歪んだ薔薇 第1部(3)

次の日、図書館の中は相変わらず薔薇の香りが立ち込めていた。
 出勤した八戒がカウンターの机の上を見ると、昨日と同じく豪奢ごうしゃな紅い花が一輪咲き誇っている。八戒が花壇から持ちかえって生けた薔薇だった。
「あれ? 」
 八戒は首をかしげた。
 薔薇は首に近い位置で折れてしまっていた。そのため茎が短く、首の長い花瓶には挿せなかった。とりあえずコップに生けたのだが、今見ると何かが違っている。
「これは……」
 八戒は薔薇にそっと触れた。
 今、薔薇はコップではなく、透明な硝子の花器に生けられていた。
 それは吹き硝子でできた小さな美しい花入れで、ところどころに気泡が入っており、爽やかで涼しげだった。極めて控えめな佇まいで、薔薇の華麗さを引き立てるかのようだ。
「……誰が持ってきてくれたんでしょう」
 八戒はしばらくの間、首を傾げていたが、その内に思い当たる節がないとでもいうように首を振った。はおっていた薄い緑の上着を脱いで、椅子へかけた。極めてシンプルな白いシャツ姿になった。
 さりげない装いは、かえって八戒の麗質をますます浮き彫りにし、引き立てる結果になった。
 しかし、本人はまったく自分の姿になど、無関心な様子で、そのまま出席簿に自分の判を押すとまた外へと出ていった。
 晴れ渡り気持ちのよい天気だった。暑くなりそうな気配が朝のうちから立ちこめている。
 土の柔らかく豊かな感触を靴裏越しに感じながら、八戒は薔薇の花壇に入った。途端に太陽の匂いと薔薇のむせかえるような甘い匂いに包まれる。
 自分の腰ほどの高さで咲く薔薇の花を一輪手にとって呟く。
「ばらよ おまえは病む……か」
 虫に少し喰われた跡があった。ウィリアム・ブレイクの詩句を連想させた。
「本当に薔薇って悪い虫が寄ってきますよね」
 そのまま花壇の隅へと歩いていった。そこには水道があり、花に水をやれるようになっていた。
 蛇のように長く青いホースがとぐろを巻いて置いてある。ホースの元は蛇口に繋がっている。
 八戒は微笑みを浮かべて蛇口の栓を捻った。途端に無機物のホースは血が通ったようになり、水の圧力でうごめいた。ホースを通って蓮口はすくちから水が降り注ぐ。
 八戒は蓮口の首を持ってホースをひっぱり、薔薇へ水をやりはじめた。昼よりも朝のうちに水やりは、した方がいい。これは開館前の日課のひとつだった。
 いつものとおりのいつもの仕事。
 誰に頼まれたわけでもなく、八戒が好きでやっていることだったが、図書館の前を通る学生たちからは、「花壇の手入れは八戒さんの仕事じゃないでしょう」 などと声をかけられることもしばしばだった。
 結局のところ八戒ファンな彼らは、大学当局が八戒に仕事を押しつけていると憤慨ふんがいしているらしい。そんなことないのに、と肝心かんじんの本人は笑って何も言わなかった。
 しかし、今朝はいつもと様子が違った。
 突然ホースが蛇口から外れたのだ。水の圧力でホースは宙を舞うようにしてのたうち、跳ねた。
「うわっ! 」
 そんなに水は出していないつもりだったが、それでもそれなりの圧力がかかっていたようだ。ホースがはね回ったおかげで、八戒にも水はかかった。
「………」
 白いシャツが水に濡れて、びしょびしょになった。頭から被ったので、艶やかな黒い髪の先からしずくが滴り落ちる。
「何してんの? 」
 突然起こった出来事に面くらって呆然としていると、横から声をかけられた。サングラスをかけた紅い髪の男が心配そうに花壇をのぞき込んでいる。
「悟浄さん! 」
 まずいところを見られたと、八戒が顔色を変える。この長身の男前はどうも、機を見るのが敏で、間がいいのか悪いのか、ともかく八戒の前によく顔を出した。
「うっわー。ずぶぬれじゃん? 」
 色の薄いサングラスを指で下へずらして悟浄は上目遣いに八戒を見つめた。男っぽくも不良っぽい仕草だった。 
「いや、突然、ホースが外れて。間抜けなところを見られてしまいました」
 苦笑したまま八戒は前髪から落ちる雫をうっとおしそうに払った。こめかみからも水が伝って流れ落ちている。
「ホースが外れた? どれどれ」
 悟浄は花壇の垣根を乗り越えた。熱帯の花々がモチーフの派手な赤いシャツの裾がひるがえる。ホースが外れて水を盛んに吐き出している蛇口へと近寄った。
「あれ、これ」
 水道の栓を締めながら、悟浄は呟いた。精悍な顔立ちを顰める。
「……わざと、ゆるめたな、こりゃ」
 ホースと水道の蛇口をつなぐ金具を見比べながら緋色の髪の男はうなづいた。ホースは水道の  
蛇口に金属の輪のような器具で取り付けられていたが、それはちょうど水を出すと外れるようになっていたのだ。
「ったく。誰がやったんだか。こんなイタズラ」
 紅く長い髪を揺らして首を捻り、ため息をつくと悟浄は八戒を振り返った。その首で男物のネックレスの鎖が鳴る。
「ったくしょうがねぇ。どーせ学生の誰かが……」
 悟浄はそれ以上、言葉を継げなくなった。八戒をまともに見てしまったのだ。その白いシャツは濡れて下の肌が透けてしまっていた。濡れたために上半身にシャツはべったりと張り付き、躰の線が露わになってしまっている。
 それは脱いで裸になるよりも、むしろ生々しく艶っぽかった。扇情的な姿に、思わず悟浄が黙る。心のどこかで、これを仕組んだ連中の狙いが分かった気がして、河童は頭を抱えたくなった。
 しかし、そんな悟浄の思いをよそに、黒髪美人は予想外のことを呟いた。
「あんまり、僕は人に好かれてはいないようですね」
  長めの前髪からしずくを垂らしながら、苦笑いを濃くする。
「まぁ、そうかなとは思っていましたけど」
 一瞬。
 さびしげな光を緑の瞳は浮かべた。
 いつも人好きのする穏やかな笑顔で、実は人との間に障壁を作っているこの青年の本当の姿を見た気がして、悟浄は思わずそのうれいを含んだ小さな顔を見つめた。
 いつも大人で、精神的に安定しているように見えたこの司書の、もろい一面をひょんなことから発見してしまった気がした。
「……何、言っちゃってるのか、分かんねぇけど」
 悟浄は真顔になって鼻の頭を指で掻いた。本当になんと言っていいのか分からなかった。
「俺は逆にアンタのことを好きすぎる誰かがコレをやったと思うね」
 悟浄はやたらきっぱりと言ってのけた。
「……え」
「アンタのそういう、スケスケな格好が見たくて見たくてしょうがない野郎がやったんだぜ」
 目の前の八戒を見つめる。白いシャツは濡れたために半透明になっていて、ピンク色の胸の尖りまでが露わだった。艶めかしいったらなかった。
「間違いないって」
 悟浄は周囲を見渡した。誰かが絶対にこの様子を覗いている。そう思ったのだ。
「ぼ、僕の」
「そう、そういうアンタのえっちな格好が」
「僕のどこがえ……えっちだって言うんですか! 」
「全部」
 らちの開かない会話を続けながら悟浄は自分の着ていた派手なシャツを脱いだ。
「まったく、目の毒だったらありゃしねぇ。ハイこれ」
 八戒の目の前に、ハワイ辺りで着るのが適当なのではないかと思わせるようなド派手なシャツが突き出される。赤や緑で刺繍が施されたそのシャツは、おそらくそれなりに高価に違いない。
「そのまんま、仕事できないっしょ? 俺、寮だし。授業の合間に帰っから。寮近いし」
 ランニング一枚になった悟浄はそう言うとベルトに手をかけた。
「な、何してるんですか」
「ん? 下もいるかなーと思って」
「い、いいです! いいです! 下は支給されてる事務服の予備がありますから」
 八戒は必死で悟浄を止めた。
「そっか」
「だいたい、下なんか脱いでどうするんですか! 」
「ん? トランクスだけど。トランクスだと授業受けちゃだめってこともないっしょ」
「…………」
 それを聞いて、八戒は笑い出した。どうにも悟浄は破天荒で型破りだった。自然児そのものといった彼のいうことを聞いていると、なんだか落ち込むのもバカバカしくなってくる。
「やっと笑った」
 そんな八戒を見つめて悟浄がにっと笑う。大きな口元から白い歯列がのぞく。
「アンタ、さっきみたいな寂しげなカオも薄倖美人っぽくていいけど、やっぱ笑顔がいいや」
 強引に八戒に自分の着ていたシャツを手渡すと、冗談めかして言った。
「でも、俺の前では無理して笑わなくっていいからな! 」
 真夏に咲く真っ赤なひまわりのような。全開の笑顔で力強く言った。
 そのとき、
「悟浄ッ! 先いくぞ今日は代返、しねぇからな! 」
 折りしも、一限目の講義が始まる時間が近づいていると見えて、次第に図書館前の道路は学生の数が増えてきた。
 美人な司書と話しこんでる色男に次々と声が飛ぶ。
「なんだぁ? コイツ八戒さんと! 悟浄っ、この野郎お安くねぇな! 」
 この紅い髪の男前はやたらと友達が多いらしい。真面目な一群はともかく、どこか悪そうな連中が嬉しそうに片端から声をかけていった。悟浄は大学で結構な有名人らしい。
「なに花壇荒らしてんだよ。害虫みてぇだぞ! このゴキブリ河童! 」
「美人口説いてんじゃねーよ朝から、こーのヤ××ンが」
 野卑にかけられる悪友どもからの容赦のない揶揄やゆ罵倒ばとうに悟浄は片眉をつりあげた。
「っせーよ! バカども! 黙れ。てめぇら。んなに羨ましいのかよ。ほんとーにバカだなお前らは! 」
 タンクトップ一枚という目にも涼しい姿で周囲へ怒鳴り返すと、悟浄は名残惜しそうに振り返った。
「その服、別に返さなくっていいから。でも……」
 熱帯地方で産される紅い宝石のように華麗で野性味のある瞳が悪戯っぽくきらめいた。
「今度、絶対にデートしよ」
 八戒の耳元でそっとささやくと片目をつむった。鮮やかな口説きかたに八戒が目を丸くする。
「んじゃ、約束。また図書館行くから俺」
 悟浄はそう言うと、花壇の垣根を乗り越えた。その肩先まである長めの髪に、薔薇の花の色が鮮やかに重なる。紅い髪は燃えるような薔薇の色と情熱的に共振した。
「…………」
 八戒は胸の鼓動が収まらなくなった気がして、手の中にある悟浄のシャツを握りしめた。かすかに彼の体温と匂いを残すそれは、なんだか気恥ずかしいような置きみやげだった。
 うっとりとした眩暈めまいを伴う幸福の予感が八戒を包む。周囲の薔薇たちが祝福するように風にそよぎざわめいた。





 その日。
 厳粛であるべき図書館カウンターの受付に、八戒は派手なアロハシャツを着て座った。
 着ると悟浄の腕に包まれるような気分がして幸福だった。かすかにベルガモットを含んだ香料の匂いがする。悟浄の身につけている香りか何かだろうか。抑えようとしても嗅ぐ度に口元がゆるんでしまう。
「……なんだ。その服は」
 金の髪の先輩職員が苦々しい表情で睨む。
「あはは。ちょっと」
 言葉を濁す黒髪の後輩は何故か機嫌がいい。さすがにそのままでは目立ちすぎると思ったのか、作業用のエプロンをけばけばしいシャツの上から身につけた。
 そのとき、八戒ははじめて気がついた。
 シャツの内ポケットに何かが入っている。硬く薄い手応えのそれを八戒は探りあて、こっそりと引き出して目を丸くした。
「あ……」
 出てきたのは、このシャツの正規の持ち主である紅い髪のハンサムが、精一杯真面目な顔をして写っている証明写真のついた免許証と学生証だった。
 写真を見ただけで、地に足のついていないような浮ついた気分に襲われて八戒は口元をふたたびゆるませた。
「ったくろくでもねぇムシばっかりつきやがる」
 苦虫を噛み潰したような顔で呟く三蔵の声にびっくりして振り向いた。
「え? ええ? なんですか? 」
「……なんでもない」
 三蔵はむっつりと黙り込んだ。ものすごく不機嫌だった。





The Sick Rose 病む薔薇 
ウィリアム・ブレイク


O Rose, thou art sick!
(おお ばらよ おまえは病む)
The invisible worm
That flies in the night,
(夜に飛ぶ目に見えぬ虫が)
In the howling storm,
(吼える嵐のなか)
Has found out thy bed
Of crimson joy,
(深紅のよろこびのおまえの 寝床を見つけてしまった)
And his dark secret love
(その暗い 秘めた愛が)
Does thy life destroy.
(おまえのいのちを ほろぼしつくす)



「歪んだ薔薇(4)」に続く