歪んだ薔薇 第2部(5)

 その後はイルカのショーを見ているときに、悟浄がイルカジャンプの水しぶきをあびて濡れてしまったり、イルカと一緒に握手してもらうなどと言い張るので、ほとほと困ったり、外の遊園地で仲良くコーヒーカップに乗ったりした。
 大の男ふたり子供みたいに駆け回ってはしゃぎまわっていた。ふたりで子供の頃をやりなおそうとしているかのようだった。



 軽い食事をとっていたときに悟浄が不意に訊ねた。
「八戒って水族館、ガキん頃に来たことある? 」
「え」
 八戒は突然問われて目を丸くした。
「俺、ナイのよ」
 目の前の悟浄はコーヒーフロートに差したストローを口にしている。
「僕もありません」
 歯切れ悪く、八戒は返事をした。
「そーなんだ」
「ええ、僕は孤児院育ちでしたから――――」
 悟浄がうなづいた。
「そっか。そーなんだ。俺も親、いないんだわ」
「…………」
 目の前で、コーヒーフロートのアイスが溶け、下のコーヒーと混じりあって薄茶色になってゆく。
「なんてーの。日陰の身っつーの? オフクロ、死んじゃってさ。預けられて邪魔にされたりしてて。水族館なんか、連れてってもらったことねーんだ」
 悟浄は自分からしゃべった。誰にも言ったことのないことに違いない。
「八戒は? 」
「え……」
「八戒はどうだった? 」
「僕は両親の顔も知らなくて――――でも、どうしてそんなこと聞くんです」
 やや戸惑いながら八戒は答えた。下世話な好奇心から悟浄が聞いているわけではないことは明らかだった。
「だって」
 悟浄は目の前で笑った。力強い真夏のひまわりによく似た笑顔だった。
「好きなヤツのことなら、何でも知りたくねぇ? 」
 素直に殺し文句を言われて、八戒は返事ができなくなった。間接的に、悟浄は告白しているも同然だった。
「八戒は? 俺のこと知りたくねぇの? 」
 瞬間、ふたりの間に甘い何かが満ちた。八戒は飲んでいるコーヒーフロートがいっそう甘くなったような気がした。
「似てるよな、俺ら」
 顔を近づけると、悟浄は呟いた。
「良く似てる。そう思うだろ、八戒」




 夕方になって、ようやく悟浄と八戒は帰路についた。笑いながらモノレールに乗った。背の高いふたりして、ドアの傍に仲良く並んで立った。
「お、よく撮れてんじゃん」
 モノレールの車中で悟浄が取り出したものを見て、八戒は目を丸くした。
 とりどりの熱帯魚が踊るデザインが施された水族館のカードだった。
「うわ、それ……」
 開けると、イルカと一緒に撮った写真が出てきた。
「記念だから」
「は、恥ずかしいですねぇ」
「イルカよりやっぱり、俺サマのがイイ男だよな」
「大の男がふたりして何してんだろと、係りの人に思われたでしょうね」
「八戒の分も買った」
「僕の分もあるんですか! 」
「当たり前っしょ」
 泣いたり驚いたり怒ったりと、目まぐるしく表情を変えながら、八戒は最後にはいつも笑ってしまっていた。
 八戒は既にがんじがらめに三蔵に拘束され、彼の管理する檻の中にいたが、悟浄と笑いあっていると、地獄のような日常からも自由になれるような気がした。




 すっかり暗くなって、あたりは闇へ沈み、空では星が瞬き始める頃になった。
 コンクリート製の塀が続く住宅街を、ふたりして靴音を響かせて歩く。八戒のアパートが近づくにつれて、悟浄も八戒も無口になっていった。等間隔で設置されている街灯がひとつふたつと明るく輝きだし、夕闇にアクセントを添えている。
 うっそうとした緑に囲まれた公園の角を曲がれば八戒のアパートが見える。そんな場所まで来たとき、突然、悟浄は八戒の腕を横から引いた。
 バランスを崩したところをすかさず抱え、その首筋に顔を埋めて囁く。
「八戒のアパート、行ってもいい? 」
 赤い切れ長の目が光った。
 そのまま、背中に腕を回され、きつく抱き締められて八戒は慌てた。
 拒否する間もあらばこそ、悟浄は八戒の首筋をぺろりと舐めた。赤い舌が白い肌の上を滑ってゆく。八戒は息を詰まらせ、躰を強張らせた。
「ダメです。悟浄……いけません」
「どーして」
 悟浄は駄々をこねた。大型の獣が甘えて喉を鳴らしているかのようだ。
「お願いです。後生ですから、悟浄本当に……」
 八戒の声は真剣だった。
「悟浄ッ……ご……」
 性急な腕が八戒の服の下をまさぐる。八戒は気が気でなかった。悟浄の指が三蔵のつけた鬱血の上をさまよい出すと、びくんと身を竦ませた。
「悟浄……ごじょ……」
 部屋へ行くことだけは勘弁して欲しかった。かといってどこかへ連れ込まれるのも御免だった。
 悟浄のことが嫌なわけではない。むしろ逆だった。
 でも、彼とは三蔵のような生々しい関係になりたくなかった。八戒にとって、性的な交渉はすっかり屈辱的なものとして捉えられていたし、何より、躰中に散っている三蔵のくちづけの跡――――こんなものを悟浄に見られるわけには絶対にいかなかった。
 八戒は強く抵抗した。腕で守るようにして、悟浄の躰を遠ざけようとしたが上手くいかない。
 悟浄が強引にも、シャツのボタンを外して胸元へくちづけようとしたとき、思わず八戒は手を上げてしまった。肉の打たれる乾いた音が立った。
「……! すいません」
 気がつけば、悟浄の頬へしたたかに平手を喰らわせていた。勝手に躰が動いていた。八戒はシャツをすばやく手で押さえ肌蹴るのを防いだ。
「痛……」
 意外なまでの抵抗に、少し目を丸くした悟浄だったが、あまり強硬に出るのもどうかと思ったらしい。ため息をつくと仕切りなおしとばかりに両手を肩のあたりまで上げた。降参、といったところだ。
「わーった。今度な」
 悟浄は赤くなった頬に手をやった。
「おー痛てぇ」
「す、すいません」
 八戒が深刻に詫びた瞬間、赤い髪が目の前で揺れた。じゃれるように抱え込まれ、抱き締められた。
「今度! 絶対な! 」
 今から予約とばかりに、そう耳元で囁くと、悟浄は八戒から離れた。外灯の光を受けて、頭上で跳ねるふた筋の髪の毛が赤く光る。
「俺、こんぐらいで諦めねぇから」
 片手をあげて悟浄はにっと口端をつりあげて笑った。不敵な笑顔だ。そのまま、背を向けて悟浄は潔く立ち去った。
 大切な獲物が相手なので、傷つけまいと深追いするのをやめた、気のいい猟犬――――そんなところだ。
 八戒は胸を押さえた。したくもない振る舞いをしたために、神経が痛みきしんで粉々に引き裂かれそうだった。小さくなってゆく悟浄の背中を目でいつまでも追って、その場に立ち尽くした。
「悟浄」
 とうとう完全に姿が見えなくなると、小さく声に出して、彼の名を呼んだ。せつなくも甘美な思いで、躰の内側がいっぱいになってゆく。
それでも、今はこうするより他にはなかった。




 悟浄と別れて、目と鼻の先にある自分のアパートへ帰ろうとしたが、気が重かった。足に鉛でも注がれたようだ。
――――きっと今、帰ったら。
 八戒は悲痛な面持ちで、アパートがある方角へ改めて目を向けた。住み慣れた青い屋根が視界の隅に映っている。
――――今、帰ったら。
 そこには、金色の髪の鬼がいるに違いない。なにしろ彼はここ数日もの間、毎晩必ず来ていた。
 そう、八戒の元には鬼が通い詰めていた。白皙の、整い過ぎて酷薄そうな顔立ちの鬼だ。端麗で残酷な彼は闇夜に紛れるようにして、部屋の前で立っている。
 今頃、鬼は整った面をくもらせ、眉根に皺を寄せ、ドアに寄りかかるようにして煙草を吸っているだろう。
 煙草の火はまるで生き物のごとく弱くなったり強くなったりしたあげく、苛立ったように足元でもみ消されるに違いない。そうやって八戒が姿を見せるのをひたすら待っているのだ。いつまでも、いつまでも。

――――そうして、姿を見せたら最後、八戒はこの鬼に、骨まで喰われてしまうのだ。

『責任を取れ』
 先日、囁かれた低い声が甦る。
 自分が一体何をしたというのか、少なくとも、自分は悪いことなど何一つしていないではないか。
あたりかまわず叫びだしたかった。
 八戒は胸のあたりへ手をやり、ぎゅっとシャツを握り締めた。もう嫌だ、と思った。こんなことはもう、うんざりだった。
 きびすを返すと、もと来た道へと足を向けた。
 予測がついているのに、喰われに戻るのは、御免だった。懐に入れた財布を布の上から指で触れた。
 駅前まで出れば、安いビジネスホテルのひとつやふたつあるはずだった。悟浄との楽しかった一日の最後まで、鬼に汚されたくはなかった。



 次の日。八戒は無機質なホテルの一室で目を覚まし、シャワーを浴びた。
 久々にひとりベッドに手足を伸ばして寝ることができて快適だった。最近、夜はずっと三蔵と一緒だったのだ。
 八戒が、まるで重大な罪でも犯したかのごとく、三蔵は責め立て、何もかもを奪った。躰も、自尊心も、なにもかもだ。
 ただ唯一、彼が奪え得なかったのは、八戒の心だけだった。
 八戒は、こうやってホテル住まいがずっとできればいいのになどと、ぼんやりと考え続けた。
 透明で細長いキーホルダーがついている鍵をつかみ、部屋を出た。プラスチック製のホルダーには部屋番号が白く刻まれ、無機質な印象を強くしている。
 八戒は今、自分の持っている預金通帳の金額を、頭に浮かべた。多くはないが、贅沢などしない暮らしぶりなので、当分の間は暮らせる額が貯まっていた。
 そう、せめて三蔵のつけた跡が躰から消えるまでの間だけでも、逃げていたかった。
 それを実行に移すことを頭の中に描きつつ、八戒はホテルの受け付けで会計を済ませ、職場である大学図書館へと向った。



「歪んだ薔薇 第2部(6)」に続く