歪んだ薔薇 第2部(6)

 八戒が図書館に着いたとき、ちょうど雨がぱらぱらと降ってきた。薄荷の粒のような雨は、花壇にある薔薇の葉を叩いて濡らした。薔薇はもうほとんどが散って、葉ばかりになっていた。
 八戒が受け付けカウンターの壁に掛かっているホワイトボードを確認する。全ての職員の担当が一週間ごとにカレンダー形式で記入されているのだ。
 ここしばらく八戒の当番は、痛んだ本の修復と蔵書整理だった。本当は、地下の閉架図書の担当だったのを、周囲に無理を言って変えてもらったのだ。
 三蔵に陵辱されてからというもの、ひとりで図書館にいるのが怖くてできなくなった。地下なんて、ひと気のない寂しいところになど、いられなかったのだ。
 今までは、人となるべく関わらずにすむような業務を好んでしていたのに、ここ数週間というものは全く逆だった。劇的な変化だった。
 親切な年配の女性職員が快く仕事内容を交代してくれていて、八戒はひどく感謝していた。
 諸悪の根源である三蔵は、奇妙に冷めた目でその一部始終を見ていた。加害者の癖に、奇妙に傷ついた目で、彼は八戒を非難するかのごとく見つめていた。
 そんなことをうっかり思い出してしまって、首を横に振った。痛んだ本を直し、返却されてきた本を元のところへ戻し、蔵書整理に図書館内を一周する。それがここのところの、八戒の日課だった。
 それが、この日は違った。
「猪さん」
 自分と担当を代わってくれた年配職員が、すまなそうに声をかけてきた。
「ごめんなさいね。実は」
受付当番だった職員が急病で休みになったと彼女は言った。
「悪いんだけど、今日一日は受付をやってもらえる? 」
 断るわけにはいかなかった。同僚が困っているのだ。協力しないわけにはいかない。人手は潤沢とはいえなかった。ここで断ったらさすがに奇異に思われるだろう。
 でも、
 八戒は受付カウンターをちらりと横目で流し見た。受付は通常ふたり一組で行っている。はたして、骨董級の黒光りするカウンターには八戒が恐れている男の姿があった。
 口を利かなければいい。何を言ってきても無視すればいい。八戒は密かに自分に言い聞かせ、年配の職員へ答えた。
「わかりました。受付をします」
 支給されている濃紺色のエプロンを身につけ、カウンターへ歩み寄る。意識しないようにと思っても、息がつまりそうだった。金髪の男の隣席へ黙って腰をかけた。
「てめぇ」
 三蔵は、八戒の姿を認めると、横目で睨みながら呟いた。
「――――昨日はどこへ行ってた」
 紫の瞳の弾劾者。糾弾者。八戒にとっての死刑執行人。拷問吏。金の髪の脅迫者。
――――あまり寝ていないのか、彼は、今日はまた一段と苛々としているようだった。そんな姿は  肉食獣か何かが、ぐるぐると檻の中を面白くもなさそうにいったりきたりしているのを連想させる。
 答える義理もないと、八戒は三蔵を無視しようとした。磨き上げられた黒檀のカウンターに映った自分の顔が、引き攣っている気がして、八戒は目をそらした。
「俺は待ってた」
 隣の席で、ぼそっと三蔵は呟いた。どこか傷ついた子供のような口調だった。
「お前を待ってた。ずっとだ」
「やめて下さい」
 押し殺した声で八戒はそれを遮った。わずかに語尾が震えている。
「どうして、どうして僕を。僕が何をしたっていうんですか。もう、止めて下さい」
 小さいが、悲痛な声だった。
「昨日は誰のところへ泊まった。言え」
 三蔵の声は、八戒の声とは対照的に脅迫的な色彩を帯びてきた。
「絶対に許さねぇぞ。お前は――――」
 獲物を狙う獣の執拗さが声に滲んだ。抑えきれぬ苦しい胸の内をただ吐き出している。
「お前は俺のモンだ」
 三蔵は八戒から目を逸らし、前方を見つめながらきっぱりと言った。
「な……」
 八戒は開いた口が塞がらなかった。やはり前を向いたまま、こちらは硬直している。理不尽な三蔵の言葉に、指が怒りで震えていた。
 開館の時刻になった。明るいクラッシック音楽が流れ、大理石張りの床へ天井へと高雅な音律が反響する。数人の学生がカウンターの前を通り過ぎ、奥の蔵書室へと次々に消えてゆく。
 誰も三蔵と八戒の間で交わされている、秘密めいた淫靡なやりとりなど気がつくものはいない。
「どこへ泊まった。正直に言えば許してやる」
「貴方なんかに――――」
 八戒はとうとう、きつく光る翡翠色の瞳を三蔵に向けた。決定的なことを言ってしまいそうだった。
 そのとき、
 険悪な雰囲気の受付に、そぐわぬ明るい声が図書館に響いた。
「おっや? どーしたの? 」
 片眉をつりあげて赤い髪の院生が入ってきた。昨日の水族館でのデートとは違い、今日は学生らしく薄手のパーカーなんか着て、ジーンズを履いている。
 長い髪は結んでいない。朝、単に慌しくて忘れたのかもしれない。肩先まで長さのある髪は、赤い絹糸のようにしなやかにまっすぐで、癖ひとつなかった。ふた筋の長い前髪が弧を描いて跳ねているのはご愛嬌だ。
「…………悟浄! 」
 八戒はほとんど叫びそうになった。悟浄は八戒の気も知らずにっこりと微笑むと、うれしそうにカウンターへと寄ってきた。
 傍に三蔵がいるのなんか、おかまいなしだ。視界にも入っていないらしい。
「昨日さ、渡したつもりだったんだけど」
 横から、三蔵に射殺されそうな視線を送られていることも知らずに、悟浄はでれでれととろけそうな表情で八戒に話しかけた。
 それは間接的に八戒を断崖絶壁へ突き落とすような行為だったが、河童はそんなこととは露ほども知らない。
「これ! 渡しそびれてたから」
 悟浄は大きな二つ折りのカードを取り出した。とりどりの熱帯魚が踊るデザインの水族館のカードだ。八戒はそれを見て、顔色を変えた。全身の血が音を立てて引いた。
「ちゃんと、日付入りだし。八戒との初デート記念な! 」
 昨日、悟浄にモノレールの中で見せられたから、それがどんなものかは知っていた。カードの表紙を開けると、悟浄とイルカと八戒とで取った記念写真が挟み込まれている。開けて見なくとも、カードの外側に水族館の名称が目立つ書体で印刷されていた。
 三蔵は目ざとくそれを認めると、今度こそ殺しそうな勢いで悟浄を睨み据えた。
「てめぇか」
 低音の迫力ある声が、地の底を這うように響いた。
 敵をレーダーで補足しそこなって、攻撃のしようがない魚雷か何かが、やっとソナーで相手を探し当て、狙いの標準を定めた。そんなところだった。
「んだよ。いたのかよ。金髪ハゲ」
 悟浄はつまらなそうに言った。もう八戒以外、眼中になかったらしい。
「…………この」
 八戒を待ち続けて寝不足だった三蔵は、不機嫌もいいところだった。そこにきて、こんな赤ゴキブリの寝言を聞かされたものだからたまらなかった。
「ぶっ殺すぞ。てめぇ」
 威嚇というよりも、本気の本気で三蔵は言った。
「こっちのセリフだ。陰険ハゲ」
「やめて下さい! 図書館の中なんですよ! 」
 小声で、しかし一語一語に力を込めた言葉で、八戒がふたりを仲裁しようとした。事態は最悪だった。三蔵の横顔は血の気もなく、血管がこめかみに浮いてとりつくしまもない。
 八戒は悟浄に懇願するような視線を送った。機転の利くこの男は、その縋るような目に反応した。
「ちっ。八戒さえいなきゃ、てめーなんかギタギタにしてやんのにさ。まっ八戒がそーいうならしょうがねぇな」
 舌打ちをして、悟浄は今にもつかみかかろうとしていた手を引いた。八戒の顔を立てたのだ。
 悟浄にとっては自分のプライドより、八戒の気持ちが大切だった。この男にはそんな優しさがあった。
 三蔵の方は、立ちあがるでもなく、相手をひたすらその紫暗の瞳で睨みつけている。何か、悟浄の言葉をいちいち聞きとめて量っている。そんな風にも見える。
「困ったことがあったら、俺に何でもいえよ。隠すなよ」
 色気のある切れ長の目で八戒に秋波を送ると、邪魔な金髪の男を、俺の言葉が聞こえたかとばかり、正面から睨みつける。
 不良っぽいと評判の悟浄だったが、こうして本気で脅迫じみた表情を浮かべると、確かに迫力があった。
 真紅の瞳と紫暗の瞳が、真っ向からぶつかりあう。
 しばらくの間、ふたりは無言で睨みあっていた。お互い、八戒を挟んで牽制しあっている。
 悟浄は男らしい明快さで、大切な人間を傷つける者を叩き潰すために威嚇し、三蔵は自分の領域に入り込んできた侵犯者に対する怒りと憎しみをぶつけている。
 このふたりはどこまでも対照的だった。蒼い月の下、魔性じみた高貴さを漂わせて香る月下美人と、真夏の太陽の下で、たくましく咲き誇る真っ赤なひまわり。
 光と影、陰と陽。彼らはプライドの持ち方も、その表わし方も誇り方も違った。そんなふたりが、八戒を挟んで激突している。
 片方は八戒の心を手に入れ、片方は八戒の躰だけを手中にしていた。
 どのくらい、その睨みあいが続いただろう。本当はほんの数秒ほどの出来事だったが、八戒には途方もなく長く感じられた。
 やがて、
「じゃ、八戒! また昼、いつものトコにいるから! 」
 悟浄は片手をあげておどけてみせると、八戒だけに満面の笑みを振り撒いて図書館から出て行った。朝一番で、写真を渡したかったらしい。
 いや、写真にかこつけて、短い間でもいいから八戒に会いたかったのだろう。恋に落ちた男特有の行動だったが、この場合は非常にまずかった。
 とはいえ、悟浄に罪などひとつもない。
 悟浄が出て行ってから、しらじらとした沈黙が館内を支配した。しばらく経ってから、三蔵が口を開いた。
「そういうことか。よく分かった。バ河童が丁寧に説明してくれたからな。てめぇ。よくも……今日は先に帰って風呂済ませてベッドの横で正座して待ってろ。……念入りに可愛がってやる」
 低くドスの効いた声だった。八戒は身を硬くした。
 絶望的だった。

 図書館の外では、散りそびれた薔薇が無残なしかばねさらし、首を切ってくれとばかり、息も絶え絶えになっている。
 陽光きらめく夏なのに、八戒の心はひたすら暗かった。




「歪んだ薔薇 第2部(7)」に続く