歪んだ薔薇 第2部(3)

 それから四、五日もの間、八戒は勤務の合間、昼になると学生食堂へ足を向けた。
 図書館を一歩抜け出せば、完璧な自由が待っているようにみえた。権威主義的な外観の図書館に後ろ足で砂をかけ、自分を脅迫する金髪の司書のことも忘れ、約束の場所へと急ぐ。まるで、学生の頃にでも戻った気分だった。
 地下が生協になっている二階建ての建物を駆け上がると、そこには赤い髪をした男がいて、自分のために席とりをして待ってくれている。外の緑が美しく眺めることのできる、窓辺の一角が八戒と悟浄の特等席だった。
 昼の八戒は、幸せだった。
 そう少なくとも昼の八戒は。
 でも、
 夜になると、
 夜になるとそれは――――。





「バカに最近、浮かれてんじゃねぇか」
 かたわらに寝そべる鬼畜な男が面白くもなさそうに呟く。八戒は暗闇の中で身を硬くした。
 八戒のベッドは単身者用のため、狭い。長身なので、せいいっぱい大きめのものを購入したが、それでも大の男ふたりで寝るにはいささか無理があった。
 夜になると、三蔵は八戒のアパートのドアを叩いた。入れたくなくとも、入れざるを得ない。こうした関係になって、二週間は経過していた。――――薄暗く歪んだ関係だった。
 昼の三蔵は、こんな営みを八戒と行っているなんて、周囲に感じさせないほど聖人君子然としていた。あの三蔵が、後輩の八戒とこんな淫らな関係になって、日を置かずに閨をともにしていると知ったら。大学の連中はさぞ驚くだろう。
 一時期、八戒に対して抱いていた独占欲などは相変わらずだったが、それは形を変え、もっと淀んで薄暗いものに姿を変えた。恋路の闇は金色の髪の鬼を生み、彼はひそかに嫉妬を縦糸に情欲を横糸にして、八戒との行為に没頭していた。
「昼以外は何も喰ってねぇみたいだがな」
 三蔵は、部屋の隅へと目をらした。簡易な棚がそこにはあり、一時的に荷物や食料品を置く場所になっていた。
 オレンジやらバナナやらがあったが、それらは少しも手をつけられていなかった。三蔵が置いていったものだった。
「ん……」
 八戒は、まだ震える肌を両腕で抱え、三蔵から身を離した。
「昼は喰えるのか。なるほどな」
 闇の中、三蔵はタバコに火を点けた。赤い火が揺らめく。マルボロの香りが漂ってきて事後のけだるさを強調する。クックックッと耳障りな笑い声が暗がりに響く。
「……関係ないでしょう、貴方には」
 暗がりで顔がよく見えないのを幸い、八戒は冷たく言った。躰の節々が痛かった。相当、無理な体位で抱かれ、長時間に渡って好き放題に犯されていた。特にももの内側が痛かった。
「……てめぇ」
 躰を重ねていた相手は、鼻白んだ声を出した。どんなに肌を重ねようと、八戒は頑なだった。突然、三蔵は自分の咥えていたタバコを八戒の口へ無理やり押し付けた。
「……!? 」
 八戒が嫌がって首を振るが、三蔵は許さない。
「俺と同じにしてやる」
「何言って……」
 八戒はタバコを吐き捨てた。ベッドに転がったそれを、三蔵がつまみあげ、ベッドのさんで、もみ消した。
「俺と同じになりゃいいんだ」
「三蔵! 」
 陵辱の跡が絶えない八戒の躰を、三蔵は再びむさぼるために、こじ開けた。
「三蔵! 三蔵ッ……う……ッ」
 八戒は口腔内を舌で貪られた。生温かい舌がとろりと入り込み、粘膜を撫でる。マルボロの香りが入り込んできた。苦しくなって八戒は腕で相手を押しのけようとしたが、できなかった。
 瞬間、三蔵の心の裡にわいたのは、八戒と同化したいという願いだったのかもしれない。
 マルボロの香りも、粘膜も、細胞のひとつひとつも、そしてこの身に巣食うおぞましい欲望さえも溶け合って一緒になってしまえばいいのに――――と。
「責任取れ、俺がこうなったのは――――」
 三蔵の言葉が、闇の中、かすれて消える。
 深々と、暗い夜は更けていった。





 学生食堂の窓の外で、緑は更に濃さを増していった。
 悟浄は茫洋ぼうようとした視線を向けた。無意識に黒髪の待ち人が歩いてくるのを、探してしまう。
 今日はなかなか、見つけることができなかった。でももうすぐに違いない。柔らかい笑顔を向けて、黒髪の美形司書がきっと声をかけてくれる。
 涼やかな目は吸い込まれるようで、悟浄はときおり見とれてしまう。
「悟浄」
 思いがけなくも、真後ろから声をかけられて、息が止まりかけた。
「わ! 」
「あ、驚かせちゃいました? 」
 八戒だった。
 悪戯っぽく微笑み小首を傾げる。八戒は悟浄と遜色ないくらい背が高いし、話しているうちに、凛として男っぽいところがたくさんあるのも知った。
 でも、やっぱり、柔らかい物腰だとか、優美な美貌だとかが煙幕の役割をしていて、他の男だったら、殴りたくなるような可憐な所作も八戒には無理なく似合った。
 もっとも、悟浄の場合は惚れた弱みやら欲目も山盛りだったから、八戒が何をしようと問題などあろうはずはなかった。
「すいません。下の生協に寄ってたものですから、お待たせしちゃって……あれ? 」
 八戒が、珍しく悟浄が勉強用の講義資料を手にしているのを見て、声を上げた。
「なんですか。それ」
 八戒が目を丸くして覗き込み、文章を目で追った。
「?……恋よ恋。恋には人の。死なぬものかは。……古典? ですか? なんです、これ」
「前言ってた講義の課題。押し付けられちまった」
 悟浄は口を尖らせて言った。あの後、後輩たちに、『自分達も自分達なりにやってみるけど、なにぶん再履修で後がないので、是非先輩にも一緒にやって欲しい』と、拝むように頼まれたのだ。
 バカな子ほど可愛いとはいえ、バカすぎる後輩たちに頭が痛かった。たぶん、連中は悟浄が本質的に優しく気がいいのを本能で知っているに違いない。とうとう、引き受けさせてしまったのだ。
「へぇ。人望がありますね。悟浄は」
「バカぬかせ。冗談じゃねーよ。古文キライだってのに」
 悟浄はそう呟くと、目の前の黒髪美人を見つめた。相手は悟浄の視線に気がついているのかどうか、ふんふんと肯きながら、小難しい資料をすらすらと読んでいる。
「八戒……」
「はい? 」
 悟浄は八戒の手を握りしめた。
「ひょっとして、八戒ってば、古文得意じゃねぇ? そうだろ? そーだよな! 頼む! 俺と一緒に訳してこの呪いの手紙みたいな文章……」
「ご、悟浄」
 気がつくと、陽光まぶしい昼の学生食堂で、大の男ふたり、手を握りしめて見つめ合っていた。
 食堂で笑いさざめいていた学生達も、悟浄と八戒の座っている席から、あわてて視線を逸らす。
 かと思うと、憧れの美人司書を篭絡しようとしている赤ゴキブリめがけて憎々しげな視線を飛ばすものや、恋路を邪魔せぬように気を遣って傍に座らないようにするものなど――――本人達の知らぬ間に様々な反響を巻き起こしていた。
「わわわわわ! 悪ィ! 」
 悟浄はあわてて手を放した。
「は、ははは。いやいや、これは」
 八戒もとっさになんて言っていいか分からなかった。照れ笑いを浮かべるしかない。
「……しまった」
 唐突とうとつにぼそっと悟浄は呟いた。
「はい? 」
 突然のことにどぎまぎしている八戒がたずねる。
「もっと味わって握っておくんだったー! 」
 悟浄は八戒に触れた手を顔の前で力いっぱい握りしめた。目がわっている。彼はこの上なく真剣だった。
 恥ずかしくって、八戒は眼前の男から視線を逸らした。本当のことをいうと、悟浄を思いっきり叩きたかった。叩きのめしたかった。いや、むしろ殴ってやりたかった。
「クソッ! こんなところじゃドサマギにちゅーもできやしねー! 」
「大声出さないで下さいッ! 」
「八戒、今週の日曜あいてる? 一緒にデートしよデート! 水族館行こうぜ! 」
「だからッ、大声出さないで下さいってば! 」
 そんなこんなで、八戒はいつの間にか、悟浄と週末に水族館へ行くことになってしまったのだった。




――――夜。その夜。
 夜目にも慣れて、うっすらと白いアパートの壁が見える。
「っ……」
 生理的に流れた涙を、八戒は指でぬぐっていた。きらきらと瞳の端で留まり、艶めかしく光る。躰の上にいる男が身じろぎした。もう、この行為が何度目になるのか、数えることもできなかった。
 闇の中でさえ、相手の整った美貌が分かった。ひきしまった体躯に均整のとれた長い手足といい、俗世から隔絶した完璧な容姿だった。金の髪が華麗で美しい。
 こんな男にさっきから、いいように穿たれ、悲鳴を上げさせられてしまっていた。屈辱的だった。
「大丈夫か」
 低い声が降ってきた。今更、気遣うくらいなら、最初からしないで欲しいと、横目で睨む。
「ま、だいぶ、慣れたから大丈夫だな」
 紫色の瞳をした悪魔は薄笑いを浮かべて囁いた。八戒は目を見開いた。
「僕は慣れてなんか―――」
 三蔵が狭間で動いたため、八戒の言葉は途中でかすれた。均整のとれた肉が八戒の肉を打つ。上から叩き込むように何度も貫かれた。
「……うッ」
 躰が衝撃で仰け反った。暗闇に白く浮かぶ首筋に、三蔵が噛み付くようにくちづけた。
「あ……」
 強く吸われて、びりびりするような感覚が走る。同時に三蔵のが内部でひくひくと蠢いた。ぞっとするおぞましい感覚のはずなのに、どこか甘美な感触だった。
「ひ……」
 連日犯され続けて、躰だけが三蔵になじみつつあった。精神はいまだに傷を負い、毎日は地獄の底のようだったのに、肉体は三蔵の到来を徐々に受け入れはじめていた。自己防衛の一種だろう。
「俺を通す道ができてきたじゃねぇか」
 三蔵は貫いたまま、腰を振った。しなやかな体躯には強靭なバネが潜んでいた。細身なのに、三蔵は見かけよりもタフだった。
「嫌で……」
 無意識に逃げようと身を捻った。完全に手の内から逃れることはできないと知ってはいても、抵抗せずにいられなかった。耐えられなかった。
 三蔵は抗う痩躯を押さえつけた。両腕を押さえつけて手と手を重ねる。
「んんッ」
 苦痛なく、受け入れるためには、かえって躰の力を抜いた方が、効率が良かった。
 しかし、柔らかくなった肉は、略奪者にとっても途方も無く甘美だったらしい。三蔵の行為は日を追って入念に、丁寧になった。
 従順になったとでも思ったのだろうか。当初、奪うだけだった行為は段々と淫靡さを増してきた。初め、支配するためだけに仕掛けられた暴力的な行為だったのが、次第にそれは様相を変えてきたのだ。
 三蔵は、八戒が反応した場所へ執拗にたわむれ、行為を繰り返した。なかなか許してはもらえなかった。
 薄紙をはぐように躰を開かされ、溶かされる。陵辱者の手は優しいことすらあったのだ。
 それは真綿で首を締めるような優しさで、八戒はいつもその行為に耐えられず音を上げた。
 今夜も、抱かれて力の抜けた後、三蔵は八戒の性器へ手を伸ばし、丁寧に舐めすすった。達した後の敏感な裏筋へ舌を這わせられ、眩暈がしてきそうだった。
 殺しきれない甘い声を漏らして淫らに喘いだ。それを聞いて、三蔵の口元に笑みが広がったが、幸いにも八戒はそれを見ずに済んだ。
「躰は素直なのにな」
 嗜虐的しぎゃくてきな調子でささやかれる。三蔵は喉で愉快そうに笑った。特有の、ひとの悪い笑い声が響く。
 八戒は侮蔑されて傷ついていた。淫乱だと嘲られた気がしたのだ。自分自身のことも、三蔵のことも何もかも憎かった。
 一瞬、悟浄の顔が頭に浮かんだ。躰から力が抜けた。
 それは八戒にとって地獄に落ちてきた蜘蛛の糸だった。必死で八戒はそれに縋った。三蔵に獣のように犯されながら、悟浄のことをひたすら想った。
 そうしないと、自我が崩壊して、この金の髪をした支配者の前に奴隷よろしく膝を折り、ひたすら許しを請いそうだった。

 ふたりはしばらくの間、泥のように眠った。空の白む頃、三蔵はようやく帰っていった。

 こんな日々を営々と繰り返していた。

 夜は三蔵と、昼は悟浄と過ごす。
 そんな二重生活がいいわけはない。躰にも心にも支障をきたすに決まっている。
 それでも八戒は落差に満ちた毎日を送っていた。
――――いや、自分から望んでのことではないので、「送らされていた」という方が正しい表現かもしれない。




「歪んだ薔薇 第2部(4)」に続く