歪んだ薔薇 第2部(4)

 悟浄と約束した日曜日になった。
 空は一面晴れ渡り、薄い白い雲がところどころで切れ切れに飛んでいる。日差しは強く、足元にできる影は濃かった。
 八戒はモノレールの改札前で悟浄を待っていた。赤い髪の院生が指定した水族館には、わざわざ専用駅がついていたのだ。
 八戒があくびを噛み殺す。昨夜はずっと三蔵と一緒で寝不足だった。
 それなのに、八戒の服装には清潔感があった。折り目のついた青いシャツにジーンズを履き、縁が黒い眼鏡をかけ、飾り気のない茶色の革靴を履いている。
 その姿は、真面目な若い数学の教師を連想させた。とはいえ、こんな美形な先生はなかなかいるものではないだろう。
 どんな格好をしていても人々の目を集めてしまうに違いない八戒だったが、周囲から送られる視線には、気がつかないらしく飄々ひょうひょうとしている。
 今、彼が気にしているのは、悟浄と約束した時間だけだった。時計へ目を落とすと待ち合わせの五分前になっている。
 時間ぴったりにはこないだろうと八戒が思ったそのとき、明るい声がした。
「お待たせ! こっちこっち」
 悟浄が手を振ってホームから現われた。学内の格好もああだからして、推して知るべしだったが、今日の悟浄の格好はまた、八戒とは全く対照的だった。
 緋色のシャツの上にカジュアルな白いブレザーを羽織り、同じく白系のズボンを履いている。開けたシャツの胸元から、二重三重に銀のネックレスを覗かせている。龍の鱗に似た鎖が印象的な厳ついデザインだ。全体として大学生はおろか、カタギの男がするような格好ではなかった。
 でも、そんな格好が悟浄にはぴったりと似合っていた。チンピラっぽいというか不良っぽいというか、水商売全開というか、とにもかくにも、そういう類のファッションだ。
 地味で真面目な八戒と並ぶと、光と影ほどの差があった。接点ゼロって感じだった。どういうご関係だろうかと、すれ違うひとなどはみんな首を捻るに違いない。
 しかし、悟浄はそんな細かいことにこだわるような男ではなかった。真っ直ぐな長い髪が肩先でさらさらと揺れる。
「券買いに行こ、券」
 うれしそうに言うと、チケット売り場の窓口へ八戒を引っ張っていった。





 チケット売り場は、水族館入り口にあった。八戒の向って手前に水族館が、その背後に遊園地が広がっていた。
 売り場はやや高台にあるため、テーマパークの全貌が手にとるように見渡せる。海を埋め立てた平坦な土地に、オモチャ箱をひっくり返したような遊園地が広がっていた。観覧車やジェットコースターの鉄骨が青い空の下鮮やかに光り、赤や黄色の賑やかしいお化粧をされ、非日常的な光景を形成していた。
「けっこう、水族館って入場料、高いんですね」
 あまりこうした所へ行ったことのないらしい八戒は、悟浄から手渡されたチケットを興味深そうに触っている。
 チケットはプラスチックでできていて、ブレスレットの形をしていた。今日の日付が印刷されている。
「んー。ワンデーパスだからなー」
 八戒は貴重なものを扱う手つきで、神妙そうにチケットを手首に嵌めた。
 水族館は巨大な建物だった、波頭を模した白い丸屋根が重なりあっているのが見える。近づくと金属製のゲートが電気仕掛けで開き、悟浄と一緒に入り口をくぐった。
 いい天気だった。ゲートを過ぎると、潮や消毒薬の匂いが軽く鼻をついた。壁にかかった電光の案内板がぼんやりと明るい。「海の生き物たちのくらし」と記されている。
 暗い中、壁一面に水槽がずらりと立ち並んでいた。幻燈げんとうのごとく、それは光り、内部に生気のいっぱいに詰まった生態系を抱えて訪れる人々に惜しみなく開陳している。ある水槽では熱帯雨林の華やかな魚が舞い、その隣の水槽では不気味な深海魚が口を開けている。
 なんとなく、無口になって八戒は悟浄とゆっくりと歩いた。悟浄は特に魚に興味があるというわけでも無さそうだった。
 ときおり、「お、うまそうこの魚」などと言いながら大型の水槽を覗き込んでいる。それは、アジだったり、イワシだったりした。
 要するに魚屋で買うことができる種類のものに悟浄はよく反応していた。思わず、八戒は小さく吹き出した。
「なんだよ」
「いえ、すいません」
 どうして自分を水族館に誘ったのだろう、などとぼんやり考えながら悟浄と歩いていると、周りの光景が一変した。
 天井といわず、壁といわず、四方を巨大な水槽でかこまれた。頭上を悠々と巨大なエイが泳ぎ、その影が悟浄の上へと落ちる。
 まるで海の中へ投げ入れられたようだった。
 青地に黄色い縞のある魚がおどけた調子で上へ下へといったりきたりし、その背後で小さな魚がゆったりと群れをなしていて、白銀の粒子でできた霧を思わせる。
「うわ、綺麗ですね」
 八戒は魚影を目で追った。天井までガラスで覆われた巨大な水槽に手をつき、中をのぞき込んだ。
 案内板は「海中トンネル」と書かれた文字を暗闇で浮き上がらせている。
 横を見ると、美しいパノラマ水槽は、上りエスカレーターまで続いていた。連結された海のトンネルをくぐって、更に上の階へと昇る趣向になっているのだ。
 この水族館の名物だった。悟浄と八戒はエスカレーターに乗った。頭上の巨大なパノラマ水槽の中では魚たちが自由自在に泳ぎ回り、水を透かして上から照明のあかりが差し込み幻想的だった。青い水底から真珠のような泡を幾つも上らせ、エスカレーター全体を美しく包み込んでいる。
 なんとなく、八戒は悟浄の方を振り返った。足が地についていない気がした。ふわふわと雲の上を歩いているように落ち着かない。
 すぐ傍に並んで立っていた赤い髪の男は、八戒を見て悪戯っぽく笑った。傷のある頬に水の泡の影が映っている。
 その精悍な横顔を、八戒はこっそりと盗み見た。
「なんだか、これって」
 デートみたいですよね、と続けそうになって、八戒は口ごもった。
 唐突に悟浄とふたりで水族館なんかに来ているのを意識してしまった。確かにこれは、まごうことなき王道のデートコースだった。なんだかとても恥ずかしかった。
「あ、ほら、そこに悟浄の好きそうなサバがいますよ」
 照れ隠しに八戒は水槽の中を指差した。大きな魚影が群れをなしている。
「おい。俺んこと実はバカにしてっだろ。……確かに旨そうじゃん。サバの味噌煮、食いてぇな。酒飲んだ後とかでもいいよな」
 悟浄はとぼけた仕草でそう言い、八戒と一緒に声を立てて笑った。赤い髪が揺れ、首からかけたネックレスが涼しい音で鳴った。





 海のトンネルを抜けると、辺りは薄暗かった。
 暗闇を背景に、これまた天井まである壮大なパノラマ水槽が幾つも並んでいる。巨大な白昼夢の前にでも立たされた心地がした。
「すげー数の魚だな。アレ何」
「ええと」
 悟浄に問われて、八戒は壁に貼られていた説明を読み上げた。
「イワシ。イワシだそうですよ。この水槽全体で五万尾はいるんだそうです」
「イワシなんだ。アレ。でも綺麗だよな」
「悟浄。今、甘露煮にするとお酒に合うとか思ったでしょう」
「ってバカ。俺のことホントにバカにすんじゃねーよ。……ああ、確かに日本酒にぴったりだよな」
 目を見合わせ、屈託なく悟浄と八戒は笑いあった。巨大なパノラマ水槽の重みを支えるため、大きな柱が並んでいる一角に出た。
 その辺りはひとの気配も途絶えて、しんと静まり返っている。水槽越しの照明を浴びて八戒の眼鏡は白く光った。無心で魚を見つめている、その顔へ悟浄は唇を近づけた。
「悟……! 」
 あっという間だった。
 悟浄は素早く八戒を水槽のガラスへ押し付けると、その唇を奪った。奪ったと表現する他ない行為だった。青い幻想的な光りに包まれて、八戒は悟浄にくちづけられた。
「……ッ! 」
 反射的に八戒は、離れ際に悟浄を叩いた。悟浄は反省の色のない顔でにやにやと笑っている。
「悪ィ。いや、なんか、こう」
「…………」
 八戒の顔はすっかり強張っていた。
「悪かったって」
「…………」
 外れかけた眼鏡のブリッジを指で押さえて、八戒は顔をそむけた。かすかにその手元が震えている。顔色も悪くなっていたが、暗い水族館の照明がそれを覆い隠した。
「悪ィ悪ィ。昼メシおごるって」
 気を悪くしたらしい八戒を、悟浄がとりなした。
「ご飯で釣られると思ってるんですか」
 ようやく、八戒は顔を伏せ言葉を発した。やや語尾がかすれている。
 そんな会話を押し殺した声で交わし合いながら、更に上の階へと上がった。
「お、すげぇ」
 何か物思いにとらわれていた八戒だったが、悟浄の弾んだ声で顔を上げた。 水族館の三階では、アクアリスト垂涎の美麗な熱帯魚が泳ぎ回っていた。
「クマノミ、ルリスズメ……」
 八戒が魚達の名を呟く。
「詳しいじゃん」
 緑や黄色のテーブル珊瑚が広がり、イソギンチャクが海中に咲いた花のように揺らめいている大水槽が幾つも並んでいる。
「サンゴって綺麗な海にしか生きられないんですよね」
「そーなの? 」
「そう、だから、サンゴのある海は水が綺麗な証拠なんですよ」
「へー。八戒ってばモノシリ」
 美しい珊瑚を背景に、目にも鮮やかな青い熱帯魚の群れが舞い踊る。竜宮城にでも迷い込んでしまったかのようだ。
 悟浄はいつの間にか始まった八戒の講義をまるで先生に引率された生徒のように聞いている。
「サンゴはたくさんの魚たちの棲家にもなりますしね」
 蝶々魚チョウチョウウオが八戒のいるガラスの傍をかすめて泳ぐ。八戒の清冽せいれつな顔立ちを引き立てるかのようだ。とりどりの熱帯魚を背景にした彼は絵になった。
「しまった」
「どうしたんです」
「デジカメ、忘れた。八戒写そうと思ったのに」
「撮らなくていいです。撮らなくて」
 八戒は激しく自分の前で手を横に振った。
「もし撮るにしたって、僕じゃなくって魚を撮りましょうよ」
「魚なんか撮って何が楽しいのよ」
「貴方、本当にどーして水族館にきたんです? 」
 八戒は思わず口を滑らした。
「言わせたい? 」
 悟浄の口調が一瞬、変わった。今までの明るいふざけた調子から、低く艶のあるものになった。
「いえ……」
 ちょっと警戒して、八戒が後ろへ下がった。
「……なんか、これじゃデートみたいで」
「みたいじゃなくってデートだっつーの! もう! 」
 天然なところのある美人さんの言動に、悟浄が頭をかきむしる。眉間の間に皺が寄っていた。
「俺、本気だから」
 悟浄の赤いシャツが水槽の面に映る。幻影のように原色の魚が泳いでゆく。
――――本気だから。
 その悟浄の言葉を聞いて、八戒はそっと自分の口元に触れた。さっき、悟浄の唇が触れたところだった。
 昨夜、三蔵も執拗に唇を舐めた。快楽に囚われ始めた八戒を、まるで嘲笑うかのように三蔵は舌先で八戒の唇を何度もなぞり上げた。あの生温かい濡れた感触がまだ残っている気がした。
 こんな自分で、悟浄を汚したくなかった。
 そう。
 悟浄に全て気づかれたのではないか――――水槽の傍で突然、くちづけられた時に八戒が感じたのは、驚きでも照れでも嫌悪でもなく――――恐れだった。
 悟浄に三蔵とのことが知られてしまったらどうしたらいいのか。どんなに自分が汚らわしい存在に堕落してしまったか。それを知ったら、彼はどんな反応をするだろうか。
 そう思うと躰が強張った。甘い薔薇色の幸福な世界から、突然、奈落の底へと突き落とされた気がして、八戒は自分で自分の腕を抱いた。
 この躰も、このシャツの下も、実は三蔵の唇の跡だらけだった。ところ狭しと男の吸い跡をつけた淫らな裸身を、真面目くさった地味なシャツで包み隠していた。
 今の八戒は壊れて形ばかり接着剤で張り合わされた花瓶と一緒だった。よく見れば無数のひびがいっている。もともとの形をいかに取り繕うと、一度壊れたものは治しようもなく、もとに戻りようもなかった。
 昼と夜の二重生活は少しずつ、しかし確実に八戒の精神を侵食しはじめていたのだ。
――――こんなことを悟浄にだけは知られたくない。
「どうした? 」
 言葉少なくなった八戒を気遣い、悟浄は声をかけた。
「あ、い、いいえ。なんでもありません」
 八戒は首を横に振った。
 気づかれてはいけない。このひとだけには、気づいて――――欲しくない。
 そう思った。それは祈るような気持ちだった。
 そのためだったら、どんなことだろうと耐えてみせる。八戒は決然とした動作で唇に触れていた指を下ろした。



「歪んだ薔薇 第2部(5)」に続く