赤い薔薇が競うように咲いている。その背後で大学図書館が、不吉な大鳥のように羽を広げた格好で、横たわっていた。
図書館は荘厳な建物だった。壁は花崗岩を貼り付けた、レンガ造りという贅沢なものだ。
植え込みは、ちょうど大鳥のくちばしに当たる玄関口にあって、そんなに大きくはないが、薔薇を育てるには十分な広さがあった。
ちょうど花の頃で、美しく咲きそろっていた。甘い香りを周囲に漂わせている。美麗な薔薇の花々をかき分けるようにして、手入れをしている者がいた。
八戒だった。
紅い天鷲絨のような花びらが散って、雌しべと子房だけになったものを、ハサミで丁寧に切り落としている。そうやって手を入れないと、樹が弱ってしまうのだ。
薔薇は誇り高く咲き誇り、異様なほどの華麗さで見る者を威圧していた。巨大で重たげな花が奇跡のように開き、絢爛たる美を人々に見せつけている。
花々が揺れる度に、甘く濃厚な香りが八戒の躰を包み込んだ。
これほどの美は、何かを代償にしないと成り立たないものらしい。八戒が丹精して面倒を見ているこの薔薇は、とりわけ病気に弱かった。勢いが弱ると、たちまち虫にも喰われてしまう。
美しい花ほど虫がつくというが、本当にそうだった。
だから、手をかけてやらないといけなかった。八戒は散り終わった花を、惜しむようにそっとハサミを入れた。
そのとき。
「あれ」
八戒は首を傾げた。大輪の薔薇のひとつが、茎の途中で折れている。
「……ああ、残念ですね」
悪戯な虫が、かじったというわけでもなさそうだ。来館する学生が、気まぐれに手折ろうとしたのだろうか。
「しょうがないですね」
八戒はつぶやくと、折れたところにハサミを入れた。花瓶へ挿すには短い茎やトゲに、気を遣いながらそっと持ち上げ、両手ですくうようにして持った。
そのまま、目の前にある大学図書館の玄関を見上げた。バロック様式にルネサンス式が取り入れられている。これは、明治から大正にかけて流行した建築様式だ。
改装や補強工事は現在に到るまでに何度か入ってはいたが、古きよき時代の優雅さをいまだに漂わせ、図書館自体が高価な美術品のようだ。古くは旧制高校に連なろうという国立名門校の誇りと歴史が建物のそこかしこに滲み、明治、大正、往時の政府の意気込みが伝わってくる。西洋に追いつけ追い越せという時代の名残のようなものがいまだに漂っていた。
実は、八戒はこの古くて権威的な装飾に満ちた建物があまり好きではなかった。とはいえ、ここで働いているのだから、そんなに文句はいえない。
「知は力なり」(Ipsa scientia potestas est)フランシス・ベーコンの箴言がラテン語で刻まれている極めて装飾的なアーチが玄関についている。
昔は観音開きの厚い扉だったらしいが、近年、改装時にガラスの自動ドアになった。
保守的な教授連からは、伝統の破壊だの悪趣味だのと散々な言われようだったが、その現代風で味気のない、たたずまいはともかくとして、便利なことに違いなかった。
特に今の八戒のように、片手にハサミ、片手に薔薇を手にしているような時は、自動ドアはとてもありがたかった。ドアの前に立てば、軽やかな動作音を立てて赤外線感知式のドアが開く。
図書館に入ってすぐの場所にあるカウンターは黒光りする楡の木でできている。経年変化のために、ただでさえ丸みを帯びた輪郭がいっそう円熟したものとなっている。
「遅かったな」
カウンターの人物がぼそりと呟いた。
黒味を帯びた骨董品級の調度に囲まれて、金色の髪が鈍く光る。白皙の美貌の見本とでも言うべき人物が、八戒を見つめていた。
三蔵だった。
「すいません」
八戒は素直に謝った。少しの間カウンターの受け付け業務を代わってもらっていたのだった。三蔵の前には受付を待つ学生達が並んでいた。
頭を下げる黒髪の後輩に、三蔵は鋭い視線を向けた。
「なんだ、その手は」
「え? ああ、きれいでしょう? 」
八戒は、初めて自分の手元に気がついたとでもいうように、持っていた薔薇を三蔵へかざしてみせた。
「折れてしまっていたんです。もったいないから、飾ろうと思って」
八戒が薔薇をかざすと、途端に芳醇な香りが周囲に広がった。カウンターの受け付け待ちをしていた、二、三の男子学生が八戒に眩しそうな視線を送る。
三蔵は、そんな周囲の学生を睨みつけ追い払う仕草をした。
「見てんじゃねぇよ。てめぇら。うるせえやつらだ。受付業務は今、中止だ」
「さ、三蔵」
突然機嫌が悪くなり、周囲に当たりだした三蔵をなだめようと八戒がかけよる。
「俺が言ってんのは、その花のことじゃねぇ。お前、その指をどうした」
「あ」
三蔵は目ざとかった。八戒の右手のひとさし指には血がにじんでいた。
「あれ? 気がつきませんでした。どこで切ったんでしょう」
八戒はどこか調子はずれな、困ったような笑顔を見せた。薔薇の手入れをしている途中、トゲで怪我をしたのだろう。
「あ、痛そー。消毒してやろうか」
そのとき、突然横合いから口を挟んだ男がいた。
燃えるような紅の髪が印象的な男だった。肩先までの長さの髪が紅い絹糸のようだ。紫を帯びた真紅の瞳は熱帯地方で産出される稀少な宝石を連想させる。そのくせ、機敏に揺れるその目の光は、やんちゃといっていいような悪戯さをこっそりとひそませていた。
「悟浄さん? 」
目を丸くする八戒の手をとると、紅い髪の男は返事も聞かず、血のにじんだ指に唇を寄せようとした。
「なめとくと治りが早いっていうじゃん? ね、ほらこうして――――」
冗談めかしたような口調とは別に、その男らしい容貌に浮かんだ表情は結構真剣だった。
「俺が消毒しといてやるから」
突然の悟浄の行動に、慌てている八戒には構わず、悟浄がさらうように手にくちづけようとしたそのとき。
横合いから、突然インク瓶が飛んできた。
「痛てぇ! 痛ッ! なんだよ、もう! 」
悟浄が振り返ると、金髪紫眼、白皙の図書館職員が怒りに震えながら、カウンターの向こうで仁王立ちしていた。
「……ふざけるな。貴様の唾なんざ触れたら、汚ねぇばい菌が入るだろうが。殺す」
「ああ? 」
三蔵の殺人的な迫力に対抗できる学生など、悟浄くらいのものだった。悟浄は三蔵を睨み返した。
この紅い髪の男前は、黒髪の司書に一目惚れしていた。なんのかんのと本も読まないのに、よく図書館に来るのだ。
「うるさいな。アンタ、いい加減黙っててくんねぇ? 俺、このひとにデートの申し込みに来たんだからさ」
とんでもないことを言い出す悟浄に八戒は慌てた。
「か、館内は静かにして下さい! お願いします」
困ったような八戒の仕草に、悟浄はちらりと目を向けた。
「んーじゃぁ、俺またくるわ。今度デートに誘うから! 」
悟浄は悪びれもせずに呟くと、暫く自分の服の内ポケットを探っていたが、何か見つかったらしく、それを八戒の手に握らせた。
「二度と来るんじゃねぇ。ゴキブリが」
三蔵が地獄の獄卒でもこうはいくまいという、やたら迫力のある低音の声で脅すように言った。
「へいへい。今日は退散しまーす」
悟浄は図書館の石作りの床の上で踵を返した。その跳ねるような軽快な動きは、その肉体に存在する強靱なばねのありかを密かに知らせている。実際、悟浄は運動神経がやたらよかった。
「じゃ、またな。八戒。今度は俺と映画とかどう? 」
茶目っ気たっぷりに後ろを振り返り、イタリア男性もかくやと思わせるような図々しさで再び八戒を口説きだした。
目を丸くして、愛嬌たっぷりの伊達な悟浄の笑顔を見つめたまま、八戒はとっさのことに反応できなくなっている。
「え、ええ」
思わず不意を突かれて、八戒はうっかり返事をしてしまった。
「お! ほんと? 決まり! 決まりね! 」
畳み込むように悟浄が言葉を継いだ。その顔に浮かんだ、素直で無邪気な笑顔はどうにもこうにも憎めない種類のものだった。
そのやりとりを、苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた三蔵だったが、もはやこれまでとばかり、カウンターを乗り越えて八戒の傍へこようとした。
「おわっと、なんかうるさいのがくるから、詳しいデートの打ち合わせは今度ね! 」
「死ね! 」
権威ある図書館に、謹厳な図書館職員の怒号が響き渡る。第二弾目のインク壺が悟浄目がけて投げつけられた。小さいが真鍮細工のその瀟洒な壺は弧を描いて空を飛んだ。
紅い髪の男前はそれを、器用に躰を振ってよけ、片手をひらひらと振った。
「おっと、おっかねぇ。じゃあな! 八戒! 」
軽快な動きで悟浄は、自動ドアの向こうへと消えた。
「ったく」
白皙の美貌の主は後輩についた害虫を駆除しきれず、苦々しそうな表情を浮かべて河童の消えた玄関の方をいつまでも睨んでいた。
せっかく、美しい大理石で敷かれた玄関広間の床は、優雅な縞模様の上にインク瓶やらインク壺が転がったせいで、無惨に汚れてしまった。
三蔵はそれに気がつくと、周囲で怯えたように首をすくめている、真面目でおとなしそうな学生たちに向かって傲然と命令した。
「おい、ここ片付けとけ」
その整ったやや厚めの唇から出たのは、果たして鬼畜な言葉だった。
「いいな。じゃねぇと、てめぇらに本なんざ貸さねぇ」
三蔵は冥界の審判員ラダマンティスさながらの重々しさで、再び受付の椅子に腰掛けた。紫暗の瞳で周囲を睨みつける。
その途端、意志を束縛されたあやつり人形のように、居合わせた周囲の学生たちは急いで床の掃除をし出した。三蔵がひたすら怖ろしかったのだ。
確かに、こんな三蔵に堂々と逆らえるあの悟浄とかいう学生は、ただ者ではない。肝がすわっている。すわり過ぎている。
八戒は、三蔵に気がつかれないようにため息を吐いた。そして、周囲を見渡して、誰も自分を見ていないこと確認すると、その手をそっと開いた。悟浄がさりげなく手渡した、紙のようなものをこっそり見た。
それは。
指に巻くのにちょうどいい大きさの絆創膏だった。
「…………」
八戒はびっくりしたように目を大きく見開くと、そっと周囲を見渡し、再び握りこんで絆創膏を手の中に隠した。
その艶やかな唇に、嬉しそうな微笑みが浮かんだ。
八戒には、悟浄の真っ直ぐな優しさが嬉しかった。
権威的で厳めしい作りの図書館をものともせず、にぎやかなつむじ風のようにやってきては、退屈な空気を明るく塗り替えてゆく明るいひまわりのような男。気ままで自由人な悟浄の存在は、こんな大学では異色だった。
八戒は悟浄の人を惹き付けてやまない立ち居振る舞いを思い出してひそかに笑った。
そんな八戒の様子を、三蔵は黒光りする年代もののカウンターの向こうから、じっと見つめていた。
この図書館の知の祭司というべき立場に相応しい白皙の美貌は精彩を欠き、その瞳は実に切なげな光を湛えてひたすら八戒に向けられていた。しかし、それに八戒が気づくことはなかった。
「歪んだ薔薇(2)」に続く