歪んだ薔薇 第2部(2)

「恋のみちちまたに人の迷ふらん」
「何ソレ――。お経? 」
 悟浄はだるそうな仕草で食堂のテーブルに頬杖をつき、ハイライトの煙を口から吐き出した。男っぽいくせに妙に色気のある仕草だ。
 長く赤い髪を無造作に後ろでひとつにまとめ、白いTシャツの上に、細いしま模様のシャツを重ねて着ている。
 普通の人がすれば、いかにも真面目な大学生といった格好だったが、さすがに悟浄は違った。手や首につけた銀製の派手なアクセサリー類でそんなもの、みごとに粉砕、台無しにしている。
 片頬に刻まれた傷あとともあいまって、すっかり水商売系の、顔はいいけど迫力のある筋モノのお兄さんといった風情だ。
 背もやたらと高かったので、他の学生たちも悟浄と構内ですれ違うとなんとなく道をゆずってしまう。誰もが彼には迫力負けしていた。
 こんな男がこんな名門国立大に席を置いているというのもつくづく不思議だ。
「違いますよ。講義の課題です」
 悟浄に問われた相手はむっつりと答えた。同じ寮の後輩だった。
 昼の学生食堂は混んでいた。外に喰いに行く連中もいることはいるが、とにかく料理の量があって安いので、多くの学生はこの学食を愛用している。
 だだっぴろい食堂には六人掛けの大きな白いテーブルが、幾つもずらりとならんでいる。それに合わせた椅子は木でできていて、これまた質実剛健といったら聞こえはいいが、要するに無愛想な実用本位なものだ。
 昭和の気配さえする古い食堂だったが、掃除はいきとどいていてこざっぱりしていた。何よりも南側は全面ガラス窓が入っており、陽光がきらめき気持ちがよい。
 悟浄は目の前に置いた肉野菜炒めを箸でつついた。彼にしては食欲がないようだ。
「その……わけのわかんないお経をどーするって? 」
 悟浄はしばり損ねた一筋の髪を、邪魔そうに後ろへ払った。赤い髪が窓辺の陽光を反射し、艶を放って輝く。
「これ、能の一節らしいんですけど、全部英訳するのが課題で」
 相手はテーブルに置かれていた透明なプラスチック製の水差しから悟浄のコップに水を注いだ。
「なら、さっさと訳せよ」
 悟浄は面倒そうに言った。窓から外を眺める。新緑の若葉が日に照らされて色を濃くし、もう夏の気配がいたるところに立ち込めている。
「いや実はこれ、まず古文を現代語に訳して、んでもって、それをさらに英訳しなきゃいけないじゃないスか。しんどいんです」
 相手はごにょごにょとくちごもった。
 不良だが、やたらと顔がよくってとびきりハンサムでむちゃくちゃ女にもてる破天荒なこの先輩に、後輩たちはそれなりの敬意を払っていた。罵倒されても口答えはできなかった。
「……そういや、お前、四年だったよな。それ、一般教養科目の講義のだろ。なんで受けてんの。バカじゃん」
 一般教養科目はせいぜい二年までに履修しておくべきものだ。
「いやその。俺、『教養が邪魔』 をしてて」
「ケッ」
 悟浄は軽蔑したように口を尖らせて横を向いた。
 教養が邪魔をする。要するに、一、ニ年の頃、教養科目を落としまくった結果、再履修になっていて、卒業が危ぶまれているのだ。
「ったく。そのお経」
「能です」
「まさか、俺に訳せってんじゃないだろうな。俺、勉強キライ」
 きっぱりと悟浄は言った。ただでさえ最近ブルーなのに、古文の英訳なんてそんな超絶ブルーなこと、ちまちましてられっかという気分だった。
「そんな! 悟浄さん院生じゃないッスか! ウチの院試、やったらめったら英語が難しいってウワサですよ。悟浄さん英語、実は超得意でしょ?! 」
「別に得意じゃねぇよ」
「そんな! 」
「例え得意だって、んな、お経なんか訳さねーぞ」
「能です」
「能だかなんだか知らねーけど」
「タイトルは 『恋の重荷』 っていうんだそうです」
「…………」
 なんとなく、ひっかかるタイトルだった。悟浄は相手の顔をはじめてまともに見た。
「……どんな、内容なんだソレ」
「なんか、高嶺の花に恋した男が」
 ナイロン製のザックから講義の配布資料を出して、相手はいそいそとあらすじを読み上げた。やっと悟浄がその気になったのかとうれしそうだ。
「……高嶺の花、身分ある女御にょうごに恋をした男が、思いを叶えてやるから、すんげぇ重い荷物を持って庭を百回まわれとか言われて頑張るんです。でも回れなくて死んじゃうって話です」
 実に悲惨な内容だった。
「やな話だな。なんだよソレ」
「それで、死んじゃった男は鬼になって化けて出て」
「……」
 悟浄は神妙な顔をつくると、コップの中の水を黙って飲んだ。コップの中で氷がガラスにぶつかって鳴った。
「……なんかそれ、俺みてぇ」
「え? 」
「いや、なんでもねー」
 ちらっと、下級生が読んでいる資料に何気なく視線を落とした。ぐちゃぐちゃと理解不能な文章が書いてある。

 恋のみちちまたに人の迷ふらん。名もことわりや恋の重荷。げに持ちかぬる、この身かな。それ及び難きは高き山。思いの深きはわたつ海の如し。

 悟浄は青くなった。
「ふざけんな! 俺、古文、大ッキライなんだよ! 鳥肌立つ! 何だ、その呪文文書」
「お、お願いしますよ! 悟浄さん! 」
「ぜってーイヤ。何がなんでもイヤ! 」
 ぎゃあぎゃあと食堂の一角で悟浄はわめきだした。そのときだった。
「あ、あれ八戒さんじゃね? 」
 テーブルのわきを通りすぎる学生達がささやく声が聞こえた。食事のったトレーを掲げたまま、窓の外を一様に見ている。
「あ、本当だ。八戒さんだ」
「痩せちゃってんじゃん? 」
「いや、ありゃ、やつれてるっていう方が……」
 悟浄もつられてガラス窓へ目をやった。外はエニシダやケヤキの緑が美しい。爽やかなこずえが日の光に照らされ、レンガ敷きの舗道へ影をつくっている。
 初夏の構内を、黒髪の司書が歩いてくるのが見えた。
 しかし、それは歩いているというより、ふらついているというのが正しい有様で、確かに学生たちが評した通りだった。彼は妖しくも麗しい幻影か、はたまた儚く美しい幽霊か何かに見えた。
 悟浄は無言で席を立った。反射的に躰が動いていた。
「悟浄さん! 」
「悟浄さんってば! 」
 後輩たちが、あわてるのも聞かず、彼は食堂を飛び出していった。





 ものすごい瞬発力だった。脚力にものをいわせて一気に食堂の出入り口を駆け抜け、悟浄は八戒を追いかけた。
 歴史のあるレンガ敷きの舗道はところどころ修復がされ、色が変わっている。とても徒競走には適さぬ道だったが悟浄は走りに走った。
「ちょ……待て、おい」
 息を切らせて、悟浄はあっという間に追い縋った。八戒の足が止まった。
 八戒は、悟浄の声を聞いて、ぎょっとしたようだった。おそるおそる白い顔が振り向く。象牙を思わせる温雅おんがな白い肌は、その下にひそむ静脈の青さすら透けて見えそうだった。
 目にかかる長さの黒い前髪は、艶こそ保っていたが、一週間前のきらめくような生気を欠いている。優しい美貌を引き立てる緑の瞳は、何かに脅かされてでもいるかのように落ち着きがなかった。 
 悟浄の姿を認めると、会ってはいけない相手に見つかったかのごとく、八戒は顔色を変えた。
 悟浄はこの大学の院生だ。どんなに八戒が避けようと、同じ大学にいれば、いつかは出くわすに決まっている。
 しかし、まさか悟浄の方からこんな衆目も構わず追いかけてくるとは思っていなかったらしい。そんな八戒の態度は悟浄にとって、十分傷つくのに値することだったが、今の彼にはそんな自分の気持ちなど頓着する暇はなかった。
「なんだ……なんだよ、オマエ」
 悟浄は突然、両手で八戒の肩をつかんだ。力強く大きな手で痩せた肩に触れ、肉のつきかたを大雑把に確かめているといったふうだ。
「……三キロ」
 ぼそっと悟浄は呟いた。
「は? 」
 突然あらわれた悟浄の、わけのわからぬ行動に、八戒は度肝を抜かれたのか目を白黒させている。
「三キロ痩せてる! どーして? あれから一週間しか経ってねぇのに! 絶ッ対三キロは痩せてるぞ八戒ッ! 」
 悟浄は八戒の戸惑いに構わず、きっぱり言い捨てるとその肩を抱き寄せた。
「な、ななな」
 八戒の眼鏡がずれ、翡翠色の瞳が真ん丸くなっている。
「待ち合わせの日」
 悟浄は構わず八戒の肩を自分の方へ引き寄せたまま、ぼそっと呟いた。
「俺、ずっとずっと薔薇の花壇の前で待ってた」
 淡々とした声だった。珍しく真面目に引き結んだ口元は、理不尽で悲しいことに耐える、けなげな男の子を連想させる。
「……」
 八戒は視線をらした。何故、悟浄との待ち合わせに行けなかったのか。三蔵に犯されたからだったが、それは到底とうてい、告げることはできなかった。
「ずっとずっと待っててさ。医学とか工部とかの連中が研究室抜け出して夜食買いに行くのとか、ぼけーとアホみたいに見ててさ、守衛にはさんざん怒られて」
 悟浄はその日のことを思い出すように遠い目をした。八戒の手を引いて歩きだした。
「ずっと待ってた」
 落ち着いた低い声で囁かれる。大声で責められるよりも、八戒にはこたえた。
「すいません」
 街路樹の枝の影が八戒の顔に陰翳いんえいをつけた。より痩せてしまった彼は、顔色も青白く、現実離れしていて頼りなげに見えた。
 本当のところ、八戒は見た目より性格はきついし、芯は相当しっかりしている方だったが、最近はおかしかった。誰がどうみても不安定だった。
 悟浄は、そんな相手の尖ったあごのあたりへ、ちらりと一瞥いちべつを送り、学食の入り口をくぐり抜けた。
「本当に悪いことしたと思ってんのかよ」
 悟浄は初めて拗ねたように言った。ふたりは学食の配膳口にいつの間にか来ていた。
「ええ。本当に――――」
 悟浄は八戒が続けようとした言葉をさえぎり、
「なら」
 懐からプラスチックの札を出して、配膳口の受け付けカウンターに置いた。それは小気味のいい高い音をステンレスの上で立てた。
「カレー」
 唐突に悟浄は言った。
「は? 」
 さっきから噛みあわない妙な会話に、八戒は目を白黒しっぱなしだった。悟浄がこうくるとは思っていなかった。
「カレー。食ってけよ。ホントーに悪かったって思ってるならさ」
 確かに、悟浄が置いたプラスチック製の食券には『カレー大盛』と刻まれていた。





「……アレ見ろ」
「ご、悟浄さん」
「こっちに向って手ェなんか振っちゃってるよ。すんごい嬉しそうな笑顔で」
「あーあー。さっきのが嘘みたいな上機嫌」
 食堂に置き去りにされていた後輩たちは、あっという間に悟浄が戻ってきて、しかもあろうことか本学最高の 『高嶺の花』 を連れてカレーなんかトレイに二つ載せちゃって、うれしそうにしている姿を唖然あぜんとして見ていた。
「……美人にふられて鬼になるって聞いて 『俺みたいだ』 とかなんとか、呟いてたけど」
「心配して損した」
「さっきまでため息ついてたってのに」
「つくづく心配して損した」
 百戦錬磨の恋の手練てだれになる秘訣ひけつとは、めげないことに尽きるのかもしれない。悟浄の満面の笑顔をみながら、周囲は密かにそう確信した。
「あちらのテーブルにいるのは、お友達ですか」
 すっかり、悟浄のペースに巻き込まれた八戒は、観念したように食堂の席についた。目の前には悟浄セレクトの 『大盛カレー』 が鎮座ちんざしている。
「や、後輩。アイツ等すんげぇバカでさ。四年なのに教養科目、終わってねぇの。俺に英語やれとか言ってやんの」
「英語? 」
「そ、能のセリフを英訳しろとかいうケッタイな課題でさ。自分でやれってカンジだけど再履修かかっててやばいんだと」
悟浄はさっき肉野菜炒めを食べたばかりだというのに、カレーを平然とした様子で食べている。
「喰わねぇの? 」
 食欲が無くなっているらしい八戒は、カレーなど久々なのだろう、スプーンの先でつつくばかりで一向にすすまない。
「それ、俺のオゴリだから」
 ぼそっと悟浄は呟いた。
「それなのに、残すっての」
 悟浄の視線が恨みがましく八戒へ向けられた。そんな相手を制するように八戒が慌てて言った。
「た、食べます。食べますったら食べます」
「よろしい」
 にっと悟浄は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。不良っぽい癖に少年みたいな無邪気さが同居している。こんなふうに微笑まれたら、確かにどんな淑女だろうと一撃必殺に違いない。
 八戒は、仕方なくご飯をすくい、口へ運んだ。不思議に吐き気は襲ってこなかった。
「…………」
「どう? 喰えそう? 」
「……ええ」
 食べられることに、八戒自身が驚いているといった様子だった。
 それもその筈だった。最近の八戒は何を口にしても吐いてしまって、ほとんどジュース類くらいで日を過ごしていたのだ。
 もちろん、そんなこと悟浄は知らない。
「ったく。ただでさえ痩せてんのにそれ以上痩せて、どーすんの」
 自分こそ、どこにそんなに入るのかという速さで、カレーを瞬く間に平らげた。
「俺の方こそ痩せてやろうと思っていたのにな」
「悟浄が? 」
「そうそう。八戒にあてつけ。やつれてアバラとか出ちゃうくらい痩せてやるの」
「どうしてそんなことを」
「そーしたら、八戒心配してくれそうじゃん? なのに先、越されちまうなんてよー」
 悟浄は唇を尖らせた。その屈託のない調子に、八戒は思わず吹き出した。この赤い髪の男前は、大真面目になんのてらいもなく、素直にこんなセリフを言ってのける。
「笑った」
 悟浄はうれしそうに、呟いた。
「え? 」
「笑った。よかった。いやーさっきから、にこりともしねぇからどーしよっかと思ってたけどよかったー」
 満面の笑顔を浮かべ、悟浄はまたひと匙スプーンをすくった。傷のある頬が笑みで崩れた。
「もっと喰ってよ。八戒」
 それは、さりげない優しさが込められた言葉だった。





 その後、悟浄は一方的にしゃべった。自分とのデートをすっぽかしたことについてなんか、もう触れもしなかった。
 この一週間、自分が何をしていたか、図書館の受付に八戒がいないので心配したとか、でも他の司書に裏方の仕事をしていると聞いて安心していたとか、八戒が丹精してる薔薇に虫がついていたからとろうとしたら、トゲが手に刺さったとか、いろいろなことを立て続けに彼は話した。
 最後に、いつもこの時間は、こうして学食で食べていると語り、八戒が来るのをこれからは毎日待つと言い張り、俺と一緒ならどんな食事でも美味いに決まってるぜ、とかなんとか自惚れた演説までして、八戒を笑わせた。

 この日、八戒は気がついた。悟浄と一緒だと吐き気もせず食事ができえることに。
 そして、悟浄がいると、こんな自分でも――――再び笑うことができるのだと知った。





 会わない方がいいと思っていた。それなのに、悟浄は次の日から、うれしそうに八戒を昼食へ誘いにきた。
 堂々と図書館へお迎えに来たものだから、たまらない。
 八戒は思わず周囲を見渡し、近くに金髪の先輩司書がいないか確認しなければならなかった。
「毎日これから、俺、昼メシ誘いにくっから」
 背の高い悟浄は傍らの柱に手をつき、やや腰を折り長い脚を邪魔そうにしながら、八戒の座っているカウンターへ身を屈めた。その肩先で赤い髪がなびく。
「それは……」
 毎日、と言われて八戒は困った表情を浮かべた。こんなことが三蔵に知られたら、どうなるのだろう。
「悟浄、やめて下さい」
 きっぱりとした口調で八戒は言った。三蔵との薄汚れた関係に甘んじ、溺れている自分になど関わって欲しくなかった。
 八戒に拒絶され、目の前の男は素直に失望の色を顔に浮かべた。よくなつく猟犬が飼い主にこっぴどく叱られているみたいな様子だった。しょげていた。
「迷惑かよ」
 悟浄の口元が歪む。さっぱりとした彼は、迷惑だと言われればさっさと引き下がってしまうに違いない。
 何か言おうと口を開きかけた八戒に、赤い髪の男前はさばさばと言った。
「わーった。今度から食堂で待ってるわ」
「え、えええと」
「職場に来られると困るんでショ? 社会人の仁義ってヤツ? そーゆーの分かってなくってごめんな。俺、明日は食堂で待ってるから」
「悟、悟浄」
「ホラ、今日はB定食な! 」
 悟浄は手の中を開いてみせた。そこには赤いプラスチックの小さな札があった。『B定食』と白い文字で刻まれている。
「今日は水曜だから、B定のメンチカツが結構、イケるんだわこれが」
 にっと悟浄は八戒の鼻先で微笑んだ。
 彼は男らしかった。極めて男らしかった。基本的にどんな困難も跳ね返す強さとたくましさがあった。アスファルトを押しのけて芽を伸ばす夏のひまわり。
 だから、八戒の足りない言葉も曲解して邪推したり、自分に悪くとったりもしない。何ごともおおらかに包み込む強さがこの男にはあった。
「行こ、八戒」
 悟浄は八戒の腕をつかむと、受付カウンターから引っ張り出した。彼が意識してようとしてまいとそれは――――まるで、幽閉された虜囚を救い出す行為に良く似ていた。
 図書館の外では講義棟が幾つもひかえ、その間を緑が埋め初夏の陽光に煌めいている。
 目の前では悟浄が屈託なく笑い、上機嫌で語りかけてくる。
 八戒はいけないと思いつつ、口元を緩めた。胸に打ち込まれていた、氷結した苦悩が溶けてゆく気がした。どこかしら心が浮き立つのを感じていた。
 その後ろ姿を、見つめる冷たい紫の視線に、悟浄に夢中な八戒が、気がつくはずはなかった。



「歪んだ薔薇 第2部(3)」に続く