歪んだ薔薇 第1部(2)

 薔薇のとげで傷ついた指に、悟浄からもらった絆創膏ばんそうこうを貼り、八戒は受付に腰かけていた。
 交代した三蔵は、蔵書点検でもすることにしたらしい。目録を手に、カウンターから出ていってしまった。


 午後になって人の少ない館内は静かで穏やかだった。
 そんな静けさの中、受付のカウンターの上をちらりと八戒は眺めた。水の入ったガラスのコップに、先ほど持ち帰った美しい薔薇が生けられている。
 茎が短く折れてしまっていたので、本当は、首のない小さな花入れにでも生けたかったのだが、そんな気の利いたものは図書館内にはなかったので、コップに生けた。
 そっけないガラスのコップの上でも豪華な薔薇は、特に文句も言わず、黒光りするカウンターの上で美しさを誇っていた。赤い血のような花弁がカウンターの面に映る。花壇にいたときと変わらぬ芳しい香りだ。
 八戒はそれを横目で眺めながら、指に巻いた絆創膏をそっと確かめるように触った。幸福そうな微笑みがその口元からこぼれる。
 平和で穏やかな午後だった。空気が柔らかくまろみを帯びている。

 と、そのとき目の前のカウンターに本が山のように置かれた。
「貸し出しですか? 」
 にっこりと人好きのする柔らかい笑みを浮かべて、八戒は顔を上げた。
 まだ幼い風貌の男子学生が、緊張した面もちで目の前に控えていた。八戒の問いに声も出せずに顔を真っ赤にして、無言で首を縦にひたすら振っている。
「そうですか。学生証とカードを拝見してもよろしいですか? 」
 八戒は怪しみもしないで、更に笑いを深くした。
 この大学の卒業生でもある彼の胸中に湧いたのは、『一年生ですかね。可愛いな』などというのどかな感想だった。
 相手は学生証とカードを出すと、ついでに何故か分厚い封筒を差し出した。
「こ、これ」
「? なんですか? 」
 優しい声で尋ねても、相手はおこりのように震えるばかりで話にならない。
「し、失礼します! 」
 突然、一年生は山のような本をカウンターに置き、学生証も図書カードも八戒の手に残したまま、図書館から飛び出してしまった。
「……なんなんでしょう? 」
 いぶかしげに首を傾げて八戒は途方にくれた。
「どうした」
「三蔵! 」
 蔵書の点検が一巡したらしい三蔵が、いつの間にやら八戒の傍に立っていた。
「い、いえ、あの別に……」
 しかし、鋭い三蔵の目はめざとく八戒の手元の分厚い封筒を見つけてしまったらしい。
「これか」
 断りもなく手に取るなり、三蔵は後輩宛の手紙を乱暴に開封しだした。八戒といえば、あまりの剣幕に、あっけにとられて手もだせずにいる。
「ったく。この大学のヤツらは神聖な学舎と図書館をなんだと思ってやがるんだ。サカリやがって」
 ぶつぶつと呟きながら、三蔵は几帳面に畳まれた便せんをとりだした。びっしりと丁寧に手書きで書かれたそれは、縦書きの便せんに五枚もあった。
「読む気になれねぇな。これは」
 やっと自分宛の手紙を勝手に開封されていることに気がついた八戒が慌てて三蔵の手から、手紙を取り上げようとする。
「や、やめて下さい! 三蔵」
「うるせぇ、上司の命令が聞けねぇのか」
 あくまでも居丈高に言うと、三蔵は一番最後、五枚目に当たる便せんを取りだした。こんな名門の国立大学に入学するような、頭が良くて真面目な男が書く手紙など、おおよそ三蔵には予測がついていた。
「どいつもこいつも、最後の最後に用件を書きやがる。会いたいだの、待ってるだの。面倒くせぇ連中だ。死ね。マジで死にやがれ」
 悪態をついているところを見ると、今までも八戒の知らぬうちに、八戒宛の手紙を無断で開封したことがあるらしい。三蔵の行為の是非はともかく、言っていることは正しかった。
 手紙の内容は四枚目までがこの大学に入った動機やら、将来の抱負やら、入りたい研究室の希望やらだった。
 自分の入学した大学の図書館に八戒のような人がいてしあわせだ、八戒に勉強を教えてもらったり、相談に乗ってもらえたりすると非常にうれしいなどという、硬く真面目な内容が延々と続いていた。
 最後の最後、手紙の結び近くになって『今度の金曜日、二階閲覧室でお待ちしています』という逢いびきのお願いがさりげなく紛れ込んでいた。知的で若い男が、純粋な想いで書きつづった血と汗の滴るような手紙を三蔵は読み終わるなり癇性な調子で細切れに引き裂いた。
「さ、三蔵! 」
「なんだ、文句でもあるのか。本来なら、この恥ずかしい手紙ともども、忘れた学生証と一緒に図書館の入り口に掲示して晒してやるべきところを、始末してやったんだ。感謝こそされ、非難されるいわれなんかねぇな」
 三蔵は屁理屈を述べると、人の悪い笑みを口元に浮かべた。
「俺がお前の代わりにコイツに会いに行ってやる。金曜に二階の閲覧室だったな」
 口端はつりあがってはいるものの、その目は全く笑っていない。悪魔めいた美貌がいっそう際だつ表情だった。
 八戒は長いため息をついた。
 年の近い同僚、というか正確には上司にあたる三蔵は、八戒からみれば心配しすぎに見えた。八戒に対する立ち居振る舞いは、年頃の娘を抱えた過保護な男親を思わせた。
(本当に、三蔵ったら心配症なんですから)
 そう、八戒は三蔵の行動を面倒見がいい先輩の行動としか思っていない。
 普通なら、他の人間には面倒くさがって関心すら向けない三蔵なのに、自分に対してはこんなに執着し、面倒を見るのを不思議とも思っていなかった。
 本当に、八戒はどこかが抜けている。他の点では知的過ぎるほどに聡明だったが、自分に寄せられる好意には、とことん鈍かった。
 ともかく、八戒に分厚い恋文をよこした一年生は、手ひどい洗礼を三蔵から喰らうことだろう。
 八戒に近づくものには、もれなくこうした通過儀礼がついてくることを、二年生以上の学年のものには知れ渡っていたので、この種の仕打ちを受けるのは、新一年生と相場が決まっていた。
 まさしく、八戒は図書館の周囲に咲く香り高い薔薇によく似ていた。触れれば落ちなんとばかり優しく穏やかに微笑んでいるのに、その傍には三蔵という鋭くも痛いトゲが生えているのである。
 八戒は困ったような笑顔で首を振った。
「やだなぁ。三蔵ったら。僕、この本戻しに行ってきますね」
 先ほどの一年生が慌てて置いていった山のような本を手に八戒は立ち上がった。
「なんだ、そんなもの、さっきのアイツにやらせろ」
「金曜日まで、ここに置いておくわけにいきませんよ」
 本はどれも分厚く、七冊ほどあった。八戒は柔らかい笑顔を三蔵に向けるとカウンターを後にした。





 その本達は、専門書でどれも二階の棚のものだった。本の選択からして、法科の学生らしかった。
 大理石張りの重厚な床は、荘厳で贅沢だ。そんな床を八戒は、しなやかな足どりで歩いた。歩く姿も美しい。
 その颯爽とした姿とすれ違い、うっかり恋患いに落ちる学生が毎年、後を絶たないが、この罪つくりな図書館職員には、まったく自覚というものがなかった。困ったものだった。
 二階へ上るための階段は、建設当時の設計者の趣味だろうか、やはり過剰なまでのバロック風だった。手すりは石に細工が施され、優雅にうねっている。まるでそれ自体が生き物のようだ。
 バロック的装飾とは、多かれ少なかれ過剰なものだが、この図書館も例外ではない。建物だけを見ていると、日本であることをすっかり忘れてしまう。
 昔、ヨーロッパの王侯貴族たちが東洋に憧れたように、この図書館には明治大正の、西洋に対する憧憬どうけいと夢がいっぱいに詰まっていた。階段の欄干は優美な曲線を描き、豊穣ほうじょうを意味する葡萄ぶどうの蔦をかたどった飾りが階段の手すりを這い回っている。装飾は凝りに凝っていた。
 階段は一階の床と同じく大理石張りだ。そんな極めて西洋風の階段を、八戒のような東洋風の美青年が上り降りしていると、英国エドワード朝あたりの貴族が、美しいアジアの若者を召使いとして寵愛した流行を連想させる。
 しかし、肝心の美青年は自分を取り囲む、調度や舞台背景の華麗さには、全く頓着しない様子だった。
 他者から見れば、八戒とこの図書館の取り合わせは、幻想的で非日常的にさえ見えるが、なんといってもここが職場の本人にとっては単なる日常のひとこまに過ぎない。
 二階の閲覧室は、これまた優雅さに溢れていた。意匠はいよいよ華やかで、各部屋の入り口は異界を思わせる凝った模様が漆喰で浮き彫りにされ、美と知の殿堂も極まれりといった様相だった。
 建物自体が重要文化財級の図書館だったが、そればかりではなく蔵書も充実している。収蔵されている本の冊数は実に二百万冊以上にもなった。
 たくさんの本に囲まれて、八戒は満足だった。この先も本に埋もれるようにして過ごすつもりだった。
 蔵書整理に命をかけている八戒は几帳面に本を戻していった。世のけがれも知らぬげに口元へ優しい笑みを浮かべている。
 その柔らかくも清い笑顔は聖職者の微笑みにも似ていて、この図書館を訪れる大学生、
――――八戒にとっては後輩である学生たちに非常に愛されていた。中には熱狂的なファンさえいて、彼の後見人を買ってでている三蔵をときおり苛立たせる。
 だが、本当のところ八戒は自分の周囲を、柔らかい笑顔でただ眺めていただけだった。常に顔に張り付いたような、その優しい微笑みで。

「319.53……と、ここですね」
 手にしていた、ハロルド・ニコルソンの名著「外交」(Diplomacy)を棚に戻す。
「330.1は……」
 資料分類法(NDC)にのっとった、本に貼られたラベルに従って次々と手に持った本を元の場所へと戻してゆく。静かな午後の館内は人もまばらで、話し声もない。
 わりあい背のすらりと高い八戒はあまり脚立を使うことはしない。ちょっと伸びをするようにして上の棚へと本を入れてゆく。
 しかし、今日は手がすべった。
「おっと」
 ばさりと本が床に落ちる。ページが厚く重い本だった。かなり派手な音を立てて、転がった。
 慌てて、八戒が本を手にとる。貴重な本を傷めはしなかったかと確認しようと手にとって広げた。
 それはモンテーニュの書きつづった「エセー」(随想録)の二巻だった。何故か専門である法学や外交の本に混じって、八戒に恋文を渡した一年生はこんな小面倒くさい本を借りようとしていたらしい。如何にも若者らしい知的功名心のなせる技といえた。
 とはいえ、この本は禁書になったこともあるが、ヨーロッパにおいては基礎的な教養書でもある。
 八戒はパラパラとめくって、かつて自分も読んだこの書を懐かしく思い返した。
 「エセー」はフランスきっての知識人であり、高等法院の裁判官であった世捨て人モンテーニュの回想録だ。
 けっこう、八戒はこの類の本が嫌いではない。何よりこの作者であるモンテーニュの性格が楽天的である点が救われる。
 死について長々と悲しみに耐えるための文章が綴られているが、八戒は、その文をかつて自分の半身のように思っていた姉を亡くした後、繰り返し読んだことがあった。
『世のあらゆる知恵と理論は、われわれに死を恐れないようにするという一点に帰着する』
 めくった頁に書かれた言葉が、八戒の目を射た。
 そうなのかもしれないと密かに八戒は思った。しかし、肉親を無くしてからは、その空虚さに耐えられなかった。いまだに人知れず、心に隙間が開いているようだったのだ。
 死の本来の恐ろしさとは、無そのものではなく、いったん存在してしまったものが無になるところにあるのかもしれない。
 喪失の空虚さに耐えられない。無が恐い。
 モンテーニュの語るとおり、賢くなれば、このひどい喪失感からも逃れられるのだろうか。
 八戒は微笑みを消した顔で、本を閉じた。午後の穏やかな日差しは傾きはじめ、空気にはかすかに日暮れの気配が混じりはじめていた。



「歪んだ薔薇(3)」に続く