歪んだ薔薇 第1部(4)

 その日の夕方。
 仕事が終わってから、八戒は大学の近く――――いや、ほとんど敷地内にある男子寮に立ち寄ることにした。
 けやきの木が青々と茂る一角を通り抜けると、見るからに殺風景なコンクリート造りの建物が見える。
 八戒の勤務している図書館は奇跡のような建物で、関東大震災も、大空襲をも生きのびたが、大学敷地、外周すれすれに位置している学生寮はそんな恩恵にはあずかれなかったらしい。
 何度も適当なその場しのぎの建て直しがされた建物で、見るからに安普請だった。
 それでもとりえは部屋代の安さと気楽さで、この寮を愛用しているものも多いようだった。学生たちの評判は悪くはない。もとより中高一貫の男子校出身者も多い大学だ。こんな生活に馴染みきっているものも多いのだ。
 とはいえ、そこは若い男ばかり何十人も好き勝手やらせて放っておくとどうなるかというような、一種の魔窟でもあった。
 八戒は、母校の蛮カラ――――野蛮カラーさに少々くすぐったいような思いを抱きながら、寮の入り口をくぐった。
 門やドアなどという気の利いたものの痕跡すらない。下駄箱のような玄関には新聞紙がぐちゃぐちゃになって撒かれるようにして捨てられ、誰のものとも知れない靴が幾つも散らかっている。
 八戒はそんな玄関に靴をきちんと揃えて脱ぎ寮へ上がりこんだ。
 実は悟浄の部屋の場所すら知らなかった。そっと手の中の免許証と学生証を握り締めた。あんなに目立つ男のことであるから、誰かに聞けばたちどころに居場所など分かると楽観的に考えていたのだ。
 置いてあるというよりも、放り投げてあると表現した方が正しい客用のスリッパを拾うと、八戒はそれをいて寮の階段を上がった。
 掃除なども学生の裁量に任されているらしいが、目立ったゴミさえなければ上等だとでも彼らは思っているのだろう。到るところがほこりっぽく殺風景だった。いや、むしろ掃除などしたら負けだと彼らは思っているのに違いない。
 そんな、薄汚れた階段を上り、二階に行くとかいこだなのような部屋が幾つも並ぶ廊下へと出た。
 国立大学などという場所はある意味、時が前時代で止まっている。驚くべきことに今時、ここは三人相部屋なのだった。
 そんな時代錯誤にあふれた大学寮の廊下を歩いていると、幸いにも部屋から出てきたらしき寮生のひとりに出くわした。
『酒の一滴は血の一滴』『飲んだら吐くな吐くなら飲むな』などと汚い字で書かれた張り紙がされている廊下に、場違いな美人がいるので、相手は驚いたように突っ立ったまま目を丸くしている。
「え、えええとあああなたは」
 相手は口も利けないで阿呆のように立ち尽くしていた。
「よかった。僕、人を探しているんですけど」
 八戒はうろたえまくっている相手に向ってにっこりと優しく微笑んだ。
 まさに掃き溜めに鶴とはこのことだろう。雑多でむさくるしい男子寮に爽やかな一陣の風が吹いたようだった。
 甘く涼しい声が蕩かすように聞くものの耳に届く。その魅力的な声を思い出して、夜眠れなくなるものもいるというのに、本人はそんなことは知らぬげだ。
 声をかけられた男子学生は魂の抜けたような顔つきで、八戒の整った顔を見つめ返した。そのまま、ぼうっとしたようになって、硬直している。
 八戒の白く小さい貌は、玉を刻んでできているかのように端麗だった。
「僕、沙悟浄ってひとを探しているんですが」
 その名を口にするのは少し勇気がいるのだとでもいうような照れを含んだ語調で八戒はたずねた。
 しかし、八戒の突然の登場に度肝どぎもを抜かれている相手は微動だにしない。うっとりと八戒に見とれるばかりだ。
「あの……? 」
 さすがに不審に思った八戒が重ねて問いただそうと、相手に近づいた。黒い前髪がくっつきそうなほどに顔を寄せられて、相手の学生は一気に我に帰り、息を止めた。
「わわわわわ! 」
 もの凄い至近距離から美人の尊顔を拝むことになって、相手は悲鳴みたいな声をあげた。
「悟浄さんの部屋をしりませんか? 紅い髪の……」
 困った八戒が首を傾げながら問い掛けていると、その後ろのドアが開いた。
「おい、なんだよ。今の妙な声は」
「なんだ。お化けでもでたのか」
 手に手にカップラーメンを抱え、はしを口にくわえて寮生たちが廊下に顔をのぞかせた。夕食前だというのに、間食していたらしい。
「うるせぇな」
「んだよ。寝てるのに」
 他の部屋からも声が上がった。周囲に並んだ二、三の部屋のドアが次々と開き、数人の学生が顔を覗かせる。理系の学生は徹夜で実験などしているので仮眠をとるものも多いのだ。
 ドアの隙間からは、洗濯物が縦横無尽に吊られて干されているのが見えた。
 別に今日は雨ではない。しかし、面倒なので常に部屋に干しっぱなしにしているのだ。
 部屋にひもを吊るして干して、タンスなんていう面倒なものには当然しまわない。また直接ここから着替えるのだ。
 そうすれば、干す→着る→洗濯→干す→着ると手際よく循環し、途中の余計な「しまう」だとか「畳む」だとかいう七面倒な作業が省略できるのである。ある意味合理的で画期的なことであった。
 そんなむさくるしい生活を送っている、この連中は、場違いにも美人がいるのに驚いた。
「うわ! 八戒さん! 」
「八戒さんだ! 」
「おおおお! 」
「すげぇ、本物か! 」
「図書館じゃなくってこんな汚ねぇ俺らの寮にどうして! 」
 わけのわからないことを言って唸っている。よほどびっくりしたのだろう。
 そんな寮生たちの気持ちも知らず、当の本人はのほほんと微笑んだ。
「うわぁ、僕が学生のころと寮も変わってないですねぇ」
 その言葉に寮生たちが敏感に反応する。
「あ、あの。八戒さん寮に住んでたことあるんですか? 」
 こんな美人がこんな汚れたところに住むなんてありえない。どの顔にもそう書いてあるが、訊かずにはいられなかった。
「いやぁ。ははは。面目ないです。家賃は安いし、寮生活には興味あったし、僕も入りたかったんですけど」
 八戒は照れたように頭をいた。艶のある黒髪が光りを反射して輝く。その仕草に思わず周囲から生唾を呑む音が立つが、本人だけが気がつかない。
「ひとつ上の先輩にもの凄く反対されまして。近くにアパート借りちゃったんです」
 八戒は昔を思い出すような目つきをした。その脳裏には金の髪、白皙の美貌の男――――現在も職場で先輩である男の顔が――――浮かんでいた。
三蔵は、当時から過保護だった。八戒が経済的理由から寮に入ろうとしたら、もの凄く反対したのだ。
 ちょっと残念そうに肩をすくめる八戒に周囲はため息をつきながら言葉をかけた。
「そうでしょうね」
「いや、本当にそうですよ」
「こんなところ八戒さんみたいな人は住んじゃいけませんよ」
 自分達は住んでいる癖に、わけのわからないことを言っている。
 実際、彼らは八戒のことを崇拝していた。本人だけが知らなかったが、ほとんど八戒はこの大学のアイドルだったのだ。
 どのくらいアイドルなのか例を上げろと言われれば、学生の図書館利用者数が激増したことで証明できるだろう。
 図書館は文科系の本の比率が高かった。理科系の専門書は各研究室や、学部棟に設置されていることが多いのだ。
 それなのに、八戒が司書として赴任してきてからというものの、理科系の学生までもが連日大挙して総合図書館へ詰め掛けた。何が目当てなのかは推して知るべしだった。
 大学自治会は図書館の「過剰な利用」について嘆き、話し合おうとしたが、理科系の学生が「我々にだって、美を愛でる権利くらいある。我々からそれを奪おうとする、文科の横暴、及びその支配的体質、立身出世主義に対して理科一同遺憾の意を示したい」などと訳のわからない意見が続出、話し合いの場は即座に紛糾したのだった。
 原因は言うまでもなく八戒のせいである。
 その姿は写真同好会や有志によって隠し撮りされまくっていた。いい機材、一眼レフなどを所有するものは、例え普段は硬派の鉄道マニアで電車ばっかり撮っていても、一度はこの麗人の姿をファインダーに納めていた。
 そして、またその写真は裏でよく取引されていたのだ。
 かくも美しいとは罪だった。

「そうそう。ごめんなさい。僕、人を探しているんです」
 八戒は思い出したように切り出した。悟浄の学生証を手にしながら言った。
「大学院生の沙悟浄さんっていう人なんですけど」
 意外な人物の名前が黒髪美人の口から出て、周囲は騒々しくなった。
「悟浄さん? 院生の? 」
「紅い髪の? M2(修士二年)の悟浄さんのことですか? 」
 どうして、図書館の麗人、全学生の憩いにしてオアシスである八戒が、かっこいいとはいえ、あんな超不良な先輩と面識があるのかと皆びっくりした。まるで美女と野獣だ。
「俺、悟浄さんと同室させて頂いているんですが」
 そんな中、直立不動でしゃちほこばりながら八戒に御注進するものがいる。
「悟浄さんなら、この時間はバイトに行かれていると思います」
 やたらめったら丁寧な口調で相手は『悟浄さん』と発音した。
 無理もなかった。この大学で「遊んでる」といえばせいぜい 「麻雀が強すぎて、下宿先にも戻らず一晩中やってる」 ような連中のことだったが、悟浄といえば色街は自分の第二の故郷みたいな顔をして、呑む、打つ、買うは一通りマスター、女あしらいも玄人顔負けで年上のおねぇさま方に圧倒的な人気を誇るなどときているので、下級生からは絶大なる憧憬と崇拝を受けてしまっていたのだ。
 まだ少年時代をどこかにくっつけている学部生のものなどは多大なる尊敬を込めて『悟浄さん』と呼び、慕っていた。
 彼らが得ようとしても得られぬ世界が悟浄の背後には広がっており、彼は周囲から一目も二目もおかれていたのである。
「バイト……そうですか。お留守なんですね」
 少し、残念そうに八戒は眉を寄せた。愁いを含んだその顔を見て、またもや周囲が慌てる。
「お、俺っ悟浄さんのバイト先の名刺もってます! 」
 眉の凛々しい、しっかりした顔立ちの学生が部屋へ取って返す。必死で部屋中かき回して探しあてたらしい。しばらくしてから、なにやら細長いカードを取り出した。
「以前、頂いたんです。『困ったことあったらここに来い』 って」
 八戒には、その時の悟浄の仕草がまぶたの裏に浮かぶようだった。たぶん、あの紅い髪の色男は片手を上げて粋に軽く手でも振ったのだろう。
 とかく悟浄には男気というか、同性から絶大な人望があった。
 差し出された名刺を受け取ってしげしげと眺めると、そこには
『ワイン・カクテル・ビール&世界の銘酒、
“BARグレングラント” バーテンダー 沙 悟浄』
 と記され、住所と電話番号が載っていた。
「……Bar? 」
「え、ええ。悟浄さん、夜はバーでバイトしてるって言っておられました」
 やはり、やや緊張した面持ちで下級生が返事をする。
「この名刺、少しお借りしてもかまいませんか? 」
「え? えええ! も、もちろんですはい」
 憧れの人と会話している光栄さに、目をしばしばさせて相手は返事をした。
「ありがとう。僕、行ってみます」
 八戒は嬉しそうに微笑むと相手に軽くお辞儀をした。慌てて相手もお辞儀し返した。





 こうして。
 あっけにとられている寮生のみなさんを後に、八戒は男子寮を後にしたのだった。
「……行ってしまわれた」
 ぼそりと誰かが呟いた。八戒は立ち去ったというのに、誰も部屋へ引き返そうというものがいない。
 みな幻術にでもかかったように、うっとりと八戒の立ち去った後を見続けている。まるで麗しい残像をも見逃さぬとでもいうような様子だ。
「ああ、在学中にやっとお言葉を交わせた」
 切なげに呟く声の主は恐らく四年生だろう。この奇跡を胸に就職活動頑張ろうとか、心の中で言い聞かせているに違いない。
「ホントに。あんなに綺麗なひとがこの世にいるなんて奇跡っスよね」
 まだ幼さの残る学生が服のポケットからそっと写真を取り出した。
 それは、白いシャツを着た八戒が、薔薇の花壇を背景に水を浴びてびしょ濡れになっているという写真だった。
 相当いい機材で撮ったとみえ、シャツが濡れて透ける肌の具合まで詳細にその写真は伝えていた。要するにほとんどセミヌードの扇情的なその姿は、確かに昨日の八戒の姿だった。
「なんだ! その写真」
 横合いから目ざとく見つけた別の学生が叫ぶ。
「あ? いやこれ昨日、食堂で二年のヤツから買ったんですけど。腕のいいのがいるんですよ」
「俺にもソレ売ってくれ! この通りだ頼む! 」
 周囲は写真の持ち主を囲み、手を擦り合わせ頭を下げてすがりついた。
「俺にも」
「俺だって欲しい」
 次々上がる声に、写真の所有者は持てるものの余裕を含んだ声で呟いた。
「えー。どうですかね。昨日現像して、30枚焼き増しすんのがやっとだって言ってましたよ」
「頼む! 」
「てめぇ、先輩の言うことが聞けないのか! なんて野郎だ」
「そんなエロい写真なんか没収だ! むしろ俺が使う! 」
 ぎゃぁぎゃぁ喚いていたが、そのうち色々空しくなったのだろう。
「くそぉ! 飲むか! 」
「もうやってられねぇ。八戒さんはよりによって悟浄んとこなんか行く気らしいし」
 恋の恨みですっかり悟浄は呼び捨てにされている。
「酒だ! 酒持って来い! 」
 そんな声が上がりはじめた。何かというと飲んでバカ騒ぎして忘れようとするのが若い彼らの流儀だった。
「誰かありったけもってこい。メチルアルコールだってかまわねぇ。こうなりゃヤケだ飲み尽くしてやる」
 大騒ぎするバカな連中に、階下の食堂から熟年女性の怒鳴り声が浴びせられた。
「こら! あんた達! 夕食前になに騒いでんの! あたしのご飯も食べずにお酒のむなんて承知しないよ! 」
 寮母さんの一喝だった。
 それを聞いて、大騒ぎは一瞬ぴたりと収まった。寮生たちはがん首揃えて、浮かぬ顔をした。同輩連中の顔をお互いに見渡すと、長い長いため息を一斉に吐いた。
 彼らにとって、八戒の存在は青年期の淡い夢のようなものだった。まさか同性でこんな美形はおるまいと思っていたのに、現実は妄想よりも奇なりだった。
 大学の図書館なんかで超絶美形が優しく微笑んでいたのだ。ある種の衝撃だった。
 一方的に理想と憧れを勝手に黒髪の図書館司書に被せて焦がれている。
 どうせ、社会に出てしまえば彼らにもう自由などというものはない。政官財界で、あるいは学界で、社会の規則にがんじがらめになり、結婚をして女房子供などという不良債権を抱え、重責にひたすら耐える日々が待っているのだ。
 八戒に懸想するとは、そんな日が到来するまでのほんの僅かな自由の象徴に等しかった。
 寮母さんの怒鳴る声に従って、すごすごと階下の食堂へ向う彼らは、ちらりと寮の玄関へと目を向けた。
 それは、もういない黒髪の美人の姿を追うような仕草だった。手には届かない八戒の姿は、彼らにとって何かの暗喩そのもののように思えた。

 憧れとは決して手に入らないからこそ憧れなのだ、と。



「歪んだ薔薇(5)」に続く