歪んだ薔薇 第2部(8)

 大学の講義棟と講義棟の間が鮮やかな緑で埋め尽くされてゆく。通り過ぎる風は熱っぽい湿気を孕み、いよいよ本格的な夏が来たことを周囲に知らせている。
 思い思いに枝を広げている並木の緑も、いっそう濃さを増して、夏の凶暴な紫外線にさらされるのに備えている。
 八戒は午前中の勤務を済ませ、図書館の外へ出た。その後ろで出入り口の自動ドアが無機質な調子で閉まる。
 出入り口にある薔薇の花壇は、大分荒れていた。
 いや、最小限の手入れはなされているのだが、以前より細かく手が入っていないのが、明らかだった。
 もう、とっくに剪定されなくてはいけない時期なのに、まだ薔薇たちは長い枝を伸ばし、花が散った 後の無様な軸を残して悄然と立っている。
 八戒は、詫びるように薔薇たちへ視線を走らせた。毎日の水遣りは日課として続けてはいるものの、突然身に降りかかってきた災厄のため、最近はろくろく手が回ってなかったのだ。





 八戒は食堂へ足を向けようとしていたが、気が重かった。
 昨日散々、三蔵に付き合わされて寝不足になったせいかもしれない。昨夜の三蔵は特に酷かった。手を縛り、嗜虐的な言葉で責め立てながら、八戒を蹂躙した。
 おかげで手首には紐の跡がくっきりと残っていた。初夏の陽気にも関わらず、八戒が生成りの長袖など着こんでいるのはそのためだ。
 麻でできた涼しげで、すっきりと襟の立ったデザインのものだが、この陽気の中で着ているのはやや不自然だった。
 それでも、躰中に三蔵のつけた鬱血の花びらが散っているので、襟のそばのボタンまで、几帳面にきっちりとはめ、少しでも覆い隠すのに必死だった。
 レンガが敷かれた道の上に、木漏れ日が光のカーテンを作っている。そんな構内を八戒は対照的な重い足どりでのろのろと歩いていた。
 なにより悟浄と顔を合わせるのが気がひけた。あの真紅の瞳を真正面から受け止められそうになかった。
 いや、切れ長で鋭い悟浄の視線を浴びたら、自分がどんなに淫らな存在か、見透かされてしまうのではないかと思うと、居たたまれなくなった。
 その癖、悟浄には会いたかった。会いたくてたまらなかった。一目でいいからあの颯爽とした姿を見たかった。
 しかし、会うのは怖かった。
 堂々めぐりなそんなことを、きりもなく思いながら、八戒は道を進んだ。
 長身で赤い髪をした悟浄はことの他よく目立つ。遠くから、あの姿をひとめ見て、満足して帰ろう。そんなことを八戒は思っていた。とにかく頭が働いていなかった。
 もう少しで学食の建物の前に着く、というところで、八戒は後ろから肩を叩かれた。
「八戒! 」
「……悟浄! 」
 ぎょっとして八戒は振り向いた。そこには、八戒の肩に手を置いたまま、躰をふたつに折って、息を切らしている悟浄の姿があった。
「いや、三限の講義が……終わんなく……ってさ。待たしち……まうと思って走ってた……間に合ってよかった」
 肩で息をしながら、悟浄は切れ切れに言った。赤い舌を出して、苦しそうだ。
 自分と一緒に昼食をとるために、こんなに一所懸命に走ってきてくれたのだと思うと、胸が熱くなった。途方もない幸福感と、とてつもない罪悪感で八戒は押しつぶされそうだった。
「ん? どーした。んなカオしちゃって」
 悟浄は八戒の瞳の奥に潜む、不安を読み取ったかのように、その頭を撫でた。
「一緒にメシ食おうぜ、八戒」
 悟浄にじっと見つめられると、八戒はダメだと思っても金縛りにでもあったがごとく抵抗できなくなった。





 食堂は、午前中の講義を終えた学生や教職員でごった返していた。食券の自販機はめまぐるしく回転して音をたて、長いひとの列が配膳口から伸びている。
 それなのに、悟浄と八戒の専用特等席は空いていた。窓から学内の木々が良く見える気持ちのいい席に座り、食事を載せたトレーをふたりでテーブルに置いた。悟浄はショウガ焼き定食、食欲のない八戒は冷やしうどんだ。
「このあいだ行った水族館、何が一番楽しかった? 」
 悟浄に真顔で問われると、返事に詰まった。八戒はうどんをつつきまわしていた手を止めた。
「え、ええと」
 目が泳いだ。どちらかというと、悟浄と一緒なら、場所なんかどこでもよかったのかもしれない。現実を忘れさせてくれる空間で、悟浄とふたりで居れたのが素晴らしかった。
 でも、そんなことはとても言えない。八戒が口ごもっていると、悟浄が言った。
「俺はね! なんったって」
 にっと大きな口が笑った形になる。ショウガと醤油で甘辛く味付けされた豚肉を、豪快に口へ放り込んだ。
「八戒と一緒だから、なんでも楽しかった」
 そう言うと、さすがに照れたのか、ついでに定食についていた味噌汁を一気に飲み干した。
「だから、また今度どっか行こーな。八戒」
 手の甲で唇を拭い、悟浄は大声で笑った。上下する悟浄の喉仏を見つめながら、八戒は密かに思った。悟浄と一緒だったら、もうどこだろうと自分にとっては天国に違いない。
 つられるようにして食べたせいか、ガラス鉢の中のうどんは、ほとんど空になっていた。
「ごちそうさまです」
「さまーッス」
 綺麗に空にした皿をしばらく見つめていた悟浄だったが、ふと、思い出したように言った。
「そーいえばさ、前、八戒俺のつくったカクテルに名前つけてくれたじゃん」
「え、ええ」
 カラン、とコップの中の氷が溶けて音を立てる。
「覚えてねぇ? ほら、俺が八戒の瞳の色をイメージして作った……キレ―な緑色のカクテル」
 八戒の脳裏に、鮮やかなカクテルの色が広がった。吸い込まれそうな深い緑色だった。あのカクテルをつくってくれたとき、悟浄はバーテンの格好をしていて、それはそれはサマになっていた。
 忘れようとしても忘れられなかった。
 まるで、昨日のことのように思える。
「なんだっけ名前。えーっとえーっと、なんとかロッソとかいう」
 くしゃくしゃと悟浄は前髪を手でかきまぜた。
「Verde Rosso (ヴェルデロッソ) 」
 ぼそっと八戒が呟く。
「そーそ! そのヴェルデなんとかいうヤツ! あれ、どういう意味よ」
「え、えーと」
 本当はイタリア語で「緑と赤」という意味だった。
 八戒はそっと目の前の男を見た。美形というより男前な悟浄。切れ長のきりっとした目が、不良っぽい雰囲気と相まって、生来の精悍さに拍車をかけている。
 その上、悟浄は視線に気がつくと八戒を見つめ返して優しく微笑んだ。
「……僕も忘れました」
 思わず、口が勝手に動いていた。
「マジ? 」
「ええ、意味なんか忘れました」
「ホントかよ! 」
 恥ずかしくって名前の意味なんかいえなくなった。「緑と赤」だなんて今、言ったら、自分がどんなに悟浄のことばかり考えていたのか分かってしまう気がしたのだ。
「ホントのホントに忘れちまった? クソ! てっきりイタリア語で『僕、悟浄のこと大好きです』とかゆー意味かと思ってたのによ」
 悟浄は能天気なことを言い放った。思わず八戒は腕をのばし、相手の手の甲をつねった。
「っつてぇ! 」
 ちょうど、軽やかなチャイムの音がした。四時限目開始を知らせる合図だ。
「あっ、ほら悟浄、時間ですよ。僕も図書館に戻らないと」
 八戒は予鈴に救われた。
「もう、昼休み終りかよ。時間経つの早えーな」
「あははは。ホントですねぇ」
 八戒は照れ隠しのように笑った。
「八戒」
 悟浄の表情が真剣になった。まじまじと八戒の瞳をのぞき込む。
「なんです? 」
 ほっとした表情の八戒に、悟浄は顔を近づけた。緋色の瞳が大写しになる。
「…………! 」
 悟浄は八戒の額にキスをした。突然の出来事だった。不意打ちだった。
「悟……! 」
「笑ってる八戒、すっげぇカワイイ」
 八戒は反射的に右手を振り上げた。平手打ちの音が派手に食堂に響く。
 その間、周囲の学生たちはふたりのやりとりを見てみぬふりをしたり、わざと視線を逸らしたりしていた。咳払いをしたり、手で襟元を暑い暑いとあおぐジェスチャーを繰り返す者も続出した。
 八戒は真剣な面持ちで悟浄を睨みつけたが、悟浄の方はカエルのツラになんとやらで、平手打ちされても、うれしそうにヘラヘラ笑って、全く反省してなかった。
(悟浄だけは汚したくない)
 八戒は密かに願っていた。それなのに、どうしようもなかった。気持ちを止められなかった。いけないいけないと思っても、心は悟浄に引き寄せられてしまっていた。


 でも――――それでも、その躰は三蔵のものだった。



「歪んだ薔薇 第2部(9)」に続く