ただ、口の中には悟浄が作ってくれたカクテルの甘い味と、熱いくちづけの感触がいつまでも残って、その夜は随分遅くまで眠れずに困ったのだった。




「歪んだ薔薇(6)」に続く